第42回全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会第37回九州地区難聴・言語障害教育研究会

2013年7月29日(月)~31日(水)  かごしま県民交流センター・鹿児島市勤労者交流センター

鹿児島大会報告集

〈講演〉子どもと語る、肯定的物語                     ~吃音を生きて、見えてきたこと~

         日本吃音臨床研究会 伊藤伸二

 はじめに

 昨日、鹿児島市内に入り何かとても懐かしい感じがしました。48年前になりますが,私の吃音との旅がここ鹿児島市から始まったような錯覚を覚えました。

 私はそれまで、吃音に深く悩みながらも、真剣に考えることも、治す努力もしませんでした。1965年の夏、新聞や雑誌などで「どもりは必ず治る」と宣伝しており、子どもの頃から行きたかった、念願の吃音治療所「東京正生学院」に行きました。そこでまずやらされたのが、上野公園の西郷隆盛の銅像前での演説です。「突然大きな声を張り上げますが,私のどもりの克服にご協力ください」と、西郷さんが見下ろす下で、毎日演説しました。西郷さんが見守り、応援してくれているような気がしました。

 私は、48年前の上野公園の西郷隆盛の銅像を出発に、吃音一色の人生を歩み、今、鹿児島市内で西郷隆盛の銅像をあちこちで見たとき、ここにようやくたどり着いたなあという感じがしたのです。

 吃音については様々な考え方があります。「吃音に悩み、治したいと考えている子どもに、完全には治らないまでも、少しでも症状を軽減してあげるのが、ことばの教室の教員、言語聴覚士の役割ではないか」との主張があります。一般的な考え方かもしれません。しかし私は、少しでも治そう、軽減しようと考えることでとても辛い人生を歩んできたので、吃音症状に焦点をあて、軽減しようとする取り組みには反対してきました。

 午前中の岩元綾さんの講演にとても共感しました。綾さんの、ダウン症を否定しないでほしいとの心の叫びは、私の、どもりを否定しないでほしいと結びつきます。「吃音を治そう、軽減させよう」とすることが、吃音否定につながらないことを願います。

 私は今年69歳になりました。吃音と向き合った48年の人生で、いろんな人と出会い、いろんなことを学びました。セルフヘルプグループ、交流分析、論理療法、アサーティヴ・トレーニング、認知行動療法、アドラー心理学などから学んで、考えてきたことを90分の講演で話すのは難しいのですが、当事者研究、ナラティヴ・アプローチ、レジリエンス、リカバリーの概念で整理することで、これまでの取り組みを整理し、今後の吃音の新しい展望が開けるような気がしています。4つの概念について、少し説明します。

 当事者研究 生活の中で困っていることを自分一人で、あるいは、周りの人と一緒に研究して、対処法を見いだす。

 ナラティヴ・アプローチ 物語・物語るの意味で、人は「ストーリーを生きている」と考え、自分を苦しめてきた語りを、自分が生きやすい語りへと変える。

 レジリエンス 困難な状況にあっても、生き残る力、回復力、しなやかに生きる力。

 リカバリー 病気や障害が治らなくても、自分が求める生き方を主体的に追求する。

 吃音に当てはめると、吃音に振り回されずに自分が幸せに生きる主人公になることです。

 吃音を治したい、軽減したいと願うことで今の自分を否定し、悩みを深めた私や、多くの人の経験から、「吃音を治すではなく、吃音と共に生きよう」と主張してきました。その私の考えに、「吃音を治そう、軽減しよう」としても、吃音を否定しているわけではない、吃音を肯定して生きることと、吃音症状の軽減を目指すことは両立する、と主張する人からは、私は偏った意見の持ち主とだと思われているようです。

 私のような偏った考え方で、少数派の意見であることを承知の上で、全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会全国大会の講演者としてお招き下さったことは大変ありがたく、鹿児島大会の開催事務局の方々、全難言協の関係の方々に、心から感謝いたします。

 上野公園の西郷隆盛の銅像の前で、「吃音を治そう」と必死に演説していた青年が、48年の年月を経て、西郷隆盛のふるさと鹿児島市で、どもる子どもを援助することばの教室の先生の全国大会で「吃音を治そうとしないでほしい」と講演をしていること、感慨深いものがあります。

 3期に分かれる私の体験

 3歳から小学2年の秋までは、悩むことも困ることもなく平気でどもっていました。小学2年生の秋、私は当時、元気がよく、成績が良く、クラスの人気者だったので学芸会で主役をさせてもらえると思っていました。ところが、教師の配慮なのか不当な差別なのか、私は学芸会でセリフのある役を外されました。初めて吃音に対するマイナスの意識を持ちました。「どもりは劣った、悪い、恥ずかしいものだ」との吃音否定のレッテルを担任の教師から貼られたことになります。学芸会が始まって学芸会が終わる1ヶ月ほどの間に、私は全く別人になっていました。からかいやいじめが始まり、冬頃には友達が一人もいなくなりました。教師から押しつけられたこの吃音否定の価値観によって、「吃音否定」の物語を語り続けて、私は21歳まで吃音に深く悩みました。

 アドラー心理学では、劣等性、劣等感、劣等コンプレックスを区別します。どもるという客観的には劣等性があっても、劣等感をもたない人はいます。私は強い劣等感を持ったがために、劣等性を言い訳にして人生の課題から逃げる、劣等コンプレックスに陥りました。「どもるから私はできない」と、勉強も遊びもクラスの役割からも逃げ、不本意な学童期・思春期を生きました。

 この私の経験から、どもることそのものは何の問題もないが、吃音をマイナスに意識し、吃音否定の物語を語ることから問題が起こるのだと確信するようになりました。そこで私は、吃音をこう定義します。

 「話しことばの特徴をマイナスのものと意識して初めて言語病理学の研究臨床の領域の吃音になり,症状を治す、軽減する対象になってしまう」

 私は吃音さえ治れば、私の未来は開けると、吃音治療矯正所に行きました。東京正生学院の院長は「わーたーしーはー」とゆっくり話すどもらない話し方を教えてくれました。午前中は呼吸・発声練習、午後は毎日100人に、ゆっくり、やわらかく発音して、「郵便局はどこですか。警察はどこですか」と声をかける街頭練習。精神力を鍛えるために、西郷隆盛さんの銅像の前で演説をしました。日常生活でも使うように指導され、喫茶店で、「カーレーラーイースーをーくーだーさーいー」と注文すると、「カカカカカレーライスをくくください」と言っていた時よりも笑われ、からかわれました。

 一方、息子の副院長は、アメリカの言語病理学を勉強していた人で、最新の治療法を教えてくれました。どもらないようにしようとすると却って、どもる不安や恐怖が増すからそれよりも、どんどんどもって話そうと、わざと意図的にどもる「随意吃音」や、「軽く、楽にどもる方法」を教えてくれました。1か月、ふたつの方法のバランスをとりながら、一所懸命治す訓練をしましたが、私だけでなくて,300人全員が治りませんでした。治らなかったけれども私にとって良かったのは、人との出会いでした。

 私は、どもっていれば人から愛されない、社会人として生きていけないと、将来に大きな不安を持っていましたが、吃音に悩みながらも社会人として教師や営業職など、むしろ話すことの多い仕事に就いている人と出会いました。また、自分で自分が大嫌いだった私を愛してくれた初恋の人と出会えました。この出会いから、私は、どもりが治らなくても、生きていけると思いました。

 「必ず治る」と宣伝しながら、300人全員が治らなかったのは、吃音は言語訓練で治る、軽減できるものではないのではないかと、吃音を治すことをあきらめました。もう、吃音を言い訳にした逃げの人生はやめようと思いました。この転換には、私の家がとても貧乏だったのは、今から思えば幸いでした。学費から生活費まで全部自分で稼がなくてはなりません。新聞配達店の住み込みから始まった大学生活ですが、吃音治療のために新聞配達店をやめて1か月寮に入りました。退寮するときに、新聞配達には戻らずに、いろんなアルバイトで生活しようと考えました。その時、ふたつのルールを決めました。

 今まではちょっとした困難があるとすぐに「どうせ僕はどもりだから」と言い訳して逃げていたのを、どんなにつらくても1か月は我慢することにしました。また、対人恐怖だった私は、人間関係ができれば、大学の4年間そこでアルバイトを続けてしまうので、常に新しい環境に身を置こうと、どんなに条件がよくても1か月でやめることにしました。このふたつのルールは厳しく、辛い苦しい体験をしました。でも私が、逃げずにアルバイト生活ができたのは、生きるためには働かなくてはならなかったことと、治らないとあきらめて、どもる覚悟ができたことと、どもる仲間がいたからでした。

 吃音治療所で知り合った人たちと、1965年の秋、セルフヘルプグループ「言友会」をつくりました。世話役を一切して来なかった私が、自分が創立した会なのでリーダーになりました。一所懸命活動する中で私は、人前で話すこと、人の話をしっかり聞くこと、文章を書くこと、何かを企画して運営することなど、様々な力が身につきました。自分を肯定できず、人の役に立つことがなかった私が、この社会には私の居場所があり、社会は安全で、私もこの社会に貢献できるという、アドラー心理学で言う共同体感覚が身についてきました。自己肯定・他者信頼・他者貢献の感覚が、いい循環になって、私は吃音と共に生きていけると確信できました。

 縁あって大阪教育大学で聴覚・言語障害児教育の勉強をし、その後、その大学の教員になりました。私の研究室には全国からどもる人が集まり、これまでの吃音の悩みを語り合うことから、吃音が人生にどんな影響をしたかなど、吃音の人生を語り合いました。その時、ある青年からこんな体験が出されました。

 「私は、何かをしなければならないことでも困難を感じると、何かと自分に言い逃れをして逃げ、それでも自分はどもりだから仕方がないと思い込もうとしてきた。そんな自分が恥ずかしい。責任逃れをしていながら、つい自分に甘えてきた。ひょっとすると今まで私は、どもりそのもので苦しみ悩むよりも、どもりを理由に意に反して、してきた行為に対して思い悩んできたことの方がはるかに多かったかもしれない。でもそこから一歩も踏み出せないままに、その悪循環の中にどっぷりと浸っていた。どもりについて真剣に考えてこなかった気がする」

 この体験を私たちは徹底的に討議しました。これが今から言えば「当事者研究」の始まりでした。「どもる人の悩みが深いのは、治るかもしれない、もっと軽くなるかもしれないと考え、治ったら、改善したら何々しようと考えることだ」と考え、また、「吃音症状が軽減されれば、さらなる軽減を目指してしまい、完全に治るまで吃音の自分が認められない」と、一切の治す努力はやめようと、「吃音を治す努力の否定」を提起しました。

 8年をかけて到達したこの考えは、セルフヘルプグループの活動や、仲間と活動する中でできたことで、仲間や相談機関がない地方の都市で、この考えは受け入れられるかの検証をしないと先に進めないと考え、私は検証の旅に出かけました。

 1975年、3か月をかけて、35都道府県で全国吃音巡回相談会を開きました。吃音に深く悩む人だけでなく、「私は労働組合の書記長で、どもっても自分たちの主張はする」「町役場の助役で、答弁の時に私はどもりますと言い始めたら、楽になった」など、どもりながら豊かに生きている人たちがたくさん相談会に参加してくれました。これは大きな驚きでした。私が深刻に悩んできた経験から、「どもる人は、吃音に悩んでいるはずだ」と考えていました。ところが、私の主張が好意的に受け止められただけでなく、吃音と共に豊かに生きてい大勢の人と出会いました。大学の研究室の中だけではとても発見できない、吃音についての私の最大の収穫でした。

 吃音者宣言へ

 私は、担任の教師から「どもりは悪いものだ」とレッテルを貼られて、それを自分のものにしてしまいました。また、社会の中にある「どもりは治る、治さなければならない」の考え方にも、強い影響を受けました。

 中学2年生の時に手に入れた『吃音は必ず全治する、吃音の正しい治し方』(浜本正之・文芸社)には、自殺をしたスポーツ選手、金閣寺に放火をした僧などの悲劇の物語が掲載されていました。吃音が治らないと、こんな悲劇が起こるとの圧力を受けました。この本を読んだ人は、「どもりは治さなければならない」と考えるでしょう。当時の新聞や雑誌、学校の先生の話もすべてが「どもりは努力すれば治る、軽減できる。どもっていると幸せになれない」の物語でした。ところが全国巡回相談で会った人たちは、豊かに生きていました。また、私たちのグループの中でも、吃音は軽減されていないのに、豊かに生きる人が育ってきました。これまで吃音否定の物語しかなかった中に、吃音肯定の物語を伝えなければならない。私は体験を文章にすべきだと思いました。

 私たちが体験し、考え抜いてきたプロセスを、そして、吃音は、どう治すかではなく、生き方の問題に到達したことを文章にして、「吃音者宣言」文を書きました。

 世界の吃音治療の歴史

 私たちは、吃音と真剣に向き合い、話し合い、考え、研究し、10年をかけてここに到達しました。では、世界の吃音の治療の歴史はどうなっているのでしょうか。

 1903年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)校長・伊沢修二が「どもらずに、ゆっくり話す」方法を提案しました。1930年代、アメリカではアイオワ学派の人たちが「どもらずに話す」にとらわれることが、どもるかもしれないとの不安や、どもることへの恐怖を高めることになるから、むしろどんどんどもろうと「随意吃音」という、わざと意図的にどもる方法を提案しました。以来、アメリカ言語病理学は、「どもらずに流暢に話す派」と、「楽に流暢にどもる派」が激しく対立しました。

 1950年、ウェンデル・ジョンソンは、吃音は症状だけの問題ではなく、聞き手や、本人がどう受け止めるかも含めた問題だと、言語関係図を出しました。これはこれまでどもる症状だけにしか目がいかなかった吃音の歴史上、画期的な提案だったと私は思います。

 1970年、ジョゼフ・G・シーアンはさらに突っ込んで、吃音の問題は表面的にみえるどもっている状態は、氷山の水面上のごく一部で、本当の大きな問題は水面下に沈んでいると、氷山説を提案しました。吃音を否定し隠し逃げる行動、吃音は悪いものだとの考え方、不安やみじめな気持ちなどの感情こそが問題だと言いました。

 私たちが10年の活動の中で到達した考えと、シーアンの氷山説と言語関係図はぴったり合いました。その後、私たちは氷山の水面下にある問題にアプローチしてきました。交流分析、論理療法、認知行動療法、アサーティヴ・トレーニング、演劇表現、笑いとユーモアなど、精神医学、臨床心理学、社会心理学などいろんな分野から学んできました。それらはどもる覚悟を決め、吃音と共に生きることに役立ちました。

 世界最新の吃音治療について、カナダの大学院で学び、カナダの大きな病院で言語聴覚士として働き、アイスターという世界のトップクラスの吃音治療所で治療に携わっていた言語聴覚士が報告して下さいました。大学での3週間の集中プログラムは、英語の詩を40%ぐらいのスピードダウンで読んで,60%、80%、と自由にスピードコントロールできるようにする。会話は、ゆっくり、そっと、「my name わーたーしーのーなーまーえーは」と話す。これらを徹底的に身につけた後、3週間の終了時には自然なゆっくりに変えていく。「ゆっくり話す」がプログラムのすべてです。彼女が担当した青年は、15年間、500万円を使い、どもりを治すためにがんばったが治らずに、今はどもりと共に生きているそうです。この報告には本当に驚きました。1965年、私が東京正生学院で受けた治療法、さらには1903年の伊沢修二の方法と全く同じだからです。効果も限界もその経過も全く同じです。

 また、バリー・ギターが提案する統合的アプローチの「ゆっくり、そっと、やわらかく」の流暢性促進技法も、1903年から、ほとんどの日本人が失敗してきたものです。「ゆっくり、そっと、やわらかく」など、子どもたちは、教えてもらわなくても知っています。どもりそうな時にちょっとゆっくり、そっと言ってみたり、ある子どもは、クレヨンしんちゃんの話し方を真似たり、それぞれに工夫をしています。

 「ゆっくり言えばいい」は、どもる子ども、どもる人なら、誰でもが知っていても、できないことなのです。この程度の治療法しかない、吃音治療の歴史の100年の年月をどう考えるか。根本的な方向転換をするには、十分すぎる100年です。吃音は、治らない、治せないと認めて、ここから大きく展開していく必要があると思います。いつ転換をするのでしょうか。「今でしょう」と私は言いたいのです。

