はじめに

大阪吃音教室や新・吃音ショートコースなどで、僕はよくしゃべります。特に、質問されると、頭が活性化され、フル回転して、それまでは考えていなかったような、その時思い浮かんだことをことばにしています。その僕のしゃべったことばを、その場にいる人がメモしてくれていることがあります。それらの人たちが時々、そのメモを僕に見せてくれます。へえー、こんなことを言っていたのかと、メモを見て、そのときのことを思い出すことがあります。反対に、「しまった。メモをとっておけばよかった」と、せっかくいいことを思いついてしゃべったのに、後から思い出すことができず、消えてしまうこともあります。

それほど多くないのですが、それを「伊藤伸二語録」にしようという話が持ち上がったのですが、なかなかまとめることができずにいました。ちゃんとまとまってからと思うと、いつ、公開できるか分かりませんので、少しずつ公開していくことにします。

ことばは、すべての人間の共有財産です。自分が言ったと思っても、どこかで、誰かが言ったことばが記憶にあって、それがつい、ことばに出たということもあると思います。しかし、その時の話の流れで浮かんだことを言ったのは僕ですから、一応伊藤の語録ということにさせてください。

短い言葉なので、誤解や曲解されることは仕方がありません。だけど、自分が話して、誰かがメモしてくださったことばなので、大切にしたいと思います。短いものなので、いろいろと想像できると思います。どう受け取るかは、読んでくださった方にお任せします。

伊藤語録

「吃音は治らない」と、あきらめることに価値がある。「吃音は治るのか、治らないのか」誰も明言できない。しかし、「私の吃音は治らない」と、治すことを諦めて、吃音にこだわらずに生きていくことはできる。完全に治らないものを治らないと諦めることはある意味当たり前だが、吃音のように、治るかもしれないことに、治らないと諦めて生きていくことに価値がある。どもるかどもらないかにこだわるのは嫌だから、吃音が治るかもしれないけれど、治っても、治らなくても、どっちでもいい。
 吃音の明確な治療法はないものの、実際に治ったという人、改善したという人はたくさんいる。病気や障害で絶対に治らないものはあります。治らないものに対しては、「治らない」とあきらめるしかありません。時間がかかってもあきらめることは必要です。しかし、吃音は、治ったという人や、ほとんどどもらない程度に改善している人はたくさんいて、治る可能性は否定できません。治るかもしれない、治らないかもしれない、そのような吃音だから、治らないと諦めて、どもる、どもらないにこだわらず、自分の言いことも言わなければならないことは、どんなにどもっても言っていく。吃音が治ることは諦めるけれど、自分の人生は決して諦めない。

他人の目から見て、すぐにわかる障害と違って、吃音はわかりにくいもの。吃音には波があり、一見(悩みの深さも)他人からわかりにくい吃音は諦めにくい。あきらめにくいのが、吃音だから、諦めることに価値がある。あきらめにくいものに対して「あきらめる」と覚悟することが大切。

どもりたくないからと、人と接する機会を減らすと、自分の中の吃音は大きくなる。しゃべることは、機械の歯車などがなめらかに回るための潤滑油のようなもの。しゃべっていると油が出てくる。しゃべらなくなると、油が出なくなってくる。エンジンを止めてしまうと、なかなかかからなくなってしまう。どもる僕たちは、つねにエンジンをかけておくことが大切。