2003年 第9回吃音ショートコース【発表の広場】      吃音を人生のテーマに

 2003年11月に、第9回吃音ショートコースを行いました。そのときのテーマは、先日から紹介している《建設的な生き方に学ぶ》でした。テーマは、毎年違うのですが、恒例になっているプログラムがあります。それが、発表の広場です。どもる人は自分の体験を、ことばの教室の担当者は、実践報告や研究を、どもる子どもの親は自分のどもる子どものことや子育てをしている自分のことを発表するのですが、毎年、内容が濃くて、心に残る3時間になっています。この年、発表者が9名と多く、全ては紹介できませんが、一部を紹介します。文責は編集部にあります。

吃音を人生のテーマに
       大阪教育大学・特殊教育特別専攻科・掛田力哉(大阪府)
 初めて参加した私がこんな場所で話をさせていただいていいのか迷ったんですけど、せっかくいただいた機会なので、私が考えてきたことやこれまでの歩みを通して、私が吃音をどう考えているのかをみなさんに聞いていただけたらと思います。私、声が小さいので、小さかったら「小さい!」と言って下さい。(「小さい!」という声あり)

1.吃音と出会うとき
 自分がことばが出にくいなあと思ったのは、小学校1年生です。クラスの私の前にすわっていたかわいい女の子から「掛田君、しゃべるとき、目ぱちぱちするね」と言われたんです。多分、言いにくいとき、目をぱちぱちしていたと思うんですが、自分ではそれまでは気にしたことが一回もなかったんです。初めて言われて自分の話し方に意識がいくようになってしまいました。自分が人に見られているということに全ての意識がいく人生がそこから始まってしまいました。
 クラスでは静かな子にはなりましたが、書くことが好きでしたので、「作文が上手だね」と言ってくれる先生のおかげで、なんとか学校生活を、ひっそりと送っていたんです。
 5年生のときの担任の男性教師から、「お前は、なよなよしている。はっきり物も言わないし、ほとんど集団の中に入っていかない。もっと入れ入れ」と言われました。でも、僕は、おなかが痛いと言って休んだり、ぜんそくがあったので、ぜんそくのせいにして、体育のスタンツなんてしませんでした。ぜんそくのふりをするということまでしたのは、自分がどもるということを知られたくなかったからだと思うんです。
 私、自分で言っちゃなんなんですけど、ちょっとその頃、女の子に人気があったようなんです。自分の正体を絶対に見せてはいけない、こういう格好悪い姿を見せたら、みんな、がっかりするんじゃないかと思いました。ほんと、考えすぎなんです。自分に意識がいってますから、考えすぎて、閉じこもっていました。
 ある日、みんなが見ている中で、ことばが出なかったので、先生の目の前で、足をバタバタやったんです。そしたら、「人前で、人の話を聞いてるときに足をバタバタさせる奴があるか」と、ダーンと殴られました。そういうことが2年間くらい続きました。

2.「吃音」なぜそんなに苦しいのか
 どうしてそんなに苦しかったのかと考えると、自分の問題が分からなかったからです。吃音ということばも知らなかったし、どもるということが他の人にもあるということも全く知らなかった。多分、自分は気が小さいから、消極的だから、ことばが出ないんだろうと、その思いだけをずっとひきずっていたんです。だから、誰にも話せないし、自分がダメなんだと思っていました。「おまえはおかしい、おかしい」と言われたから、本当に俺はおかしい人間なんだということをずっと思っていた。ほんとに孤独だったんだと思います。どもることそのものじゃなくて、どもるということを自分でも分からない、誰にも分かってもらえない、伝えられない。とにかく自分ひとりで悩んでいたという孤独が一番辛かったかなあと、今思っています。