 第10回オランダでの世界大会

 1986年、私が大会会長となって、京都で第一回の世界大会を開きました。400人が集まった大会の閉会式の時、世界各国の人たちと肩を組んで、「次回、ドイツで会いましょう」と挨拶をした時、私は涙がぼろぼろこぼれました。今まで憎み苦しんできた吃音ですが、その吃音に対して「どもりで良かった」と心の底から思えた瞬間でした。第2回がドイツ、第3回がアメリカ、と続き、10回大会が、今年の6月、オランダで開かれました。「見ない、聞かない、言わないできた、これまでのあらゆる吃音のタブーを打ち破ろう」がテーマでした。私はあまり期待しないで6年ぶりに世界大会に参加したのですが、予想していたものとはかなり違っていました。アメリカ、オーストラリアはともかく、参加の一番多かったヨーロッパのどもる人たちは私たちの考えに近くなっていました。大会会長の挨拶、大会事務局長がスケジュールをアナウンスする時、大勢の前で、こんなにどもる人は久しく聞いたことがないくらいにみんな派手に堂々とどもっていました。

 それまでの世界大会が、言語病理学者の基調講演やワークショップが主体だったのに比べて、今回の10回大会は、吃音に苦しみ悩み、吃音の問題を熟知した当事者の声が反映されていました。脳の研究やDFA(聴覚遅延フィードバック)、リッカムプログラムなどの講演・発表が姿を消し、治療をしても治らない現実に向き合って、「吃音治療、軽減、コントロール」が多少は残っているものの、「吃音とともに豊かに生きる」にシフトしているように私には思えました。7つの基調講演のうちの2つが言語病理学者で、5つのどもる当事者の基調講演は、「吃音と共に生きる」を主張するものでした。大会期間中、会う人々はみんな、「ゆっくり、そっと、やわらかく」吃音をコントロールすることなく、自然に堂々とどもっていました。私は6回世界大会に参加していますが、こんな印象は初めてです。

 最終日のアメリカの小説家キャサリン・プレストンの基調講演は、びっくりしました。「今日は・・、今日は・・・」何度も同じフレーズを言って次につないでいきます。「ああ、今日は調子が悪い」の声がマイクからもれます。まっすぐ顔を上げて堂々とどもっている姿をみて、爽やかな感じがしました。

 特別ゲストのオランダの有名なシンガーソングライターは、「ラジオ、テレビであまり派手にどもるので、視聴者からクレームがつく。だけど私はどもっていく」と言っていました。会場にあふれる、みんなの見事などもりっぷりを耳にして、治療システムが日本よりはるかに整っている欧米でも、吃音は治らず、結局は吃音を肯定して生きざるを得ないことを表しています。参加者の、自然にどもる姿に、私はうれしくなりました。

 私は過去4回、世界大会で基調講演をしていますが、今回の「吃音否定から吃音肯定への語り ナラティヴ・アプローチの提案」が一番関心をもたれたようです。日本でも翻訳・出版されている、デヴィッド・ミッチェルという世界的な小説家は、13歳のどもる少年を主人公にした小説を書いています。そのミッチェルさんが、私の基調講演の要約を読んで共感をし、話しかけてくれました。100分ほど、ミッチェルさんと話し合ったのは、非常にうれしい時間でした。ミッチェルさんはこんな話をしてくれました。

 「私はずっと私のどもりを敵だと思い、どもりを殺したい、攻撃したい、勝ちたいと戦いました。が、いつでも駄目でした。今度は、どもりが私を攻撃してきました。私は自分の中のものと戦い、内戦し続けてきたのです。戦いに疲れて絶望したとき、自分の考え方を変えなければいけないと思うようになりました。どもりは敵ではなく、いたずらが好きな子どもなんだと思うようになりました。そうすると少しずつ私は話せるようになりました。私の友だちにアルコール依存症の人がいます。彼はアルコールを飲まないことに成功しましたが、今もアルコール依存症者です。私も彼と同じようになりたいと思いました。私のどもりは、私の腎臓のように体の一部として私の中にいます。存在の権利があります。私の遺伝子にあるものを私は攻撃したくない。攻撃するなんておかしい。折り合いをつけて、私は私のどもりに、『いいですよ。はい。あなたが私の中にいても。あなたの存在する権利を認めます。尊敬します』と言いました。そうすると、どもりも、『いいでしょう。あなたの存在の権利を認め、尊敬します』と言ってくれました」

 子どもの頃から、ことばを言い換えて生き延びてきたことが、小説家としての力になった、今はどもりに感謝していると話してくれました。

 大会期間中、「I Stutter. So, What?! 私はどもる、それがどうした」のバッチをスタッフがつけていました。私のように、どもりを「生き方の問題だ」とは言い切っていないものの、ヨーロッパの人たちは、吃音症状の軽減や流暢性にはあまりこだわっていません。ドイツ、オランダ、イギリス、スウェーデンのリーダーのワークショップでは、効果がない治療法を、どもる人たちが選択しないようにとの宣言文を検討していました。

 私の見聞きした範囲ではありますが、6年前に参加したクロアチアの世界大会の時と比べると、何かずいぶん違っているように感じがしました。

 ヨーロッパは、日本以上にどもる人に対しては厳しい環境にあります。基調講演した人たちの何人かが、子どもの頃、どもる度に先生から鞭を打たれたとか、いじめられたと語っていました。だから、日本以上に治療にこだわった時代があったのでしょう。ドイツの何人かにインタビューしましたが、1年も2年も吃音を治療する学校に行き、そこで病院の院内学級のように通常学級に通って勉強をした経験を話してくれました。日本のことばの教室とは反対の、吃音治療が中心の学校生活で集中して吃音治療を受けていましたが、みんなかなりどもっています。大会期間中、たくさんのどもることばを耳にして、久しぶりにどもる人の世界大会に来たという感じがしました。

 吃音を否定し、「完全に治らなくても、少しでも軽減してあげる」の吃音臨床から、変わる必要があると強く思いました。治らない、治せていないは世界共通でした。治らないものに、治療、改善、軽減の立場をとり、治らなければ私の人生はないと思い詰め、吃音が治ってからの人生を夢見た私たちの失敗を繰り返してほしくないと、大会期間中に強く思いました。しかし、一度吃音をマイナスに考えると、そこから「どもっても、まあいいか」と思えるようには、なかなかなりません。私は21歳であきらめました。これはとても早かったと、後で思いました。3人の体験を紹介します。

 ナラティヴから見た、3人の体験

 スキャットマン・ジョンは、私と仲の良かった世界的ミュージシャンです。彼は吃音の苦しみ悩みから逃れるために、麻薬依存、アルコール依存になり、荒んだ生活を送りました。アメリカでは生活ができなくなり、ヨーロッパに渡って、ホテルでピアノを弾いていた時、「その曲は面白い。CDに出そう」と話が出ます。「もし、ヒットしたら、インタビューを受ける。すると、今まで隠してきた吃音が公になる」。彼は最大の窮地に陥ります。妻のジュデイに「CDを出すの、やめる」と言い出します。妻は、「52歳にもなって、バレるのが嫌なら、自分で公表したら」と言われて、覚悟を決めて、曲の詩に吃音を入れ、CDのジャケットに吃音について書きました。吃音の症状が軽減されたわけではなく、ただ吃音を認めたことで、彼の人生が大きく変わりました。

 陽気で明るいミュージシャンとして「スキャットマン・ワールド」は日本でも120万枚の大ヒットとなり、プッチン・プリンの宣伝にも出ていました。国際吃音連盟の役員の私に会いたいと、大阪で会う約束をしていたのが、手違いで会えなかったのは残念でした。吃音治療ではなくて、吃音を肯定して生きるために、いろんな活動を一緒にしようと約束していたのですが、57歳でがんで亡くなりました。彼が吃音を肯定して生きたのはたった5年でした。それまでの苦難に満ちた人生を思うと、くやしい思いがいっぱいです。

 チャールズ・ヴァン・ライパーは、私が敬愛する言語病理学者ですが、どもりであれば就職ができないと、30歳の時、ろう者を装って農場に就職し、話さないで黙々とじゃがいも堀りをしていました。その生活に絶望して、山を下りる時に老人と会います。老人に「どこへ行くのか」と尋ねられた時に、ひどくどもりました。すると老人はその姿を見てげらげら笑うんです。ライパーが怒って抗議すると、老人は、「私も、若い頃は君のように力んでどもっていたが、今はそんな元気はないよ」と話しました。この出会いで、吃音を治さなくても、老人のようにどもればいいのだと考え、アイオワ州立大学で吃音について学び、世界一の吃音言語病理学者になり、多くの弟子を育てました。

 晩年は「私は私を含めて数千人のどもる人の吃音を治せなかった。慢性病の人々が、慢性病を治せないものとして受け入れるように、吃音を受け入れよう」と言い続けていました。大学でブリンゲルソンから、随意吃音を中心としたセラピーを浮けた経験から、どもり方は変えられるとの信念を持っていたようです。吃音を受け入れるだけでは十分ではない、どもり方を変えようとも言っていました。ここが、ヴァン・ライパーと私との大きな違いです。ライパーは、セラピーを受けてどもり方が変わった。私の場合は、治すことをあきらめ、生活の中でどもっていくことで、自然に変わっていった。

 ライパーは、私の敬愛する言語病理学者ではありますが、弟子のバリー・ギターの統合的アプローチ「ゆっくり、そっと、やわらかく」につながったのは残念です。ライパーと同年代に生きたら、もっと議論がしたかったと思います。

 アカデミー賞映画、「英国王のスピーチ」、ご覧になった方は多いと思います。ジョージ6世は、5年間、必死で吃音治療を受けますが、治りも改善もしません。開戦スピーチの40分前、言語聴覚士の力を借りて、必死で声を出そうとするけれどもうまくいかない。最後に彼は、「結果がどうであれ、君が僕にこれまで関わってくれたことに感謝する」とどもる覚悟を決めてスピーチに臨みます。どもる時はどもればいい。国王がどもってしゃべっても、国民は聞く権利と義務がある。国王の私はいかにどもっても、国民に伝える権利と義務があるとのどもる覚悟ができたのは、私から見れば、ナラティヴ・アプローチになっていたからだと思います。

 「俺はもうだめだ。俺なんて国王じゃない」と、泣いて妻のエリザベスにすがる姿が印象的ですが、エリザベスは、「あなたの吃音が素敵だったから、結婚したのよ」と言い、後の首相チャーチルは、「あなたこそ、国王にふさわしい」と言います。言語聴覚士も、「誠実なあなたこそ国王になるべきだ」と、あまりに言い過ぎて、喧嘩するぐらいでした。父国王も「誰よりも根性がある。お前が国王になれ」と言います。みんなの「吃音肯定の語り」が少しずつ体に染みて、「どもる時はどもればいいんだ」と、どもる覚悟ができたのだろうと私は思います。

 3人の経験を話しました。どもりの症状を治す、軽減するのではなくて、「どもってもまあいいか」と肯定的な物語に変わった時、人は変わるのだと私は思います。

 吃音を治したいとのニーズ

 「吃音を治したい、軽減したいが、子どもや親のニーズだ」と言われます。私は、吃音を治したいと言う子どもや親に、「なんで治したいの」と聞きます。すると「どもっていたら、友だちはできないし、学校生活の中で苦労するし、将来就職で苦戦し、結婚ができるか心配だ」と言います。確かに、子どもはいろいろと苦労しています。しかし、その苦労は自分が真剣に吃音に向き合えば、自分なりに解決できる問題です。治したいとの親のニーズの奥には、「子どもに幸せになってほしい」の思いがあります。それをどもりが阻むと思うから、治したいと思うのであって、治すことにこだわらなければ、学校生活の中での苦労、苦戦は、ことばの教室の先生やどもる子どもの親、子ども本人が考えて解決していける問題だと思います。

 治したいと思わない

 吃音親子サマーキャンプは、24年続いています。キャンプの様子がTBSの「ニュースバード」で流れました。中学1年生の女の子の一人が、「私はどもりを治したいなんて思わない。治らない方がいいです」と言い、もう一人の女の子は「どもりでよかったなあと思いました」と発言していました。静岡のキャンプで、「どもりを治したい人?」と言ったとき、手を挙げなかった子に「どうして治したいと思わないの?」と聞くと、「どもるのが僕だから。学校で、何回も発表するし、治そうなんて全然思わない」と言いました。 これらのことばは、48年前の私には想像もできません。当時は、治さなければ、治るはずだの情報ばかりで、こんなことばは出てこなかっただろうと思います。

 吃音は自然に変わる

 吃音は訓練をしなくても自然に変わるものだと私は思っています。吃音は、多少吃音が軽減されたり、コントロールができても完全には治らないので、アナウンサーの小倉智昭さんも「仕事ではどもらなくなったが、普段の生活ではどもる。私は吃音キャスターだ」と言います。女優の木の実ナナさんも、フーテンの寅さんの映画で、「お兄ちゃん」のセリフが言えなくて、2日間、撮影がストップした体験を語ります。職業としてことばを鍛えてきた人でも、どもる時はどもります。

 一方で、どもる人の本当の悩みは、どもれない悩みだということは多くの人はあまり気づいていません。吃音症状が軽減されると、余計に「どもりたくない」の思いが強まって、吃音を隠したい思いが膨らみ、悩みを深める例はたくさんあります。教室で教えている時は、あまりどもらなくなった教師が、卒業式で子どもの名前をが言えずに悩みます。また、課長に昇任して、大勢の前での司会で、「起立、礼、着席」の短いことばが言えない。普段はどもらないので、ある場面でどもりたくないと悩むどもる人たちはとても多いのです。その人に「ゆっくり、そっと、やわらかく」言う練習をしても、役に立ちません。普段はちゃんと話している人たちにどんな訓練が必要なのかと私は思います。どこまで、軽減されれば、その人が満足するのかの線引きはありません。軽減すればするほど、あと少し、あと少しと完全を求め、際限がありません。そして、「いつか、完全に治れば」の思いが膨らみ、吃音と共に生きる覚悟ができません。「完全に治らなくても、軽減する」は、とても危険がはらんでいることは、知っておいてほしいことです。

 ことばは生活の中で育つものです。吃音も、ことばに関しては、できるだけ小さな援助にとどめてほしいと考えています。ことばの教室で「ゆっくり、そっと、やわらかく」の話し方は教えないでほしいと思います。生活の中で、子どもたちが自然にそれを使っているのと、意図的に教えられて訓練するのとは違います。

 どもらないで話すことにこだわる、オーストラリアの親友に、今年も、オランダの世界大会で会いましたが、彼はゆっくりとどもらないように話します。どもりませんが、とても不自然です。彼とは、人間として話している気がしません。

 先日、岡山の教会の牧師さんから電話がありました。再三相談にのっている人です。彼はどもらないように一生懸命コントロールしてきたためか、周りの人から「あなたと語り合っている気がしない」と言われます。私と出会って、吃音を認めて生きたいけれども、身についたコントロールを解除するのがとても難しいと言います。ゆっくりと、抑揚のない話し方が、牧師として、信者と話すとき、人間的な会話ができないと悩んでいます

 その子の幸せを願って、将来役に立つと思って、吃音のコントロール法を教えることが、実はその人のことばの個性を奪う可能性があります。すべてがそうだとは言いません。コントロールできて幸せになる人も、中にはいるかもしれない。でも、すべてがそうではないということは知っておいてほしいと思います。

 どもる人でなければ絶対にしない、「おーはーよーごーざーいーまーすー」など、1965年に受けた特別の訓練、とても嫌でした。こんな訓練はしたくないと思いました。そういう訓練が、今またことばの教室で行われているとすると、私は胸が締めつけられるような気がします。そういう言語訓練ではなくて、日本語をしゃべる人であれば誰もが必要な日本語の発音・発声の練習の小さな援助にとどめてほしい。私たちは、知らず知らずのうちに母国語を身につけてきました。誰かから特別に訓練をされたわけではありません。人は生活の中で、自分の性格などいろんな条件の中で、自分のことばを育てていきます。

 私も、吃音を認めた21歳から、自分のことばを育ててきました。女優の木の実ナナさんも小倉智昭さんも、自分の仕事を通して、自分のことばを身につけてきました。人それぞれが、それぞれの生活の中で、自分のことばを身につけていくのが、人間の本来の営みなのです。その子がどもるからといって、「ゆっくり、そっと、やわらかく」の訓練を、第三者がして、コンピューターのような人工のことばを育てるのは、私は、子どもに大変失礼だと思います。吃音は、放っておいても、生活の中で話すことから逃げない生活を続けていれば、自然に変わります。たくさんのどもる子どもたちと出会い、たくさんのどもる人たちと出会って、本当にそう思います。

 そのような訓練よりも、その子がいかに困難な状況の中でも生き延びる「レジリエンス」を育てることが、何よりも必要なのではないかと思います。

 レジリエンス

 アメリカの心理学者、ウェルナーは、貧困、暴力など劣悪な環境で育った人を長年にわたって調査研究しました。すべての人が貧困や犯罪など大変な生活を送っているだろうと思っていたが、3分の1の人が能力のある信頼できる成人になっていたと報告しました。この人たちのことを「心的外傷となる可能性のあった苦難から新しい力で生き残る能力、回復力がある」として、「レジリエンス」があると言いました。

 2011年3月11日、あの東日本大震災で生き抜いている子どもたちの中にも、レジリエンスがあると私は思います。スクールカウンセラーとして被災地に入った臨床心理士の国重浩一さんと知り合いました。国重さんは、スクールカウンセラーとして鹿児島のいくつかの学校で勤務した人で、今は、オーストラリアにいます。国重さんは、「世間は、すぐに、トラウマ、心的外傷後ストレス障害とか言うけれど、世間が考えるほどには、PTSDに陥る子どもたちは多くはない。自然災害は誰の責任でもない、仕方がないことだと受け止めることができる」と話して下さいました。

 どもる子どもたちを見ていると、確かに生活の中で苦労はあるけれども、それなりに立派に生き延びているなあと、私は思います。

 3・11の大震災で、私は多くのことを学びました。そのひとつが、教育の持つ大きな力です。被災地では、「釜石の奇跡」と呼ばれる「防災教育」がありました。群馬大学の片田敏孝教授から、津波が起こったら、てんでんばらばらに逃げるんだという「津波てんでんこ」の徹底した防災教育を受けた釜石市の子どもたちは、学校の管理下になかった5人の子どもをのぞいて、市内の小・中学生のおよそ3000人全員が無事に生き延びました。その子どもたちがインタビューを受けて、「私たちは日頃教えられたことを実践したに過ぎない。釜石の奇跡なんかではなくて、これは僕たちの実績だ」と話していました。 一方、防災教育が徹底されなかった石巻市の大川小学校では、教職員と共に大勢の子どもが亡くなりました。なぜ子どもが命を落とさなければならなかったのか、辛い検証が始まっています。私はここに、教育の力、教育の大切さを考えます。吃音を否定することで、どのような問題が起こるのか、どんなマイナスの影響を与えるのか、私たち、マイナスの影響を受けた当事者の声を、私は伝えていきたいと思います。それを私は吃音の予防教育だと考えています。吃音になることは予防できないけれど、大きなマイナスの影響を受けないようには予防できるのです。

 私は、どもりが治らないと、軽減されないと、こんな悲劇が起こるとする、吃音否定の物語ではなく、どもりと共に生きていけるという吃音肯定の物語を語っていきたいのです。どもる子どもには脆弱性があり、ストレスに弱いから、今のうちにどもりを治してあげないといけない、軽減してあげるという「脆弱性モデル」ではなくて、この子はこの子なりに力を持って生きていけるという「レジリエンスモデル」で、吃音を考えていく必要があると思います。それには、吃音を否定しないことが何よりも大切なことになります。

 終わりに近づいていますが、私は、吃音サマーキャンプで会った一人の少女のことをお話しします。宮城県女川町から4人家族で参加しました。私たちのキャンプは、90分と120分の話し合い、90分の作文と、徹底的に吃音と向き合うキャンプです。阿部莉菜さんは、5年生までは順調に来ましたが、6年生になって何人かの男の子からひどいからかい、いじめを受け、2週間も経たないうちに、学校へ行けなくなりました。不登校のままキャンプに参加しました。彼女の思いを知っているので、私は6年生の話し合いのグループの担当をしました。第1回目の話し合いのときの彼女は、顔がこわばって、緊張しながらその場にいました。みんなが少しずつ自分の吃音について話し合うのを聞いて安心したのか、手を挙げて「ちょっと私の話を聞いて下さい」と話し始めました。

 「私、今、学校に行ってないんです」涙をぼろぼろこぼしながら、学校へ行きたいのに行けない悔しさを話しました。すると、キャンプに複数回参加している子どもたちは、話し合うことに慣れているので、共感的に「ああそうか、それはつらいねえ」のような聞き方はせず、「その男の子は、どんな子?」「その時、先生はどうしていたの?」「からかわれた時に莉菜ちゃんは何を考えたの?」と、どんどん質問をします。質問を受けて、彼女は、学校の様子などいろんな思いを語りました。「そんなしょうもない男の子のために、大好きな学校へ行けないのは損やんか」などの発言がありました。そして、1日目が終わり、一夜明けて、2日目の朝、作文教室でこんな作文を書きました。

  私は学校でしゃべることが、とっても怖かったです。どうしてかというと、どもるから。しゃべっていてどもってしまうと、みんなの視線がとても気になります。そして、なんだか「早くしてよ」と言われそうで、とってもとっても怖かったです。でも、サマーキャンプはちがいました。今年初めてサマーキャンプに出てみて、みんな私と同じでどもっているんだ。私はひとりじゃないんだと思いました。そして、同じ学年の人との話し合いがありました。その時思ったのは、みんな前向きにがんばってるんだ。なのに私はどもりのことを引きずっていた。全然前向きに考えていなかった。その時私は思いました。どもりを私の特徴にしちゃえばいいんだ。それと同じ時、キャンプに行く前にお父さんに言われたことを思い出しました。「どもりも立派ないい大人になるための肥料なんだ、肥やしなんだ」と。そうだ、どもりは私にとって大事なものなんだ。そういうことを昨日思いました。そして今日朝起きたとき、気持ちが楽でした。まだサマーキャンプは始まったばかりですが、とっても学校などでしゃべれる自信がつきました。

 学校にはまだ、いじめる子がいます。クラスの担任の先生が、いじめている子どもに何の指導もしていません。また、同じことが起こるかも知れない、何も変わっていない安全とはいえない環境なのに、キャンプが終わった後すぐに、彼女は学校へ行き始めました。

 ナラティヴ・アプローチは、本人の語る否定的な物語の中に、語り切れていない「ユニークな結果」を引き出す質問をします。そして、それを肯定的物語に変えるお手伝いをします。子どもたちの発言の中に、こんなものがありました。「莉菜ちゃんは学校へ行きたいから、このキャンプに来たんだよね。遠いところからキャンプに来た。すごいねえ」。キャンプに参加している子どもたちは、ナラティヴ・アプローチのことばさえ知りません。それなのに、こういう発言をする子どもたちの語る力を尊敬します。

 莉菜さんは中学1年生、2年生とキャンプに参加し、将来は福祉の仕事に就きたいとの夢を語っていました。中学3年生の時、クラブの試合と重なって、キャンプに参加できませんでした。そして、2011年3月11日、大津波に巻き込まれて、お母さんと共に彼女は亡くなりました。私は、この5月の連休に彼女が幸せに生きた宮城県女川町に行ってきました。瓦礫が片付いただけで、まだ一面焼け野原のようです。こんな遠いところから、彼女は滋賀県のキャンプに家族で来ていたんだなあと思いました。彼女の生きていた場所で冥福を祈ってきました。阿部莉菜さんのことは決して忘れないでおこうと、その後の講演活動で話しています。

 当事者研究

 吃音症状の軽減が、自信になり、幸せにつながる子どももいるかもしれません。けれども、私がたくさん出会った子どもたち、48年間の吃音人生の中で会った数千人の人たちは、どもりを治そう、軽減したいと思い詰めて悩んできました。そして「まあ、どもってもいいか」と吃音を肯定して生きることで人生が変わってきました。私は子どもと共に「吃音否定の物語」から「吃音肯定の物語」に変えていくことが、教育の現場であることばの教室でできる最大のことではないかと思います。

 吃音を治す、軽減するは、医療の発想です。私たちは、学校生活の中で苦戦をする子どもたちと、苦戦をしている課題に「当事者研究」の考え方を使って研究を進めます。子どもたちは「当事者研究」と言うと「研究? 研究するの?」と目を輝かせて自分の困っていること、困難に思っていることを研究しようとします。自分の課題のすべてを専門家に丸投げするのではなく、自分自身が主人公になって、自分の課題に取り組むのです。

 子どもと何を学ぶか

 子どもと吃音否定から肯定的な物語を語るために、何が必要かを考えます。

 私たちが苦しんだのは、吃音についての正しい情報がなかったからです。どもりは必ず治るとの情報しかなく、治療法があり、治ると思っていました。ところが100年経っても、ゆっくり言うことしかない。孫がどもった時に、おじいちゃんおばあちゃんでも、「ちょっとゆっくり、そっと言ってみたらどう?」と言うでしょう。この程度のことが治療法だとの現実を、子どもたちに伝えるべきだと思います。そして、子どもが吃音と共に生きていくのに役立つ知識を学びます。私が、東京正生学院で「まあどもってもいいか」とあきらめがついたのは、吃音に悩んでいるから東京正生学院に来ているけれど、帰ったら、学校の教師や会社の営業職など、話すことの多い仕事に就き、どもりながら生きている人と出会えたからです。当時大学生だった私は、どもりながらでも社会人として生きていけるんだと安心しました。

 ことばの教室の教師仲間と書いた『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)には、どもる人がどんな仕事に就いているかのワークがあります。子どもたちは、どもる人がこれだけ多くの仕事に就いていると知ってびっくりします。どもる人がどんな人生を送っているか、知ってほしい。吃音と共に豊かに生きている先輩と出会ってほしい。「どもりを治したい、やっぱりどもっているとだめだよね」という、今吃音に悩んでいる先輩ではなく、どもりながら苦労しながら生きてきた先輩と出会ってほしい。

 吃音親子サマーキャンプには、複数回参加している人と初めて参加する新しい人が混じり合っています。子どもたちが変わっていくのは、先輩の子どもたちが、自分が学校で苦戦しながらも、豊かに生きていることを語るからです。そして、そのことを聞いて学んでいくからです。また、肯定的な物語を語るために、自分のことを語る力を育てたい。対話する力がどんどん落ちていると言われています。ちょっと批判されると、すぐ相手を攻撃する、嫌な日本になってきています。人と人とが違うのが当たり前で、それを乗り越えて対話していく力を身につけてほしい。

 私が一人でどもりに苦しんでいた時、役に立ったのは読書と映画です。一人ぼっちだったから、時間がたくさんあったので、たくさんの児童文学や小説を読みました。中学生では、映画ばかり見ていました。私は読書や映画から、いろいろな苦しみがある中で、人は生きている、他人の人生を学びました。吃音を治すためではなく、生活の中で力のあることばを育て、日本語の発音・発声についても学んでほしい。私たちは、詩や演劇の手法を使って自己表現を学んでいます。

 私は、からかいや真似をされることで、みんなは話を聞いてくれないと、他人を信じられずに悩みました。学校のみんなは自分のことを分かってくれない、敵だと思うと、いくら自分がどもっても大丈夫と思っても、音読や発表はできません。

 アドラー心理学で言う共同体感覚は、「私は私のことが好きだ」という自己肯定、「人々は仲間で、信頼できる。中にはからかったり真似する子もいるけれども、基本的には先生も友だちも、私の仲間だ」と思える他者信頼、「私は人の役に立っている能力がある」とする他者貢献の3つから成り立ちます。私は、セルフヘルプグループの活動の中で、自己肯定、他者信頼、他者貢献を取り戻しました。今まで人の役に立ってこなかった私が、創立した会のリーダーになりました。すると、「伊藤さん、今度の行事、良かったね」と会員が喜んでくれた。自分も人の役に立っていると思えて初めて、他者貢献が、自己肯定になり、他者信頼へと循環していきました。自己肯定感だけを育てようと思っても無理です。他者貢献、他者信頼があって初めて実現します。共同体感覚を育成するために、学校生活の中で、クラスの中で、その子がどんな役割を持つのか、どういう生活をするのかを通常学級の先生とことばの教室の先生と一緒に考えてほしい。そして、劣等コンプレックスに陥らないようにしてほしい。

 人が生きていく上で、劣等感があるのは当たり前で、劣等感がない方がおかしい。劣等感があったとしても、そのために逃げることはやめたい。「どもりだから~できない」と、課題から逃げる人生は、今から思うととても残念です。劣等感があっても、そのために、劣等コンプレックスに陥らないようにする。そのためにも、共同体感覚の育成が必要だと思います。

 氷山の水面下への取り組み

 アメリカ言語病理学は、氷山の上の部分だけに取り組んでいるように私には思えます。吃音肯定、吃音受容のことばは使うけれども、実際の取り組みは、「ゆっくり、そっと、やわらかく」の流暢性促進技法のアプローチです。吃音氷山説の上の部分の吃音は、日常生活を大切に、人を大切に、自分を大切に生きていけば、自然に変わります。自然に変わるのだから、軽減する方だけでなく、前よりどもるようになる子どももいます。

 小学4年生からサマーキャンプに参加し、あまりどもらないままに高校3年生で卒業した子が、大学2年生になってかなりどもるようになり、周りが心配しました。でも、彼女は、どもる覚悟、自己概念がしっかりしていたために、接客のアルバイトをしながら、大学を卒業し、薬剤師として、大きな病院で働いています。吃音も3年ほどで元の状態に戻りました。

 アメリカ言語病理学は、放っておいても変わる吃音症状を「治す、軽減する」ことに取り組むものの、放っておいたら変わらない氷山の下の部分の、行動・思考・感情への取り組みをしません。私たちは、吃音を否定することから起こる、氷山の水面下の課題にアプローチするために、認知行動療法、アサーティヴ・トレーニング、論理療法など、たくさんのことを学んでいます。吃音に絡めたそれらの本を出版しています。興味がもてたら、お読み下さい。

 おわりに

 オランダの世界大会で、たくさんのどもる人たちのことばを聞いた時、私は教育評論家の芹沢俊介さんが、私の『新・吃音者宣言』(芳賀書店)を、「どもる言語を話す少数者という自覚は実に新鮮である」と紹介して下さったのを思い出しました。その本の中で、こんな文章を書いていました。それを最後にお伝えして、講演を終わります。

 「治らないから受け入れるという消極的なものではなく、いつまでも治ることにこだわると損だという戦略的なものでもない。どもらない人に一歩でも近づこうとするのではなく、私たちはどもる言語を話す少数者として、どもりそのものを磨き、どもりの文化を作ってもいいのではないか。どもるという自覚を持ち、自らの文化を持てた時、どもらない人と対等に向き合い、つながっていけるのではないか」

 私の大切なことばの教室の教師の仲間たちと一緒に作った『吃音ワークブック』には、氷山の水面下のへのアプローチのワークが載っています。NOP法人全国ことばを育む会のパンフレット『吃音とともに豊かに生きる』には、48年間の私の人生が凝縮されて書かれています。48年間の人生を、90分の講演で語るのは難しいことです。私の話に少しでも共感する部分がありましたら、是非お読み下さい。いつも本の宣伝で終わって、恐縮ですが、ちょうど時間になりました。ご静聴、ありがとうございました。

第47回 北海道言語障害児教育研究大会 渡島・函館大会 

2014年9月12日 

  どもる子どもと向き合い、子どもと語る 

   ~当事者研究、ナラティヴ・アプローチ、レジリエンス~

          日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

                       