3.転機
 中学校に入って、さすがに私も変わろうと思いました。入学してすぐに林間学校があって、女装コンテストがあったんですよ。私、なよなよしているとか、女っぽいとか言われてたものですから、女装したら大人気だったんです。かわいいとすごく言われて、男の子からも「手をつなぐの、恥ずかしいぐらいだ」と言われて、それで私はパッーと開けたんです。別に私にそういう趣味があるということではなくて。初めて、自分のマイナスだったところが人に喜んでもらえた。それで一歩を踏み出せたかなと、今にして思います。そのときは分からなかったけど、あれが大きな転機だったと思います。
 また、部活動で陸上を始めたんです。陸上競技は、集団スポーツじゃないですから、自分とだけ闘っていたらいいんです。自分ががんばればいいので、一所懸命がんばっていたら、足が速くなっちゃったんです。そしたら、キャプテンになっちゃったんです。キャプテンになると、自分のことだけを考えてはいられない、チームをどうするかとか、すごい責任を負わされたんです。人のことを一所懸命考えてるときって、どもらなかったんですね。自分に意識がいってるときは、すごくどもるんですけど。いつのまにか自分が吃音であるとか、ことばが出にくいという悩みを忘れるぐらいの生活が始まっていた。人のために一所懸命やったことが、私にとっては、結果的として吃音が治ったというか、軽くなったんです。
 結果的だったんですけども、人のことを考えるということを初めて経験させてもらったキャプテンでした。さらに、みんなからキャプテンやってるし、がんばってるからと、注目されてしまって、弁論大会の代表になってしまったんですよ。それも大変だったんです。私、ことばがぼそぼそしてますよね。ぼそぼそしてるし、はっきりとしゃべらないから、読むときでも、語尾が小さくなる。そしたら、担当の先生が「掛田君は、話し方が田村正和みたいだね」と言ってくれて、これがうれしかった。それを、声が小さいとか、語尾が小さいからもっと大きくしなさいと言うのは簡単だと思うんです。ところが、その話し方を味のあるものというふうに見てくれる、その先生の感性というのが、人を変えていくんだなあと思います。ダメなものだというよりもまずその味を認めるというか、あの感性のおかげで私はちょっと変われたのかなあと思っています。
 高校生になりまして、高校でまた吃音がひどくなったんです。すごく困って悩んでるときに、教科書に載っていた竹内敏晴さんの文章にすごく引きつけられて、こんなふうにことばやからだや心について考えたことがあったかなあと思いました。
 アヨ・ゴッという話を、竹内敏晴さんが書いているんですけど、ご存知の方、いらっしゃいますか。竹内敏晴さんは、耳が聞こえなかったので、「おはようございます」というのを聞いて、でもそれは「アヨ・ゴッ」にしか聞こえない。「アヨ・ゴッ、アヨ・ゴッ」というのが自分にとっては朝のあいさつだったんだけど、大人からはそれを「おはようございますだよ」と教えられて、一所懸命「おはようございます」と言ったら、それを周りの大人は「覚えた、覚えた」とすごく喜ぶ。ところがそのときに、自分の全身をつかって人にかかわっていた喜びも全部消えていて、「おはようございます」というのは、自分にとってはことばではなかったということを書いていた。
 そこで、私はもうガーンときて、それまでことばのことで悩んだけれども、ことばを話すというのは、そんなに単純なことじゃないんじゃないかと思った。ほんとにことばって難しいんだなあ、奇跡みたいなことだなあと思いました。私はそこまで、悩んだくせにことばのことをそんなに大事に考えてきたかなあと思った。もっともっと自分のことば、からだのことを厳しく見ないとあかんなあと思った。悩んだ人間だからこそ、もしかしたら私自身が何かことばやコミュニケーションについて伝えていけることがあるかもしれないなと思ったのが、この竹内敏晴さんの『こどものからだとことば』という本なんです。そういうきっかけで、私は学校で悩んだので、学校の先生になりたいと決心しました。
 そのまま、先生になるために北海道の教育大学に入りました。そこで、初めて恋人ができたんですよ。好きな人には自分の吃音のことを言えなかったんです。やっぱり言えなかった。言ったら甘えなんじゃないかと思った。ことばの問題があるということで、彼女に負担を負わせるのは嫌だったし、電話でも、一所懸命普通に話すふりをして、一所懸命話をしていました。
 あるときから、週末ごとに彼女の実家に行って、その両親ときょうだいと一緒にご飯を食べるという生活が始まったんです。これが地獄でね、彼女にとったら、うちに来て、うちのお父さん、お母さんに見せたいわという気持ちだったかもしれないけれど、地獄だったんです。とにかくなんかしゃべらなきゃしゃべらなきゃと思うけど出ないし、食べてるんだけど、味も分からない。気がついたら、一種類のおかずだけを食べてたんです。何種類かおかずがあるのに、一種類だけをずっと食べてた。そしたら、そこのお母さんから「ばっかり食い」というあだ名前をつけられて、それからは今度はあえて「ばっかり食い」をして、笑わせたりしていた。それがすごく情けなかった。そうなると、愛のことばをささやくということがない。
 ところが、その彼女からはすごく学んだことがあった。とにかく私は人目を気にしてずっと生きてきたので、それは彼女も多分感じてたんですね。この人は人目ばっかり意識して、人と自分を比べて暮らしているなということに気づいてたと思う。
 「お前のことなんかね、誰も見てないんだよ」
って、そういう表現しかできない人だったんですけど、そう言われて、単純なんですけど、そうか、俺のことなんて誰も見てないのかと、人目なんて気にしなくていいんだと思うと、すごく楽になりました。結局、その人とはけんか別れをしたんですけど。そういう、いろんな人との出会いが自分を変えてくれました。
 もうひとつの出会いは、留学生たちがすごく仲良くしてくれたことです。留学生は日本語が下手くそだし、私も日本語が下手くそだから、お互い下手くそな日本語どうしでしゃべっていると、すごく楽なんですね。留学生たちは私の話を一所懸命聞いてくれました。私のことばを日本語の代表として聞いてくれるのは申し訳ないなあと思いながらも、それがすごく楽しかった。「掛田さんと話すのは楽しい」「掛田さんには話しやすい」と留学生たちが言ってくれた。他の日本人と話すときと違って、話を聞いてくれるから話しやすいと言ってもらえたのが、またうれしかった。ああ、そうか、私は話しやすいんだ、ことばで悩んだからこそなのかなあと思った。

4.吃音と共に生きる
 みなさん、聞いてて分かったと思うんですけど、私、最近ほとんどどもらないですね。こういう場に立つ、特に人前で話すのは楽なんです。1対1で楽しい会話をしているのが一番どもっちゃうんですけど、それもだんだんどもらなくなってきた。自分があんなに吃音に苦しんだときのことを、あの悲しさも遠い記憶になってきた。ところが、そうなってくると、最近よく思うのは、困ってた頃のように、私は一所懸命人とかかわってるかなあということなんです。一所懸命どもりながら人とかかわっていた頃の方が、もしかしたらもっと自分らしい自分であったのかもしれません。今、吃音というのは、私にとっては私の全てではないんです。私にはいろんなやりたいことがたくさんあるし、夢はたくさんあります。でも、やっぱり私を作り上げてきたのは吃音のおかげですし、こうやって生きてきて、今、みなさんと会えるのも全部吃音のおかげです。吃音がなかったら、ことばや教育のことを考えなかっただろうなと思うと、私の根幹にあるのは吃音だなと思います。今回初めてそれを皆さんに言えることをうれしく思っています。
 吃音の人たち、今回皆さんに会っても、ほんとに思うんだけど、当たり前のことなんて何もないですね。ことばが話せて当たり前とか、そんなことってひとつもなくて、多分吃音の人ってそういうことを分かってるんだろうと思います。たとえば、暗い顔をしている人がいたら、よく「暗い顔、するなよ」とか言う人がいます。ところが、暗い顔をするにはきっと何か理由があるのですよね。やっぱりそういう人のことを思いやれる気持ちが吃音の人にはあるんじゃないかなって思います。
 「お前、もっと大きい声で話せよ」とか「お前、もっと明るい顔をしろよ」とか、ずけずけと人の中に土足で入ってくるような人は、吃音の人にはいないのではないかなあと思います。
 私はこれからも、教師になりたいという夢を追っていきたいと思うし、その中心に吃音を置き、吃音をテーマにして仕事も自分の人生も作っていきたいと思っています。吃音をテーマに生きていきたいなあと思っています。

 掛田力哉さんは、伊藤伸二の本を読み、集中講義を受けたいと大阪教育大学・特殊教育特別専攻科に入学。同級生である、内地留学の現職教員から参加費のカンパを受けての参加です。
(「スタタリング・ナウ」2004.1.24 NO.113)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/23

Follow me!