            はじめに

 講演前に、今、話さないと忘れそうなふたつの話をします。
 「私は、社会不安障害と診断され、教師を続けるには常に安定していなければと、ずっと薬を飲んできました。伊藤さんの話を聞いて、多少の不安があるままの私でいいのだと思い、薬をやめて、今2ヶ月になりますが、薬を手放せてよかったです」
 7月の札幌市での「言語障害臨床研修会・吃音」に参加した人が、会場で話しかけて下さいました。僕の吃音の話を、自分の人生に置き換えて受け止めて下さったこと、涙がにじむ、うれしい話でした。
 会場の書籍コーナーに東田直樹さんの『自閉症の僕が飛びはねる理由』などの本が並んでいます。東田さんが世界的に注目されるようになったきっかけは、イギリスの著名な作家、デイビット・ミッチェルさんが、その本を翻訳し、海外で出版されたからだと、NHKの番組で知りました。デイビット・ミッチェルさんとは、昨年6月、オランダで開かれた、第10回世界大会で親しくなりました。僕の基調講演の要約を読んで共感し、話しかけて下さいました。長い時間話した中で、「私は、今までどもりと戦い、戦いに疲れて絶望して、自分の中のどもりを認めて、その後の人生が変わった。伊藤さんとまったく同じ考えです」が、とても心に残りました。

 では、本題に入ります。北海道は思い出深いところです。大学4年生の時、3ヶ月かけて日本一周をしました。その旅の中で、函館の夜景を見た時、涙がぼろぼろこぼれました。風景を見て涙を流すのは最初で最後の経験です。なぜ、函館の夜景に涙を流したのか、函館に来てずっと考えていました。僕は小学校の2年生から苦しい学童期、思春期を送りました。僕を理解するひとりの教師もなく、友だちもなく、勉強もせず、夜はいつも自転車でさまよい、夜の浜辺に打ち寄せる波を見ていました。函館の夜景が、苦しかった頃を思い出させ、今の幸せを、宝石のようにちりばめられた夜景に見たのだと思います。
 僕は、吃音を否定し、「吃音が治らないと、僕の人生はない」と思いつめ、「治る」ことばかりを考えて生きてきました。21才の夏休み、1か月、吃音治療所で必死に治す努力をしましたが、治らず、治すことをあきらめ、「吃音と共に生きていこう」と決意しました。「どもっても、まあいいか」と、吃音を認めることで僕の人生は変わりました。苦しかった時代と、今の違いは「吃音を否定しているか、肯定しているか」だけです。
 この僕の経験や、「吃音否定し、吃音との戦いに敗れた」たくさんの人の人生を聞く中で、どもる人の苦しみの根源に、「吃音否定」があると確信するようになりました。「吃音を否定しないでほしい」が、僕の話したいことのすべてです。だから、吃音を否定する動きには敏感に反応し、それに対して僕はずっと戦ってきました。
 アメリカ言語病理学が、「吃音治療・改善」にいつまでもこだわる中で、日本のことばの教室のみなさんは、「吃音を治す」にとらわれていません。リッカムプログラムや統合的アプローチなどが紹介されると、言語訓練しなければならないのかと不安になるかもしれませんが、これまでの指導にどうか自信をもって下さい。
どもる子どもに、「あなたはあなたのままでいい。あなたは一人ではない。あなたには力がある」と僕は言ってきましたが、ことばの教室のみなさんが、同じメッセージを、僕の話から受け取っていただければうれしいです。
 7月、札幌市で開かれた「言語障害臨床研修会・吃音」に僕が招かれたのは、昨年7月、札幌のどもる看護師の青年が自殺したことを受けてのことだと思います。今後どもる子どもの教育をどう考えるかを話したのですが、90名近い参加者の皆さんから、これまでの自分の取り組みが間違っていなかったと確認できてよかった、新しい視点が得られたなどの感想をいただきました。その感想に勇気を得て、今回も僕の考えを思い切って話します。
 「吃音の理解がない社会の中で、学校生活を送ったり、仕事をしたりするとき、吃音は大きな障害になる。完全には治らないまでも、少しでも、吃音症状を軽減し、改善してあげることが必要だ」
 あのようなできごとが起こると、このような意見が出てきます。この、どもる人、どもる子どもの幸せを考えているかのような考え方は、役に立たないどころか、弊害があると僕は考えています。「改善してあげる」は、治療法があり、訓練や本人の努力で症状の軽減、改善ができる場合に言えることです。「ゆっくり、そっと、やわらかく」の1903年に始まった治療法は、ほとんどの人が失敗してきたものです。これほど医学、科学が進歩した時代でも、「ゆっくり話す」こと以外、吃音の治療法はありません。治療法がない吃音を否定し、少しでも改善しなければと考えることは、どもる現在の自分を否定し、悩みを深めます。これは、僕を含め、世界中のどもる人が散々経験してきたことです。
 自殺というできごとがあったからこそ、「吃音を改善する」ではなく、吃音と向き合い、吃音哲学を学び、「吃音とのつきあい方」を学ぶ必要があります。理解がない社会であっても、サバイバルして生き抜く力を育てることが必要です。まず、吃音への理解が全くない職場でサバイバルしている若い消防士の話をします。

 消防士の体験
 彼は、大学生4年生の時、「僕は消防士になりたいが、僕のようにどもる人間が、緊急の連絡や報告が多い消防士になってもいいのか」と相談してきました。
 「どもることでの苦労はどんな仕事に就いても出てくる。自分のしたい仕事で苦労したほうがいい。何年かかっても夢を追求してほしい」と僕は薦めました。彼は、面接でかなりどもりましたが、東京消防庁に合格しました。しかし、消防学校は予想以上に過酷な場所でした。担当教官の控え室に入るときには「何年度、何組の誰々、入ります」と言わなければならないが、自分の名前が言えない。練習を何度もさせられ、「インターネットには、どもりは治せるとある。消防学校の間に、どもりを治せ」と言われました。さらに、「お前のようにどもっていて、東京都民の命が守れるのか」とも言われました。とてもつらかったと思います。僕たちは彼の話を徹底的に聞き、支えました。そして、彼は苦労しつつも、消防学校の1年間を終える日、こんなメールをくれました。

 伊藤さん、おかげで明日消防学校を卒業することになりました。10月からは消防学校学生兼職員として消防署に勤めていたのですが、10月からの半年間は、正直、消防学校とは違った意味のつらさがありました。電話が鳴ると若手が積極的に出るのが当たり前なのですが、電話の第一声がどうしても出ません。でも、それが仕事なので甘えることはしていません。自分なりに工夫して多少第一声が出やすい方法を見つけるのですが、それに慣れてきた頃にはその方法でもことばが出なくなります。そしてまた新しく何か方法を考え、それでも出なくなる。そのいたちごっこで大変でした。今現在吃音が激しい時期で今日は一人ずつ名前を呼ばれて返事をするのもことばが出ませんでした。
周りから特にとがめられることはないのですが、自分自身がこのことを全く気にしない、というメンタルはまだないようです。しかし、消防活動技術の試験では褒められることもありました。正直電話応対やコミュニケーションの面で人より時間がかかり、聞き取りづらかったり、迷惑をかけたりすることが多々あると思いますが、これなら負けない、というものを見つけてがんばっていきたいと思います。4月からは本庁で勤めることになりました。また環境も変わり、吃音の調子も変化していき、しんどいことも増えていくと思いますが、がんばります。とりあえず、今は明日の卒業式で「はい」といえるのかどうかが不安です。また伊藤さんや大阪の皆さんに力を借りることがあると思いますが、その際はよろしくお願いします。 (1)

 なぜ彼は、1年間の厳しい消防学校生活に耐え、今消防士として働くことができているのか。ここにどもる子どもの指導に生かせるポイントがあります。彼は、小学4年生から吃音親子サマーキャンプに参加し、吃音と向き合い、吃音について語り合い、学習してきました。そして、彼には、困ったとき、いつでも相談し、一緒に考えてくれる両親や、どもる大人がいました。困難な状況でもしなやかに生き延びる、回復力である、レジリエンスが彼に育っていたのです。「吃音を生きる力」を育てることの大切さを物語っていると思います。生きる力、レジリエンスを育てるのが、ことばの教室の役割だと僕は考えています。

 
          吃音の問題とは何か

 吃音は治らない、治せない
 「完全には治らないまでも、少しでも吃音の症状を軽減してあげるのが、ことばの教室の役割ではないか」との主張が根強くあります。しかし、原因がわかっていない吃音は、薬や手術の治療法はありません。軽減してあげるのが役割だと言われても困ります。ある治療法で「治った、軽減した」との論文が出されても、それは訓練室の中だけのことで、その成果を持続させ、日常生活に生かせないのは、100年以上、ずっと変わらず続いている世界の吃音の治療の限界で、常識です。
 世界最新の吃音治療について、カナダの大学院で学び、カナダの大きな病院で言語聴覚士として働き、アイスターという世界のトップクラスの吃音治療所で吃音治療に携わっていた言語聴覚士の池上久美子さんが実情を報告してくれました。(2)
 「ゆっくり話す」のスピードコントロールが、治療法のプログラムのすべてで、4週間の治療で効果があったとする人も、100%が再発するそうです。彼女が担当した青年は、アイスターやアメリカの著名な大学教授に治療を受け続け、15年間、500万円を使ったが治らず、今は、どもる事実を認めて生きています。
池上さんが、カナダの大学院で言語病理学を学んだときは、吃音治療の話ばかりで、「吃音と共に生きる」発想はまったくないどころか、「吃音受容」もことばだけで、1970年に出された「吃音氷山説」は、説明すらされなかったそうです。世界トップクラスの北米の最新の治療法は、1965年、僕が東京の吃音治療所で受けた治療法や、1903年の伊沢修二の楽石社の方法と全く同じです。
 100年以上も効果のなかった言語訓練を、僕たちは45年前にきっぱりとやめました。世界一の吃音研究者であり、臨床家のアメリカのチャールズ・ヴァン・ライパー博士も、80年の生涯をかけて「吃音は治せない」と言い続けました。
 「私はこれまで数千人以上のどもる人の治療に当たってきたが、自分を含めて、誰ひとり吃音を治せなかった。新しい治療法が提案されるたびに、一つくらいは本物があるだろうと期待して調べたが、すべてインチキで、何一つ満足できるものはなかった。心臓病などの慢性病を受け入れざるを得ないように、吃音を受け入れましょう」 (3)
 この主張は、僕と似ていますが、ライパー博士は「吃音を受け入れるだけでは十分ではない。どもり方は変えられる」と、「楽にどもる」ことも提唱しました。ライパーの弟子、バリー・ギターは、「吃音を受け入れる」ことより、流暢性促進技法の「ゆっくり、そっと、やわらかく」の言語訓練を強調しました。しかし、それも全く効果がないのです。それが、アメリカ言語病理学の限界です。(4)
 僕も、ライパー同様に、48年の吃音の取り組みの中で、数千人のどもる人に出会いましたが、誰も治っていませんでした。「吃音は治らない、治せない」と考えて、「吃音といかにうまくつきあうか」に集中する僕と、「楽にどもる」のライパーや、「流暢性の形成」にこだわる、弟子のバリー・ギターとは、根本的に違います。
 どもる人たちも、完全に治ることを求めているわけではなく、少しでも軽減し、言いたいとき、吃音をコントロールできれば、楽にどもれればいいと考えています。しかし、それができないから、どもる人は悩みます。15万人以上いるといわれるアメリカの言語聴覚士の95%が吃音の臨床に苦手意識をもつのは、吃音の改善、コントロールも教えられないからです。それをめざすと、教える方も教えられる方も苦しくなります。僕たちの仲間の、ことばの教室の担当者や言語聴覚士は、それらをまったく考えていないので、苦手意識はありません。吃音は、治せないだけでなく、軽減させることもできないと考えて下さい。

 あまり意味のない吃音の改善
 吃音の症状だけが吃音の問題なら、症状の重い人より、軽い人の方が悩みが小さく、吃音からくるマイナスの影響は小さいはずですが、その反対の場合が実に多いのです。かなり吃音の目立つ人が、どもる事実を認めて、教師など話すことが多い仕事に就いている一方、吃音と分からない程度の人が吃音に深く悩んでいます。吃音は、どこまで、症状が軽減されれば、その人が満足するかの線引きはありません。軽減すればするほど、あと少しあと少しと完全を求め、際限がありません。そして、「いつか、完全に治れば」の思いが膨らみ、吃音と共に生きる覚悟ができないのです。それだけではなく、人生の旅立ちをも遅らせる危険があるのです。
 成人のどもる人の苦悩は、「どもれない苦しさ」です。50歳で課長に昇進した人が、大勢の前で、「起立、着席、願います」の決まった短いことばを言えません。普段の業務は、問題なくこなせているので、どもりたくないのです。年に2回の司会のために、仕事を辞めようかと悩んでいます。吃音が改善されても、吃音を否定していれば、さらなる大きな悩みが始まります。多分、みなさんがどもる人のグループのミーティングに参加したら、驚くだろうと思います。からだとことばのレッスンの竹内敏晴さんが、僕たちのところに最初にレッスンに来て下さったとき「これくらいしゃべれれば十分じゃないか。私は君たちを治そうとは思わない」と言われました。僕たちも当然それを竹内さんに求めたわけではありませんが、あまりどもらない人が多いのに驚いたのです。
 学校で音読や発表が苦手な子に、音読や発表の練習をして、学校でうまくどもらずに音読や発表ができたとしても、そのときはいいのでしょうが、それが生きる力になり、将来的にも大丈夫ということにはなりません。小学校6年間、ことばの教室に通い、あまりどもらないままに卒業した子どもが、中学生、高校生、大学生になって、あるきっかけで悩み始め、学校へ行けなくなるなどの話は、僕はたくさん聞いています。

ことばの教室で改善できなくても大丈夫
 2002年の全国難聴・言語障害教育研究協議会・千歳大会で、千葉市のことばの教室の渡邉美穂さんが6年生の男子K君の実践を報告しました。吃音を肯定し、どもりながら堂々と発表する姿をビデオで紹介したのですが、「ことばの教室で6年間指導したのに、こんなにどもらせて、成果があったと言えるのか」と助言者から厳しく批判され、会場も批判的な空気に包まれ、渡邉さんは悔しい思いをしました。その後、僕は大学生になったK君と会ったのですが、ビデオでみた彼とは違い、あまりどもらなくなっていました。「ビデオの撮影のとき、すごくどもりながら最後までできたのは気持ちがよかった。ことばの教室で、吃音について話して、勉強したことがよかった」と彼は話してくれました。
今、彼は千葉県のある市役所で楽しく働いています。どもったまま卒業しても、吃音を学べたことばの教室の取り組みは、彼を大きく成長させたのです。渡邉美穂さんは、2011年の全難言・札幌大会では「どもりカルタ」の実践を発表しましたが、北海道の人たちから好意的に受け入れられたと喜んでいました。

 吃音の改善を目的とした言語訓練の副作用
 「吃音は悪いものと否定しているわけではない。吃音を肯定しながらも、改善に向けての努力はすべきだ」との意見は根強くあります。しかし、僕たち当事者の間で長年論議した結果、両立はできないと、「吃音を治す努力の否定」を40年以上も前に提起し、一切の吃音を改善する努力をやめました。吃音を認めながら、治す・改善する努力ができる人なら、そうすればいいですが、子どもの場合は、難しいです。
 リッカムプログラムの、どもったら言い直しをさせ、どもらなかったら褒めるというアプローチは、子どもが吃音を否定する可能性があります。また、ことばの教室の先生が、治すために「ゆっくり、そっと、やわらかく」などの言語訓練を一所懸命してくれればくれるほど、「どもることは、いけないことだ」との、吃音へのネガティヴな感情や考えを子どもに持たせてしまいます。吃音を少しでも軽くしてあげようは、教師の善意には違いありませんが、改善を目的とした言語訓練は、「吃音否定」の物語を作りかねないのです。
 吃音否定から、逃げの人生を歩む結果となりやすいのが、吃音の治療から受ける副作用です。吃音を強く否定した人が、「どもっても、まあ、いいか」の吃音肯定の道筋に立つのは並大抵のことではありません。僕は21歳でしたが、チャールズ・ヴァン・ライパーは30歳、僕と仲の良かった世界的ミュージシャン、スキャットマン・ジョンは52歳までかかりました。吃音の改善を目的にした言語訓練をする人は、「あなたたちは、ただ遊んでいるだけ、話しているだけではないか」と、みなさんを批判するかもしれません。その批判に耳を貸す必要はありません。「遊び、語り合う」に大きな意味があるのです。これらのことは、子どもが成長し、変化する妨げにはなりませんが、吃音を改善しようとする言語訓練には副作用の危険がはらんでいるのです。

 吃音氷山説
吃音の問題は、氷山のようなものです。吃音の原因は分かっていませんが、吃音に悩み、生活にまで影響する原因は分かっています。吃音を否定することが悩みを深め、マイナスの影響を与えます。1970年にジョゼフ・G・シーアンは、吃音氷山説を提起しました。(5) 吃音の症状は吃音の問題のごく一部だとし、言語訓練室で、母音の引き伸ばしや、ゆっくりしたしゃべり方を教え、徐々に普通のしゃべり方へと近づけて、日常生活でも使えるようにしようとする「どもらずに流暢に話す派」を専門家として無責任だと激しく批判しました。(6)
 シーアンの氷山説の水面下の問題について、私はこう整理します。
〈行動〉吃音を否定し、吃音を隠し、話すことから逃げ、消極的になっていく行動
〈思考〉どもりは悪い、劣った、恥ずかしいもの、どもっていては有意義な人生は送れないなどの考え
〈感情〉不安、みっともない、恥ずかしい、恐ろしい、情けないなどの感情
〈身体〉緊張して話すとき硬直してしまうからだ、人と触れあうのを拒むからだ
 これらは、人間関係の中で不安や劣等感、様々な悩み、生きづらさを抱えている人がもつ共通の課題です。精神医学、臨床心理学、社会心理学などの領域は理論や技法をもっています。吃音の症状にこだわらなければ、これらの領域から学ぶことができます。僕たちは、3日間のワークショップで、交流分析、論理療法、アサーティヴ・トレーニング、笑いとユーモア、竹内敏晴・からだとことばのレッスン、認知行動療法、森田療法、アドラー心理学、当事者研究、ナラティヴ・アプローチなどを学び、冊子として、書籍として出版しています。

 
      人や吃音が変わるということ

 人が変わる要因
 アメリカの臨床心理学者が3年間かけて1960年代から現在までの、来談者中心療法、精神分析、ゲシュタルトセラピー、認知療法など心理療法3000件の論文で人間が変わっていく要因を調べました。人が変わっていく効果の要因を100%にして、効果があった共通の要因を明らかにしました。
   特殊な訓練などのスキル                15%
この人なら、この治療法、この病院ならなどの効果期待  15%
   セラピストとの関係性の質 共感性        30%
   セラピー以外の、何か特定できないこと 40%
 この、人が変わる効果の統計的、科学的エビデンスは、臨床心理学の世界の人たちを驚かせ、大騒ぎになりました。しかし、事実は事実として受け止めて、今後カウンセラー教育にどう生かすか模索していると、スクールカウンセリングの第一人者で、大学院で臨床心理士の養成にあたる、九州大学の村山正治名誉教授が話して下さいました。(7)
 吃音も、言語訓練のスキルは役に立ちません。教師と子どもとの人間関係、子どもと楽しく遊び、喜んで通級してくることでの期待、その子どもの家庭生活や学校生活などの日常生活で起こる様々な出会いやできごとが、吃音や子どもが変わることに影響しています。

 吃音は自然に変化する 
 吃音は言語指導を受けずとも、言語訓練をしなくとも、どもりながら話していく日常生活の中で自然に変わっていきます。幼児期の吃音の45%は自然消失しますし、場面で吃音は変化します。吃音が自然に変わるのは、明らかです。
 吃音親子サマーキャンプで会う子どもたちも、どもる人のセルフヘルプグループ、大阪吃音教室の仲間もそうです。この変化は、自然に変わったものですが、あまりどもらなくなった結果だけを見て、言語訓練でも「吃音は改善できる」と錯覚してしまいます。
 音読ができるようになったことが自信になり、その後の生活が充実してきたという子どもが中にはいるかもしれません。しかし、どもる覚悟、吃音と共に生きる覚悟ができていないと、何かのきっかけで、再びどもり始め、悩むことはよくあります。大学生が就職を控えて、あるいは社会人になって3年目に、また、昇進したことがきっかけで、最近よくどもるようになったと、相談の電話をかけてきたり、セルフヘルプグループに来る人は、とても多いのです。
 吃音親子サマーキャンプに小学4年生から参加し続けた伊藤由貴さんは、キャンプ卒業時ほとんどどもらなくなっていたのに、大学の薬学部の2年生から3年間かなりひどくどもるようになりました。母親や周りは慌てましたが、本人はなんとか乗り切り、今は薬剤師として働いています。吃音症状の改善よりも、吃音と共に生きるという、自己概念の方が大きな力になった例です。(8)
  
 日常の学校生活の中でこそ、吃音は変化する 
 近藤邦夫・東京大学教授が、小学校の4年生の授業を見学したとき、出会ったどもる子どものことを書いています。
 -この学校のどの教科の授業でも、子どもたちが「自分が考えたこと」や「感じたこと」をものおじせずに積極的に表現する。「合唱」で、曲に合わせてからだをしなやかに動かし、のびやかに声を出している。その中に、強度の吃音症状を示す男児がいた。言い終えるまで長い時間がかかる男児に、子どもたちは、ざわつくことも苛立つこともせず、「それが当然」と、彼の発言に耳を澄まし、彼も堂々と時間をかけて発言していた。二年後訪れた時、他の子どもと見分けがつかなくなっていた。この変化の背景に、何があったのか。彼が吃音治療機関に通った形跡も、担任が「教育相談、カウンセリング」に特に興味をもち配慮をする教師でもない。子どもの吃音症状を、ゆっくりや早口と同等の癖あるいは個性ととらえ、学習活動の中で彼じっと見つめていたのだ。
 「自分の体験を思考につなげ、他児と関わり自分の思考を展開させる」
 「自分の問題やテーマを、自分の方法で追究する」
 「自分の声を出す」
 「自分の思いをストレートに表現することを通して自分が生きている感じをつかむ」
 こう求める担任に応えて、しなやかに自分の声を出し始めた子どもたち、たどたどしい彼の言語表現をごく自然に聞いていた級友たち。このような教室の中で、ごく自然に吃音は変わっていったらしい。教室の中でのこのような「世界づくり」と「自分づくり」と「仲間づくり」の過程が、恐らく、彼の吃音の変化を促したのだろう。それが学校の「臨床」ではあるまいか- (9)
 これが、子どもが変化する基本だと思います。皆さんのことばの教室で、楽しく遊び、歌い、絵本や詩を読んで培ってきた表現力と、ほっとできる場で、どもりながら一所懸命話したことを教師に聞いてもらえた喜びは、通常学級の生活の中で、話し、発表し、友だちと遊ぶことにつながり、そして、吃音は自然に変化していくのです。

 基本設定されている吃音
 どもる人は、誰もが吃音と共に生きていけるよう基本設定されていると僕は最近考えるようになりました。関節リュウマチの人と知り合い、その生活の苦悩を聞きました。24時間激痛で眠れない。薬で多少痛みが和らいだとき、少し眠れる程度だとの話を聞いて、驚きました。この人たちに関節リュウマチが基本設定されているなんて、とても思えません。しかし、吃音は痛みなどの身体的苦痛は一切ありません。そして、民族の違いを超えて発生率は人口の1%と言われ、紀元前300年のデモステネスの時代から、人間は悩みながらも吃音と共に生きてきました。どんなに吃音を否定しようとも、吃音と共に生きてきたことは誰も否定できない事実です。
 「どもりは神様が百分の一の人にどもりをプレゼントして、そのプレゼントに当選した人だと思ったらいいよと言ってくれて、すごく心に響きました」と吃音親子サマーキャンプで書いた子どもの作文を、岡山、静岡、群馬などのキャンプで紹介すると、子どもたちはとても共感し、その輪が広がっていきました。
 言語病理学ができ、「治すべきもの」と吃音が治療の対象となって、吃音の新たな問題が生まれたように思います。吃音を、自分の話しことばの特徴だと考え、あまり悩まず生きている人はたくさんいます。吃音を肯定すれば、吃音と共に生きる力は働きます。そうすると、日常生活で起こってくる不都合や不便さは、どもる本人が主体となって、当事者研究でサバイバルしていけるのです。
 「どもりながら、治したいとの思いを持ち続けて、不本意に生きる」
 「治らない現実を認め、納得して、覚悟を決めて生きる」
 吃音が治っていない現実の中で、どんなに治したいと願っても、吃音を否定しても、すべての人が吃音と共に生きています。不本意に生きるか、納得して生きるかの違いがあるだけです。どもる事実を認め、納得して覚悟を決めて生きる子どもに育てたいと思います。 

    どもる子どもと何に取り組むか

 子どもは、脆弱性がある弱い存在ではない
 どもる人の40%に対人恐怖症(社会不安障害)があるとの調査報告を紹介する人や、どもる子どもの脆弱性や運動機能が劣ることを指摘する人がいます。
 僕はおそらく世界一、どもる人やどもる子どもに会っていると思います。僕の25年間の吃音親子サマーキャンプで出会った子どもたち、島根、岡山、静岡、山口、群馬などの吃音キャンプで出会った子どもたち、僕の仲間のことばの教室に通ってくる子どもたちは、笑われたり、からかいを受けたりしながらも、しなやかに生きています。どもる子どもは、基本的には「こころは健康」です。
 弱い存在だからと、過剰に配慮することは、その子どもの生きる力を奪っていきます。周りが吃音をどう理解するかは課題のひとつですが、親や教師が子どもと相談せずに勝手にすることではなく、どもる子ども本人が、他の子どもにどう理解されたいかを考えます。自分のことばで説明するか、親や教師がするかは、子どもと相談します。仮に、親がクラスの子どもに手紙を書いたとしても、子どもの選択です。自分の力で自分が生きやすい環境に変えていくことになります。
 「怖かった、どもりの勉強 するまでは」は、栃木県宇都宮市のことばの教室に通う、小学2年生の子どもが、どもりカルタの読み札として作ったものです。僕たちが苦しんだのは、吃音の正しい知識や情報がなかったからです。どもりは必ず治るとの情報しかなかったため、僕は治療法があり、治ると思っていました。「ゆっくり言う」ことしか治療法がない現実を、子どもたちに伝え、子どもが吃音と共に生きていくのに役立つ知識を学びます。ことばの教室では、あたかも教科を学ぶように、吃音学、吃音哲学を学びます。子どもも、ことばの教室の担当者も、どもりについて正しい知識をもてば、将来を、いたずらに悲観することはなくなるでしょう。愛媛大学の水町俊郎教授が、どもる人の就労実態の調査報告を紹介しました。どもる人が様々な職種の仕事に就いている事実を知れば、保護者も治してあげなくてはとあせることは少なくなります。(10)

 子どもと教師は対等。一緒に悩むことが大切  
 教師と生徒の役割はあっても、人間としては常に対等です。吃音は原因も分からず、治療法もないのですから、吃音の取り組みは、迷い、悩みながら、それでも楽しみながら、常に子どもと相談しながら取り組むのが吃音の学習活動です。時にうまくいって喜び、失敗して落ち込み、一緒に苦労をする。吃音の症状を改善させてあげることはできないが、一緒に考え、悩むことはできます。自分が取り組む課題に一緒に関わってくれる、吃音についてよく知っている、仲間のようなことばの教室の教師の存在は、どもる子どもにとって、どんなにありがたいことか。原因も分からず、治療法もない吃音に、アドバイスや訓練はなじみません。吃音が生活にどう影響しているのか、一番知っているのはどもる子ども自身です。吃音の知識・情報のある教師と、当事者として吃音を知っている子どもが、対等の立場で取り組んでこそ、意味ある取り組みができます。 

 ことばの教室は吃音学を学ぶところ
 ことばの教室は医療機関ではありません。医者でも治せない病気はたくさんあります。治療法のない吃音を、教員が「改善しなければ」と考えることはありません。アメリカでは、公立小学校に言語聴覚士が配置され、どもる子どもの治療に当たります。その治療を受けて成人になった多くの人が、子どものころの言語訓練が嫌だったと言っていると、どもる人の世界大会で何度も聞きました。幸い、日本では、教員が学童期のどもる子どもの指導にあたります。治そうとする言語聴覚士ではなく、吃音教育に取り組むのは、アメリカより素晴らしい教育システムです。
 先月、東海四県の難聴言語教育研究大会の吃音分科会で「私は、教員免許をもっているが、言語聴覚士の資格がない。そんな私が吃音の指導をしてもいいのか」と質問を受けました。僕は、言語聴覚士養成の大学や専門学校数校で吃音の講義をしていますが、彼らにも、「吃音は教育だ」といいます。吃音は教員にこそ関わってほしいと強く思います。吃音は言語訓練ではなく、教育だからです。ことばの教室で、子どもとしっかり対話し、社会や国語の教科を学ぶように吃音を勉強します。また、吃音が将来マイナスに影響しないよう予防教育をします。

 吃音に向き合うとは
 アメリカやイギリスの吃音治療のビデオを見ると、どもった時、のどがどんな状態だったか、呼吸はどうだったか、どんな時どもるかなど、吃音に向き合うといっても、すべて、吃音の症状についてです。吃音の話題も、吃音症状にまつわることばかりです。日本で、吃音をオープンに話すことが広がっていますが、社会科で歴史を学ぶように、吃音の治療の歴史や、どもる人がどう生きてきたかも学んでほしいと思います。『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』(解放出版社)で、子どもたちとこれまでの吃音治療法を勉強すると、「そんな練習、絶対嫌だ」「これなら、してもいい」などと、とても盛り上がります。また、吃音は症状だけの問題ではないとの、言語関係図を学び、自分の言語関係図を作ります。さらに、吃音を否定的にとらえることで起こる、マイナスの影響である吃音氷山説を学びます。
 最近、吃音検査法が出版されました。日本音声言語医学会が試案を提案した時、実際に使って、信頼できる検査ではないことや、弊害があることを学会で指摘しました。作成をあきらめたかと思っていたのが、30年前とまったく同じものが出版されました。これは、おどろくべきことです。吃音の検査は、することで指導する人が、検査を受けることで子どもが、吃音症状にマイナスの意識をもちます。吃音検査法を批判した僕は、検査に代わって、自分の行動、思考、感情の「自己チェック」を提案しました。変えることができることから、変えていきます。吃音の予防はできませんが、吃音から受けるマイナスの影響は予防できます。それが、吃音氷山説の水面下の問題を知り、行動することです。(11)
 吃音に向き合うとは、吃音のマイナスの影響について向き合うことです。

 学童期の社会心理的発達課題は勤勉性/劣等感
 ライフサイクル論で知られる心理学者・エリクソンの言う、学童期の社会・心理的発達課題の勤勉性で、それを阻むものが、劣等感です。学童期の子どもに関わる教師は、この劣等感について考えておく必要があります。アドラー心理学では、劣等性、劣等感、劣等コンプレックスを分けて考えます。客観的な劣等性があっても、主観的な劣等感をもたない人はいます。僕は吃音をマイナスのものと強く意識し、劣等感が大きくなったために、劣等性、劣等感を口実に、つまり吃音を言い訳にして人生の課題から逃げる劣等コンプレックスに陥りました。
 アドラー心理学で言う、人生の課題とは、仕事の課題、人間関係の課題、愛の課題の三つです。子どもの場合の仕事とは、勉強すること、友だちと何かの課題に取り組むことです。「どうせ、どもる僕は何もできない。みんなから笑われるに決まっている」と思った僕は音読や発表ができなくなり、勉強をしなくなりました。友だちとの人間関係、クラスの役割からも逃げ、楽しくない、不本意な学童期・思春期を生きました。劣等感は誰にもありますが、どもる子どもがどもることを理由に、劣等コンプレックスに陥らないようにするのが、僕の言う「吃音の予防教育」です。
 
 ライフスタイルは自分が決意すれば変えられる
 アドラー心理学では、10歳前後にさまざまな経験をもとに、「私はこう生きる」とのライフスタイルを決めるといいます。僕もちょうどその頃、吃音に強い劣等感をもち「どもらないように、できるだけ音読や発表はしない」「傷つきたくないから、友だちと仲良くしない」などのライフスタイルを身につけました。
いわゆる吃音症状は、自分の意志に関係なく、自然にどもってしまうことなので自分の力では変えることはできませんが、自分が決めたライフスタイルは、決心し直せば、自分で変えることができます。氷山説の水面下の行動、思考、感情を変えることで、ライフスタイルは変わり、ライフスタイルを変えることで、行動、思考、感情は変わります。ライフスタイルを変えることは、ナラティヴ・アプローチの、「吃音否定の物語」から「吃音肯定の物語」に変えることでもあります。
 
 どもりを治したいのニーズの奥に
 「子どもや親には治したいとのニーズがある。それに応えるのが臨床家として当然だ」という意見があります。相手の気持ちに寄り添っているように思えますが、吃音を確実に改善できる時代がきて初めて、そのニーズに応えられます。治せないものを、治したいとの思いに共感すると、治さなければならないの物語をより強化してしまうことになります。
 私たちは、「治したい」と子どもが言ったら「なんで治したいの?」と、対話をしながら明らかにしていきます。治したいのニーズの奥には、友だちがほしい、学校で気持ちよく過ごしたいなどの当然の欲求があります。吃音は治せないけれど、友だちを作るにはどうすればいいか、音読や発表をどのように考えたら、学校で気持ちよく過ごすことをできるかは、一緒に考えられます。さらには、「幸せに生きたい」が奥にあるニーズだと思うので、どうしたら幸せに生きられるかを考えます。その時、「どもりが改善したら何々しよう」ではなく、「吃音と共に、豊かに幸せに生きる」を考えた方が現実的です。
吃音が治ること、改善することが必ずしもその人の幸せにつながらないことは、長年吃音と共に生きてきた人ならわかるでしょう。吃音が治ったとしても、改善されたとしても、バラ色の人生がくるわけではないのです。
  
 自分がしないこと、されて楽しくないことはしない
 自分が生活の中で決してしないこと、指導されて楽しくないことを他人に勧めてはいけないと思います。教師は学校生活の中で、常に話すことを意識して、「ゆっくり、そっと、やわらかく」話すことをしないでしょう。ゆっくり言う練習は、指導する側も、される子どもも楽しくありません。子どもがどもるからといって、不自然な、仮面のようなことばを教えるのは、ある意味虐待だとさえ僕は思います。どもる子どもも成人も「ゆっくり、そっと言えば、あまりどもらない」ことくらい、教えてもらわなくても知っています。それが生活の中ででき、身につくのなら、世界中、吃音に悩む人はいなくなります。吃音を治したいと心から願いながら、「ゆっくり」話す言語訓練を知っていながら、続けられないのには次の理由があります。
 ・特別な方法なので、続けることで、ますます吃音をマイナスに意識してしまう。
 ・練習が楽しくなくて、何時間、何日練習を続ければ改善されるかの見通しがない。
 ・不自然な話し方なので、日常の生活で使えない。 
 
 言語指導をするなら日本語のレッスン
 言語訓練は基本的には必要がないと僕は考えていますが、その子どもにとって必要だと考えたら、誰もがして楽しい、意味ある「日本語の発音・発声」の基本を学び、表現力をつけるレッスンをして下さい。竹内敏晴さんの「からだとことばのレッスン」を受けたとき、声を出す気持ちよさ、表現する喜びと楽しさを味わいました。これなら自分自身も楽しく取り組め、子どもたちと一緒にできると思い、僕たちは、吃音親子サマーキャンプで、楽に声が出るように、相手に届く声が出るように、芝居のセリフを言い、歌を歌い、「日本語のレッスン」に取り組んでいます。どもらないようにするための言語指導ではなく、楽に声を出す、相手に伝わる日本語の発音・発声の基本です。今回はお話する余裕はありませんが、『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』に、日本語の発音・発声の取り組みを詳しく書きましたのでお読み下さい。
 
 5つの確認
 1 世界中どこにも確実な吃音治療法はない。ただ、「ゆっくり話す」ことしかない。
 2 治療を受ける受けないにかかわらず、ほとんどの人の吃音は治っていない。
 3 吃音の悩み、吃音から受ける影響には、大きな個人差がある。ひどくどもる人が、どもりながら豊かに生きている一方で、ほとんど分からない程度でも、深く悩んでいる。
 4 吃音は自然に変化していく。どもらないようにも、どもるようにも変化する。
5 吃音の原因は解明されていないが、吃音に悩み、吃音が問題になる原因は明確になっている。吃音を、悪いもの、劣ったものとマイナスにとらえることで問題となる。

      当事者研究とナラティヴ・アローチのすすめ

 べてるの家
 北海道が世界に誇れることのひとつが、精神医学、臨床心理学、福祉の分野で注目されている、北海道・浦河町の「べてるの家」の「当事者研究」実践です。統合失調症の人たちが、生活の中での苦労をなくすために、薬物でコントロールするのが、これまでの精神疾患の医療でした。日常生活の中で困難が少なくなっても、自分の力で身につけたものではなく、薬によって管理されたものです。べてるの家では、薬をどんどん減らしていきます。当然、日常生活の中で困難がいっぱい起こってくる。これを、べてるの人たちは「苦労を取り戻す」として、生活の中での苦労、困難を、自分が主人公になって、仲間や専門家の協力を得て、生きづらさから自分を助けるための「当事者研究」をします。
 障害があっても幸せに生きる「リカバリー」の考え方が、精神障害、発達障害などの枠を超え、様々な分野に広がりを見せています。(12)
 吃音の問題を吃音症状だととらえると、「吃音症状の治療・軽減」をめざすことになり、問題を専門家の治療に委ねることになります。しかし、吃音の問題を、吃音を否定することから起こる、どもることへ不安や、恐怖、どもった後の惨めな気持ちにあると考えると、これは当事者が自らしていることなので、自分で取り組むことができます。ここに、「吃音の当事者研究」の可能性があります。子どもが主体的に、学校生活の中で苦戦していること、困っていることを研究する立場で取り組みます。吃音が問題なのではなく、吃音を否定することで起こる問題が問題なのだと考えるのが、ナラティヴ・アプローチです。どもっていても、吃音を否定せず、困っていなければ、何も問題はないのです。
 自分の気持ちや生活での困難を知っているのは、子ども自身です。子どもが、吃音と向き合い、自分の吃音の課題に取り組む研究者としての当事者研究が、「吃音を治す、改善する」言語訓練に代わる、ことばの教室の取り組みになってほしいと願っています。その共同研究者になるのが、ことばの教室の教師の役割だと僕は考えています。

 どもる子どもの当事者研究 
 子どもは常に守られ、配慮されなければならない、弱い存在ではありません。弱い部分があるとしたら、それは、知識がなく、勇気をくじかれているからです。吃音を治す、軽減するは、医療の発想です。私たちは、学校生活の中で苦戦をする子どもたちと、苦戦をしている課題に「当事者研究」の考え方を使って研究を進めます。子どもたちは「当事者研究」と言うと「研究? 研究するの?」と目を輝かせて自分の困っていること、困難に思っていることを研究しようとします。自分の課題のすべてを専門家に丸投げするのではなく、自分自身が主人公になって、自分の課題に取り組むのです。
 子どもの頃、失敗をしない前に、傷つく前に、周りの人間が手をさしのべ過ぎると、困難な場面に直面したとき、サバイバルしていく、生きる力が育ちません。吃音の場合も、それと同じようなことがあると思います。
 どもらないように、吃音をコントロールすることを教えて、仮に100%できるようになったとしても、それはごまかし方を覚え、どもりたくないという思いを強化することにつながります。それよりは失敗して、傷ついたら、その中でどう立ち直っていくのかを学ぶことの方が将来役に立ちます。失敗しないようにさせることは、却ってその子の生きる力を奪っていくだろうと思います。
 
 どもることを笑われる
 ひとつの例として、クラスでどもることを笑われた時のことを考えます。まず、人はどんな時に笑うのか、ここから研究が始まります。ちょっとした違いからくる自然な笑いを攻撃的だととらえると苦しいのですが、さげすみや攻撃の笑いでないことに気づけば、「笑われた」の意味が変わります。笑いも研究対象です。からかいの笑いにどう対処するかは、たくさんの選択肢があります。岡山のキャンプで子どもたちがこんな意見を出しました。
◇無視して、その場から逃げる ◇先生に相談して、やめてもらうようにお願いする 
◇仲のいい友だちがいたら、友だちに相談する ◇真似されるのは嫌だから、止めてとアサーティヴに言う ◇それでもだめなら、殴ったり、あるいは大泣きをする。◇親がクラスの子どもたちに、やめてほしいと言いに行くか手紙を書く。
 子どもたちと、それはいい、それは無理やなど、わいわい言いながら話し合いました。子どもたちは、時に大人や友だちの力を借りながら、自分の力で対処しています。僕はこれからの子どもにとって、何かに耐えることは大切ですが、弱音を吐けること、人に助けを求めることができることが大切だと考えています。最近、いじめや体罰による自殺が報じられる度に、常に、逃げるという選択肢をもつことの大切さを思います。
 こうして自分の力で問題を解決した力は、その後の生きる力になります。
  
 モノローグ(独語)から、ダイアローグ(対話)へ
僕は、自分の苦しみや悩みを自分のことばで語ることばをもたず、他者に語ることをせず、いつも独り言(モノローグ)で、「オレはだめな人間だ、どもっていたら社会には通用しない」と自らに語り、どもって失敗したり、うまくできない体験をするたびに自分のストーリーを強化して苦しんできました。
 中学時代に読んだ、『どもりは必ず3週間で全治する』(浜本正之・文芸社)」の冒頭の「吃音の悲劇」の章には、どもりが原因で自殺をした人、国宝・金閣寺の放火事件などが紹介され、吃音を治さないと将来大変だと書かれていて、治療を薦めます。「吃音悲劇」の物語の影響で、僕は「吃音が治らないと僕の人生はない」と思いつめました。吃音否定の物語は、自分の体験や思いだけでなく、このような一般社会的からの「流暢にしゃべることに価値がある」、「どもっていたら有意義な人生は送れない」「どもりは努力次第で改善できる」などの支配的な言説(ドミナント・ストーリー)に影響を受けます。
 21歳の夏、同じように悩む人たちと出会って、どもってもいいとの安心、安全な場で、僕は自分のことばで悩みを語り、対話(ダイアローグ)を通して、自分の課題を客観的に見つめられるようになりました。また、他の人の語る物語を初めて聞き、「将来就職できない」と考えていたのが、「どもっていても仕事に就ける」物語を知りました。吃音治療所には吃音に悩むから来たのですが、みんな地元に帰れば、教師や営業職の人もいて、悩みながらも、仕事をしていたのでした。
 1965年、僕はどもる人のセルフヘルプグループをつくり、吃音が自分の人生にどう影響してきたかを語り始めました。吃音を治そうと考え、治す努力することが、いつまでも、吃音の改善を求め、自分の人生を生きられないと、「吃音を治す努力を否定」し、よりよく生きるために努力をしようと、「吃音者宣言」を書きました。吃音否定の物語からの大きな転換点でした。吃音の問題は、どもるかどもらないかではなく、どもるために自分のしたいことも簡単にあきらめ、また当然しなければならないことでもしないで、どもるからと自分に甘え、逃げの人生が身についてしまったと理解しました。
 
 ナラティヴ・アプローチとは
 「ナラティヴ」は、「物語」「物語る」の意味で、「ナラテイヴ・アプローチ」とは、「困難や、問題をかかえる人が物語るストーリーこそが、その人の人生を形作っていると考え、困難なストーリーの改訂のために、より好ましい素材を一緒に探し、新しいストーリーを共同で練り上げていくアプローチ」です。
 僕は、同じように悩む仲間と出会い、語り合い、他の人が語る人生を知り、吃音の否定的な物語から、「どもっていても、豊かな人生は送れる」の物語に変えることができ、生きやすくなりました。セルフヘルプグループで僕たちは、「吃音否定」の物語を「吃音肯定」の物語に変えていったのです。
 「その人が問題なのではなく、問題が問題なのだ」
 「人には、その人の人生を生きる能力がある」
 このナラティヴ・アプローチの哲学は、ジョゼフ・G・シーアンの氷山説そのものです。 ナラティヴ・アプローチでは、人と問題とを切り離すために、「外在化」の質問をする対話をしていきます。「外在化」とは自分と吃音を切り離して、「どもり君」などと名前をつけて、自分の中のどもりが影響を与えるのではなく、外在化した「どもり君」が、話すことから逃げたり、消極的にさせるなどと、考えます。「どもり君」の影響をあまり受けない経験を見つけるための対話を繰り返し、「どもるから何々ができない」ではなく、「どもりながらも何々ができる」のオルタナティヴ・ストーリー(別のストーリー)に変えていきます。吃音に影響を受けない物語をつくっていきます。
 1 吃音と吃音の問題を切り離し、吃音の問題を子どもから切り離して考える。
 2 どもる子どもや家族に対する吃音の影響を描き出す。
 3 子ども自身が語る、吃音の物語の中に、どもりながらできたことなどに着目する。
 4 どもる子どもの本来もっている生きる力、回復する力、レジリエンスを取り戻す。
 5 新しい物語を語り、祝福する。(13)

 ナラティヴ・アプローチの会話術
 ナラティヴ・アプローチの基本的な技法は「外在化」の質問です。吃音は学童期に内面化し、劣等感を強めます。自分の内面にある吃音を自分の外に出し、客観的に見るのが外在化です。私たちの仲間は、子どもたちと言語関係図を一緒に作ります。低学年の子どもにはブロックを使って、吃音の問題を外に出します。どもりカルタや絵本を作って、自分の吃音、吃音から受ける影響について、対話を続けます。最近は、「どもりキャラクター」と対話をする実践を、僕たちのことばの教室の仲間は取り組んでいます。その中で、どもりは敵で悪者のキャラクダーだったのが、対話を重ねる内に、怖くなくなり、どもりが友だちになる物語に変わっていきます。その対話の中から、これまでの吃音の否定的なナラティヴから、これからも吃音とつきあえるというナラティヴに変わっていくのです。
「吃音否定」の物語を「吃音肯定」の物語に変えていくことが、吃音を治すための言語訓練に代わる、今後の吃音の取り組みだといえるでしょう。(14)
   
 レジリエンス
 アメリカの心理学者、ウェルナーは、貧困、暴力など劣悪な環境で育った人を長年にわたって調査研究しました。すべての人が貧困や犯罪など大変な生活を送っているだろうと思っていたが、3分の1の人が能力のある信頼できる成人になっていたと報告しました。この人たちのことを「心的外傷となる可能性のあった苦難から新しい力で生き残る能力、回復力がある」として、「レジリエンス」があると言いました。
 レジリエンスの構成要素として挙げているものを、吃音に絡めて紹介します。これらは、新しいことというより、吃音と共に生きる中で僕たちが考えてきたことばかりです。
・洞察  吃音の問題の影響について考え、学び、理解する。
・独立性 吃音に支配されることから、自分が人生の主人公になる。
・関係性 親密で満足のできる人間関係。人と結びつき、人を大切にする、人間への信頼。
・イニシャティヴ 問題に立ち向かい、自分を主張し、自分の生きやすい環境に変える。
・創造性 悩みの中から自分を解放させていくプロセスが、新しいものを創造する。
・ユーモア 自分の欠点や弱点を人ごとのように笑い飛ばし、自分の嫌な気分を解放する。
・モラル 吃音と共に、充実したよりよい人生を送りたいという希望をもつ。(15)(16)

         おわりに

 吃音親子サマーキャンプで出会った阿部莉菜さん
 最後に、吃音親子サマーキャンプで出会った子どものことを話します。小学校6年生になった阿部梨菜さんは、3人の男の子にいじめられ、1週間で不登校になりました。吃音親子サマーキャンプに両親と妹と家族4人連れで、宮城県女川町から参加しました。
 グループの話し合いが始まって何人かが、自分のことを語るのを聞いて、阿部さんは手を挙げました。6年生になって、男の子からいじめに合い、学校に行けなくなったことを、涙を流しながら話しました。キャンプの子どもたちは、「そうか、大変だったね」の共感だけの聞き方をしません。「その男の子はどんな子?」とか、「先生は何をしてくれたの?」「友だちはどうしていたの?」など、彼女の話を聴き、彼女の問題の背景を質問していきました。質問に答える中で、彼女の語りが少しずつ変わっていきます。最後に男の子が「梨菜ちゃんはすごいね。学校が大好きで、学校へ行きたいという思いが強いから、遠くから、このキャンプに参加したんだね」と言いました。90分の話し合いの中で、彼女は、自分自身が不登校になっている弱い存在ではなく、学校へ行くために努力している存在だと気がついたのだろうと思います。話し合いが終わるころ、彼女の顔の表情が全く変わりました。そして、翌日の午前中の作文教室で、彼女はこんな作文を書きました。

  どもってもだいじょうぶ!
                        小学6年 阿部莉菜
 私は学校でしゃべることがとてもこわかったです。どうしてかというと、どもるから。しゃべっていても、どもってしまうと、みんなの視線が気になります。そして、なんだか「早くしてよ!」と言われそうで、とってもこわかったです。なんだかこどくに思えました。でも、サマーキャンプはちがいました。今年初めてサマーキャンプに来てみて、みんな私と同じで、どもってるんだ、私はひとりじゃないんだと思いました。そして、夕食後、同じ学年の人と話し合いがありました。そのときに思ったのは、みんな、前向きにがんばってるんだ、なのに私はどもりのことをひきずって、全然前向きに考えてなかった。そのとき、私は思いました。どもりを私のとくちょうにしちゃえばいいんだ。そのとき、キャンプに行く前にお父さんに言われたことを思い出しました。どもりもりっぱな、いい大人になるための、肥料なんだよ。そうだ、どもりは私にとって大事なものなんだ。そういうことを昨日思いました。今日、朝起きたときは、気持ちが楽でした。まだサマーキャンプは始まったばかりだと思うけど、とても学校などでしゃべれる自信がつきました。
                  
 その後、彼女は2年間、キャンプに参加して、中学生活も楽しく送りました。中学3年生では、クラブの試合とぶつかり、彼女はキャンプに参加できませんでした。そして、2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。女川町と聞いて皆さんはすぐおわかりになっただろうと思います。僕たちと出会って新しい人生を見い出し、仙台育英高校に合格して、高校生活を楽しみにしていましたが、制服姿を人前で見せることなく、彼女は亡くなりました。彼女のことは決して忘れないでおこうと、その後の講演会などで紹介しています。ブログにも実名で書いたら、親戚の方がメールを下さり、彼女のことを書いたパンフレットをたくさん注文されました。阿部莉菜さんのことを覚えていてくれることがうれしいと、とても喜んで下さいました。
 
 僕は、聞き方には、初級、中級、上級があると思っています。初級は、共感をして聞く、カウンセリングでみられる聴き方です。中級は相手に関心をもっていろいろ質問しながら聞きます。質問を繰り返す中で、その人が浮かび上がります。上級は、相手が言ったことに対して、その物語の中から、ナラティヴ・アプローチでいうユニークな結果、つまり、自分にはこんな力があると気づいてほしいという期待をもって対話していく聞き方です。 この聞き方が、「その人が問題なのではなく、問題が問題なのだ」「人には、その人の人生を生きる能力がある」との観点に立った聞き方です。子どもたちは、ナラティヴ・アプローチについて一切知らないのに、その子どもを応援しようとして、このような聞き方になったのでしょう。常に話し合いを続けてきた子どもたちの力を思います。
 吃音の改善のための言語訓練ではなく、子どもの生きる力を信じて、子どもと対話を続け、吃音肯定の物語を子どもと作り上げていただければと思います。そのために、吃音治療法の研修ではなく、当事者研究、ナラティヴ・アプローチ、レジリエンスなどについて関心をもって学んでいただければ、うれしいです。ご静聴ありがとうございました。

引用・参考文献
(1)「スタタリング・ナウ」NO.240 2014.8.23 消防士として吃音と共に生きる息子へ
兵頭潔
(2)「スタタリング・ナウ」NO.213 2012.5.22 北米の吃音治療の現状 池上久美子
(3)『親、教師、言語聴覚士が使える、吃音ワークブック』解放出版社 伊藤伸二、吃音を生きる子どもに同行する教師の会
(4)『吃音の基礎と臨床』学苑社 B・ギター著 長澤泰子監訳
(5)『To The Stutterer』アメリカ言語財団 邦訳『人間とコミュニケーション』日本放送出版協会 内須川洸 大橋佳子 伊藤伸二訳・編
(6)「愛媛大学教育学部障害児教育研究室紀要」1987年 第11号 水町俊郎
(7)「カール・ロジャーズのパーソンセンタードグループ入門」日本吃音臨床研究会 2008年度年報 村山正治 
(8)「スタタリング・ナウ」NO.240 2014.8.23 吃音の大きな波を乗り越えた娘 伊藤康子
(9)『子どもの成長 教師の成長』 東京大学出版会 序章 学校臨床の発想
(10)『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』ナカニシヤ出版 水町俊郎
(11)「吃音評価の試み-吃音検査法の検討を通して」音声言語医学 1984 Vol.25,No.3
(12)『吃音の当事者研究-どもる人たちが「べてるの家」と出会った』金子書房 向谷地生良、伊藤伸二
(13)『新しいスクール・カウンセリング 学校におけるナラティヴ・アプローチ』金剛出版 J・ウィンスレイド,G・モンク著 小森康永訳
(14)『ナラティヴ・セラピーの会話術』金子書房 国重浩一
(15)『サバイバーと心の回復力~逆境を乗り越えるための七つのリジリアンス』金剛出版スティーヴン・J・ウォーリン 奥野光 小森康永訳 
(16)『レジリアンス-現代精神医学の新しいパラダイム』金原出版株式会社 加藤敏 八木剛平

    【北海道言語障害児教育研究協議会 研究紀要 2014年12月16日発行】

2011年10月、第10回静岡県親子わくわくキャンプ

「英国王のスピーチ」の豊かな世界

          日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

   はじめに―当事者研究―

 映画『英国王のスピーチ』は、吃音の臨床に役立つ、大きな学びと教訓が詰まっています。
 主人公は、ジョージ5世の次男であるヨーク公、後のジョージ6世です。長男は社交性があり、流暢にしゃべり、聡明で国民にも人気があります。弟のヨーク公は、物心ついてから、どもらないでしゃべったことはないと本人が言うほどに、吃音に強い劣等感を持ち、悩んで生きてきました。
 この映画は、ローグというオーストラリア人の言語聴覚士と英国王の吃音治療の記録映画とも言えますが、社交的な長男と、引っ込み思案な次男の葛藤の話でもあります。
 国王は、クリスマスや、国にとって大事な時にスピーチするのが公務です。次男のヨーク公にも話さなければならない局面が出てきます。
 1925年の万国博覧会で、ヨーク公が挨拶で、「・・・」と、どもって言えません。
 「・・・」と息が漏れたり、間があったり、しゃべれない。そのスピーチを聞いている国民は、一斉に目をそらし、何が起こったのかと、怪訝な表情で顔を見合わせるところから、映画『英国王のスピーチ』がスタートします。
 2011年11月、吃音ショートコースというワークショップがありました。テーマは「当事者研究」で、北海道の精神障害者のコミュニティ「べてるの家」の創設者で、ソーシャルワーカーの向谷地生良さんが講師として来て下さいました。べてるの家の実践は、精神医療の世界だけでなく、ひとつの社会的現象として様々な分野から注目されています。一人でする当事者研究もありますが、ひとりでは、堂々巡りになったり、ひとりよがりになる危険性があります。仲間や臨床家など、第三者と研究することが、より効果的です。
 小説でも映画でも、読者、観る人の数と同数の感想、受け止め方があります。王室に関心ある人、第二次世界大戦当時の歴史に関心ある人、家族のあり方に関心のある人で、「英国王のスピーチ」はさまざまな研究ができます。映画「英国王のスピーチ」で描かれたジョージ6世を、吃音に深く悩み、吃音に長年取り組んできた伊藤伸二という第三者の目を通して「研究」します。

   臨床家における対等性


 ヨーク公を愛称「バ-ティ」と呼ぶ 

 まず、セラピストとクライエントの関係です。
 ことばの教室の教師や言語聴覚士とどもる人、どもる子どもとの関係です。セラピーが成功した要因のひとつが、「対等性」です。
 私はこれまで、教育や、対人援助の仕事にかかわる人に、向き合う相手との「対等性」の重要性を言い続けてきました。特に、原因もわからず、治療法もない吃音は、一緒に悩み、試行錯誤を繰り返さざるを得ません。共に取り組むという意味で、対等性が何よりも重要です。
 ジョージ5世の次男、ヨーク公には、これまでにたくさんのセラピストが治療しますが、すべて失敗に終わります。そのために本人はあきらめ、もう吃音治療はしたくないと言います。しかし、妻のエリザベスはあきらめません。夫に内緒でいろいろと探し回り、新聞広告で見た「言語障害専門」という看板のある、ライオネル・ローグの治療室に来ます。
 「あらゆる医者がだめでした。本人は希望を失っています。人前で話す仕事なので、どうしても治したいのです」
 「それなら転職をしたらどうですか」
 「それは無理です。個人的なことは聞かずに治療してほしい、私のところに来てほしい」
 「だめです。私の治療室に通って下さい。治療に大切なのは、信頼と対等な立場です」
 エリザベスが、クライエントがヨーク公だと身分を明かしても、ローグはこれまでの態度を変えることなく、対等性にこだわります。ヨーク公と直接対面した時、ヨーク公が「ドクター」と呼ぶのを遮り、「ライオネル」と呼んでほしいと言い、ヨーク公を「殿下や公爵」ではなく、家族しか呼ばない愛称「バ-ティ」と呼ぶと宣言します。
 ヨーク公は、「対等だったらここに来ない、家族は誰も吃音を気にもとめない」と抵抗しますが、「私の城では私のルールに従っていただきます」と譲りません。イギリス人のセラピストなら、王室の人間に対等を主張することはありえません。オーストラリア人だからかもしれませんが、それにしても、あの時代としてはすごいことです。二人にとって、この対等な関係がとても大きな意味をもちました。

 ナラティヴ・アプローチ

 対等の関係であることは、どんな臨床にも必要だと私は思いますが、それにいち早く気がついたのが、家族療法の分野です。家族療法の世界では近年、ナラティヴ・アプローチが注目を集めています。その中で言われるのが「対等性」です。なぜ対等性が言われるのでしょうか。
 ナラティヴとは、「物語」、「語り」の意味ですが、人はそれぞれ自分の物語を作ります。自分についての物語は、本人が誰よりも知っていることへ敬意です。だから本人に教えてもらう、「無知」の姿勢を貫きます。ここに対等性が出てきます。
 本人が語る物語がネガティヴであれば、その物語に捉われて悩みます。ジョージ6世は、「どもりは劣ったもの、悪いもの、恥ずかしいもの」の物語を繰り返し語ります。その物語には伏線があります。弟はてんかんでした。その弟は世間から隠されて13歳でひっそりと亡くなります。弟の話は王室ではタブーです。その弟に優しかったのが、兄であるヨーク公です。
 彼はそこで、王室は自分の愛する弟を障害があるからといって隠すのだ、という物語に出会います。そして、王になるような人間は、吃音という言語障害をもっていては駄目だとする物語を強化していきます。
 世間一般も、同じように、どもる人間は王にふさわしくないという物語をもっています。自分が語る物語と、世間一般の物語によって、ヨーク公は、どもる人間は国王になるべきではないとの物語をもっています。ヨーク公は次男なので、長男が生きている限り、彼が国王になることはないのですが、吃音の国王は考えられないのです。
 この、自分を不幸にする物語に、新しい物語を、セラピストと一緒に作っていくのがナラティヴ・アプローチです。自分の否定的な物語の上に、肯定的な、自分がよりよく生きていくための物語を作っていく。「英国王のスピーチ」は、吃音治療の物語ではありますが、結果として、このナラティヴ・アプローチになっていたと私は思います。
 ヨーク公は、ヨーロッパ中から治療者を探し、治療を受け続けても結局改善しません。そして、賛否両論のある異端のセラピスト、ライオネル・ローグに出会うのです。
 ローグの献身的な、集中的な治療でも吃音は治りも、改善もしません。にもかかわらず、目標だった第二次世界大戦の国民に向けての開戦スピーチは成功するのです。吃音治療の結果ではなくて、ジョージ6世が自分の物語を変えていくことができた結果です。そのために「対等性」が意味をもちます。人に言えない悩みを話し、それに共感して聞いてくれる友達がいた。吃音に悩む人間にとって、治療者ではなく、友人が必要なのです。
 映画のラストに、ジョージ6世は、ローグを生涯の友として考えていたとあります。吃音が治れば、あるいはある程度改善されれば、それで治療者との関係が切れます。しかし、治らない、治せない吃音の場合は、この対等の友人であることが、何よりも必要だったのです。
 映画のエンディングにテロップが流れます。
 「1944年、ジョージ6世はローグに、騎士団の勲章の中で、君主個人への奉仕によって授与される唯一の、ロイヤル・ヴィクトリア勲章を授与した。戦時下のスピーチには毎回ローグが立ち会い、ジョージ6世は、侵略に対する抵抗運動のシンボルとなった。ローグとバーティは生涯にわたり、よき友であった」

 セラピストも劣等感や弱点のある存在

 ローグがオロオロする場面があります。ヨーク公の時代、国王になる不安を爆発させ、ローグと決裂し、セラピーをやめてしまいます。その後、国王になってやはりローグが必要になり治療の再開を頼みに、妻が留守のはずの自宅に国王夫婦が尋ねた時です。その時、思いがけずにローグの妻が帰ってきます。妻に内緒でセラピーをしていたローグはあわてます。国王が、自分の家にいたら誰もが驚くでしょう。妻とエリザベスが出会ってしまい、話すのをドア越しに聞きながら、国王を紹介するタイミングでオロオロと困っているローグに「君は、随分臆病だな。さあ、行きたまえ」と、ドアを開けます。ジョージ6世はそこで初めて、ローグも、臆病な、気の弱い人間だと、自分に近いものを感じます。
 ローグが自分の弱さを見せたことで、ジョージ6世は、ピーンと背中を張ってドアを開けます。このシーンのコリンファースの演技は見事です。ここで、本当の意味で、対等を感じて信頼できたのだと思います。
 言語聴覚士の専門学校で講義をしてると、伊藤さんは吃音だからそんなことが言えるけれども、吃音の経験もない、経験の浅い人間にそんなことは言えないとよく言われます。人間、誰もが何がしかの挫折体験、喪失体験があります。受験の失敗、失恋、祖母の死などを経験して生きています。そのような誰もがもつ経験を十分に生きれば、吃音の経験のあるなしは関係がないと、学生には言います。弱いからこそ、劣等感があるからこそ、自覚してそれに向き合えば、セラピストとしていい仕事ができるだろうと思います。
 私は、死に直面する心臓病で二十日以上入院しました。そのつらい時に、活発で、はいはいと明るすぎる看護師さんよりも、「大丈夫?」とほほえんで声をかけてくれる優しい看護師さんの方にほっとしました。自分が弱って困っているときに、堂々と笑う豪快なカウンセラーに相談に行く気には私はなりません。
 自分には、大したことはできないけれども、せめてあなたの話だけはしっかり聴いて、一緒に泣くことならできそうかなあというような人のところに私は行きます。入院を三回経験した、弱った人間としては、そう思います。
 私は、福祉系の大学でソーシャルワーク演習を担当しています。そこでの対人援助者の講義や、教員の研修で、私はヘレン・ケラーとサリバンの話をよくします。
 奇跡とも言える教育が成功したのは、ヘレンがサリバン先生を信頼する前に、まずサリバン先生がヘレンを信頼したからです。ヘレンはきっと人間としてことばを獲得し、成長するという信頼があった。また、目も見えない耳も聴こえないで生きてきたヘレンへの尊敬があったと思います。
 ローグも、相手に対する尊敬と、この人はきっと変わる、いい国王になるという信頼があったから、それに応えてジョージ6世もローグを信頼したのです。変わるというのは、いわゆる一般的に思われているような「変わる」ではありません。吃音そのものではなく、彼の思考や行動や感情は変わると、信頼をもっていた。
 どもらずに堂々とスピーチすることが成功ではない。不安をもちながら、おどおどしながら、嫌だ嫌だと思いながら、そしてどもりながら、なんとかスピーチをやり遂げたことが成功です。
 
 弱音を吐けること

 弱音を吐けることは、人間が生きていく上で大事なことだと思います。人に助けを求められる能力も大切です。「助けて」と言えるのは、自分の弱さを認めることでもあります。
 ヨーク公には、弱音が吐ける、自分が自分でいられる場がありました。ローグから対等を求められたとき、即座に彼は、家族は対等で、妻も娘もちゃんと聴いてくれ、吃音は何の問題もないと言います。吃音があっても人間としては対等だと言います。弱さを認めて、愚かな人間だ、自分は大した人間じゃないと認めるシーンがあります。
 エリザベスが、ピーターパンの絵本を読んでいた時、「ピーターパンのように自由に飛んで行ける奴はいいなあ」と、ヨーク公が言ったあとで、娘二人からおとぎ話をせがまれます。そこで、ペンギンの真似をしますが、娘はさらに求めます。
 「では、ペンギンの話をしよう。魔女に魔法をかけられペンギンになったパパが、二人の姫に会うために、海を渡ってやっと宮殿にたどり着き、姫にキスをしてもらいました。姫にキスをしてもらって、ペンギンは何になりましたか?」
 娘に聞くと、娘たちはうれしそうに、「ハンサムな王子様!」と言います。すると、「アホウドリだよ」と言って、大きな翼を広げて、二人の姫をしっかりと抱きしめます。ペンギンのままでは愛する姫を抱けないが、大きな翼のあるアホウドリなら抱けるからです。
 このペンギンの話を娘に聞かせることで、自分の劣等感、惨めさを客観視して話したのだろうと思います。つい見逃しそうな場面ですが、自分の弱点とか愚かさを、ユーモア、自虐ネタのように使うのは、自分の弱さを認めていたからでしょう。
 また、戴冠式のニュース映像を家族で観ている時に、自分の映像が終わった後、ヒトラーが演説するシーンがでてきます。「この人、何を言っているの?」と聞く娘に、「何を言ってるか分からんが、演説はとてもうまそうだ」と言います。ヒットラーの演説はうまい、自分にはできないスピーチだと認める。これも大事なシーンだと思います
 1936年12月12日、王位継承の評議会で、すごくどもってしゃべれませんでした。そしてその夜、もう自分は駄目だとエリザベスの胸で子どものように泣きじゃくります。クリスマス放送で不安がいっぱいになります。
 「クリスマスの放送が失敗に終わったら…。戴冠式の儀式…。こんなのは大きな間違いだ。私は王じゃない。海軍士官でしかない。国王なんかじゃない。すまない。情けないよ」
 「何を言うの…あなた…かわいそうに、私の大切な人。実はね、私があなたのプロポーズを二度も断ったのは、あなたを愛していなかったからじゃないの。王族の暮らしをするのが嫌で嫌で、がまんできなかったわ。あちこち訪問したり、公務をこなしたり、自分の生活なんかなくなってしまうから。でも、思ったの。ステキな吃音、幸せになれそうって」
 エリザベスは、どもりながら一所懸命話すヨーク公の姿に誠実さをみたのでしょう。あなたの吃音を聞いて、「Beautiful」と言う。そして、「素敵な吃音のこの人となら、私は幸せになれるかもしれないと思って結婚したのよ」と言う。とても素敵なシーンです。
 こういうふうに、自分の弱さを、妻にも娘にも、アホウドリという表現をしながら、自分なんか大した人間じゃないよと言う。家族に弱音を吐けるのはすごく大事なことです。
 人が生きていく上で、嫌なこと辛いことは山ほどあります。弱音を、誰かに話したい。私はよく、教師や援助職のセルフヘルプグループ、弱音を吐ける教師の会のようなものがあればいいなあと思います。愚痴を言い合える仲間が必要だと思います。
 どもる子どもに対して、強くなれ、そんなことで逃げちゃだめ、泣いちゃだめ、と言うのではなくて、弱音が吐ける子どもに育ててほしい。困った時には困った、苦しい時には苦しい、助けてほしいと素直に言えるしなやかさが必要です。強くたくましく生きる必要はない。弱音を、家族にもセラピストにも話せたから、ローグとの臨床が成功したのだと思います。もしあの家族の、妻の、娘たちの支えがなかったら辛いです。そういう意味では、これは家族の支えの映画でもあったと言えると思うのです。

   吃音の問題とは

 ローグが治療を引き受けるとき、「本人にやる気があれば治せる」と言います。吃音治療の要望に言語訓練はしましたが、これまでの経験から効果があるとは思ってなかっただろうと思います。治療の初期には80日以上連続して集中的に訓練を続けますが、まったく効果がありません。
 全く改善しないままに、最後の開戦スピーチの録音室に向かいます。スピーチ5分前まで、歌ったり、踊ったり、悪態を叫んだりして、必死で声を出す練習をしますが、うまくいかない。不安を抱きながら、スピーチをしますが、自分でも満足できる成功を収めます。なぜ成功したのか。ここに吃音の臨床の大きなヒントがあるのです。
 はじめのシーンで出てきた、口にビー玉を含んで話す治療は、紀元前300年代ギリシャのデモステネスが実際に訓練した方法で史実です。海岸の荒波に向かって大声を出す練習などで吃音を克服し、大雄弁家になったと言われています。彼は吃音を治すために過酷な訓練を続け、成功したと言われていますが、訓練の結果ではないと私は考えています。
 デモステネスも、ギリシアの国を守る責任感と、政治家として弁論をしなければならない役割と立場があった。それらがデモステネスのことばを変えたのであって、訓練がことばを変えたのではない。
 私も、21歳までかなりどもっていましたが、治すことを諦めて、どもりながら生きていこうと覚悟を決めて、日常生活に出ていきました。仕送りの全くない東京の大学生活を送るためのアルバイト、自分が創立したどもる人のセルフヘルプグループの発展のために必死に活動しました。その後、大阪教育大学の教員になり、人前で自分の考えを伝えなければならない立場に立ちました。
 グループの責任者として、大学の教員として、「語るべきことばと、語りたいことば」を話していく中で、私のことばは変わりました。
 デモステネスも、ジョージ6世も、私も、人前で話せるようになったのは、吃音治療の結果ではなく、自然に変わったのです。ローグが治せると言ったのは、吃音症状そのものではなくて、吃音不安、吃音恐怖だったのです。
 心の問題だと捉え、不安や恐怖へアプローチしたのです。
 ジョージ6世の話すことへの不安と恐怖は、映画全編に出ています。不安が頂点に達したのが、国王にならなければならないかもしれないと感じ始めた時です。

 吃音への不安が頂点に達した時

 兄が、愛人と一緒にいる山荘に、弟夫婦を招待した時に、ヨーク公は、王としての仕事をしない兄に苦情を言います。その時兄は、「お前はスピーチの練習をしているそうだが、王位を奪おうと思っているのか」と、彼のどもる真似をします。とても仲のいい兄弟だったから、今まではあまりなかったことだろうと思いますが、その時に、怒りが込み上げても、兄に何も反論もできず、本当に悔しい思いをします。悔しい思いを、ローグのところに行ってぶちまけます。ローグが誘って散歩をするシーンです。
 「長男の国王が、離婚歴のある人間と結婚するつもりらしい。王室では、離婚経験者とは結婚できない」と話した時に、ローグが、「あなたが王になったらいい、立派な王になれる」と言います。すると、現実には兄が王の座にいるのに、王を侮辱するのかと怒ります。これは、兄が侮辱されたことへの怒りというよりも、国王になることへの不安が頂点に達したのだと思います。
 兄が本当にシンプソン夫人と結婚したら、王ではいられなくなる。となると、絶対になりたくなかった王に自分がならなくてはならない。国王になるとスピーチをしなければならない。不安が頂点に達する。ローグがいなければ本当は困るにもかかわらず、不安が恐怖になり、思わず「お前とのセラピーはおしまいだ」と決裂します。
 このシーンが、大きなポイントになっています。 吃音そのものではなく、彼の不安と恐怖にこそアプローチをしなければならないと考えたローグのセラピーに対する考え方は、的を得て、とても素晴らしいと思います。
 異端の、卓越したスピーチセラピストであるローグは、1920年代にすでに、スピーチセラピーは大した効果はないことを知っていた。セラピーすべきは、吃音への不安と恐怖から、全てに自信をなくしている、心の問題だと見抜いたのです。

   吃音治療の歴史

 ローグの時代の吃音治療 

 1920年から1930年代当時の治療技法が発達していなかったからうまくいかなかったと皆さんは考えるかもしれませんが、映画に出てくる技法は、ビー玉を口に入れること以外は、全部現在でも使われているものばかりです。
 これまでたくさんの治療を受けながら、少しも改善しないために、ヨーク公本人は吃音治療をあきらめていますが、妻のエリザベスはあきらめません。探し回ってローグに行き着きます。彼女の強い希望で、仕方なく、ローグの治療室を訪れますが、「バーティ」と対等に呼ばれることに抵抗感もあり、気乗りはしません。「誰にも私の吃音は治せない」と言うヨ-ク公に、今でも使う、マスキングノイズを使います。
 「私はあなたが、全然どもらずにしゃべれることを証明してみせる」と1シリングの賭けをします。シェイクスピアの有名な「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」の台詞を読ませますが、どもって読めません。そこで、ヘッドフォンをつけさせ読んでみなさいと言う。ヘッドホンから大音量の音楽が流れる中で読ませてレコードに録音します。
 「無駄だ、絶望的だ。この方法は私には向いていない」と去ろうとするとき、「録音は無料です。記念にお持ち下さい」とレコードを渡される。
 父親のクリスマス放送に立ち会ったとき、「お前も練習してみろ」と原稿を渡され、読んでみた。どもって全然読めずに落ち込んだ。そして、ひとりで、部屋で音楽を聴いていたとき、ふと、あのレコードのことを思い出し、聴いてみました。すると、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」とどもらずに読んでいます。自分の耳には、音楽が聞こえているから、しゃべってる声は全然聴こえません。これがマスキングノイズです。びっくりして、ひょっとすると役に立つかもしれないと思い直して、ローグのもとを再び訪れ、治療が始まります。
 ローグは、治療として、音楽をヘッドフォンで聴かせる、腹式呼吸、からだや顎や舌などの筋肉をゆるめる、大声で発声する、ゆっくり間をとって話す、歌って話すなどを試みますが、驚くことに、それらは現在とまったく変わっていません。その後新たな治療法は何一つ生まれていないのです。しかし、ローグは、あの当時は異端であっても、現代にも十分通用する、吃音臨床に対する哲学をもっていました。
 ローグは、吃音の問題はことばにあるのではなく、心の治療こそが必要だと言います。あの当時も、いろいろな治療法をするセラピストがいたでしょうが、何の役にも立たないと、ローグ自身はわかっていたのでしょう。だから他のセラピストとは違う異端のセラピストだとの評価がされていたのです。これは、当時としてすごいことです。

 アイオワ学派の治療 

 1930年代に、吃音に悩んで、吃音を研究したいと考えた人たちが、アイオワ大学に集結しました。チャールズ・ヴァン・ライパー、ウェンデル・ジョンソンらです。
 彼らは、従来の「わーたーしーはー」という不自然であってもどもらない話し方を身につける、吃音をコントロールするセラピーは、どもることへの不安や恐れをかえって大きくすると批判しました。吃音の問題は、吃音症状だけにあるのではないとの考え方です。
 ウェンデル・ジョンソンは言語関係図で、ライパーは吃音方程式を作り、吃音は症状だけの問題ではないと強調しました。
 この二人よりも明確に言ったのが、アメリカの著名な言語病理学者、ジョゼフ・G・シーアンです。吃音は、随伴症状を含めて周りから見えていて、本人も意識しているのは、氷山のごく一部で水面上の小さな部分だ。本当の吃音の問題は、水面下に大きく隠れている。それは吃音を避けたり、どもると惨めになったり、不安になったり、恐怖に思ったり、そういう感情の問題だとする、吃音氷山説を主張しました。
 1970年、シーアンは、この考え方を、アメリカ言語財団の冊子「To The Stutterer」で発表しました。その冊子を、内須川洸筑波大学名誉教授と一緒に翻訳して出版したのが、『人間とコミュニケーション-吃音者のために』(日本放送出版協会)です。
 私が自分の体験を通してずっと考えてきたことなので、うれしくて、シーアンに手紙を書きました。とても共感し合え、新しい著書も送っていただきました。シーアンよりも丁寧に整理すると、行動、思考、感情はこうなります。
 行動は、吃音を隠し、話すことから逃げ、いろいろな場面で消極的になっていくことです。
 ジョージ6世は、吃音を隠し、話すことから逃げて、すごく非社交的な生活をしました。王室は社交の世界で、社交が大事な公務であるのに、彼はすごく引っ込み思案で、王室としては困った存在でした。エリザベスと結婚することで、社交の場は広がったようですが、人前に出るのをとても嫌っていました。ヨーク公は、どもりを隠し、話すことから逃げ、できたら話さないでおきたかったのです。だから国王なんかになりたくないと逃げ続けました。これが行動です。
 思考は、「どもりは悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの」。「どもっている人間が王などになるべきではない」。「どもってするスピーチは失敗だ」などという考え方です。「どもってスピーチすると、国民はこんな情けない国王を持って、不幸せだと思うに違いない」という考え方です。
 感情は、どもることへの不安、スピーチすることへの不安、恐怖です。どもった後の恥ずかしい、みっともないと思う気持ち。どもることで相手に迷惑をかけたと思うなどの罪悪感です。
 シーアンは、これこそが吃音の問題なのだと主張しました。それなのに、アメリカ言語病理学は、1970年のシーアンのこの提案を吃音にどう生かすか、全く考えずに放置してきた。やっと最近、吃音評価と臨床のために「CALMSモデル」という多次元モデルが、何か新しいことのように出されました。
 けれど、それよりもはるか前にシーアンが言った方が、吃音の本質をついて、シンプルで臨床に使いやすいモデルを提案していたのです。シーアンは、水面下に隠れた大きな部分が、吃音の問題だと言ったわけですが、1920年代のローグがすでに考え、実際にやっていたのです。
 ローグの孫が、ローグの日記やセラピーの記録を、脚本家のサイドラーに提供したことで、吃音治療の真実が語られることになりました。サイドラーは、アカデミー賞の脚本賞をもらいましたが、思春期までかなり吃音に悩んでいました。また、子どもの頃に、ジョージ6世のスピーチを実際に聴いています。自身の体験と照らして、セラピー記録をもとに、当時の吃音治療を詳細に調査して脚本を書いていますので、「英国王のスピーチ」に出てくる吃音の治療場面は、正確で間違いないだろうと思います。
 そう考えると、この映画が誕生したのはいろいろな要素がからみあった奇跡のような気がします。

 吃音治療に関するローグの基本的な考え

 ローグの吃音治療の考え方が明らかになるシーンがあります。戴冠式の準備の時です。
 医者や言語聴覚士の免許もなくて、吃音や臨床の研修の経験もないことが、王室の調査機関で分かり、宮殿でローグはヨーク公から責められます。大司教から、セラピストを変えるように言われるからです。一向に治療効果がないことへのいらだちもあって、資格のない人間が、どうして吃音治療をしているのか、お前は詐欺師だと、ローグを責めます。その時に彼が反論したことが、彼の臨床を物語っています。
 「言語障害専門」と看板を掲げるローグのもとに、様々な言語障害に悩む人が相談に来ます。ベトナム戦争のあと、帰還戦士が戦争後遺症から、自殺をしたり、さまざまな精神障害に悩まされます。心的外傷後ストレス障害やトラウマのことばが一般に知られるようになりましたが、それより前の第一次世界大戦で、人を殺し、友人が知人が死んでいくのを目の当たりに見た兵士たちが、戦争が終わった後、しゃべれなくなります。そのような兵士のセラピーの体験を語ります。
 「私は医者ではないが、芝居はそれなりにやった。パブで詩を読み、学校で話し方も教えた。戦争になり、前線から戻る兵士の中に、戦争神経症でしゃべれない人間がいた。誰かが私に言った。「彼らを治してやれ」と。運動や療法も必要だが、心の治療こそが大切だ。彼らの叫びに誰も耳を傾けない。私の役目は、彼らに自信をもたせ、“友が聞いている”と力づけることだ。あなたの場合と似ているだろう」
 「見事な弁明だが、詐欺師だ」
 「戦争で多くの経験を私は積んだ。成功は山ほどある。経験はたくさんしている。ドクターと自分で言ったことはない。詐欺師だというなら、私を監禁しろ」
 このやりとりで、ジョージ6世は、ローグが自分の話をよく聞き、真剣に向き合ってくれたことを思い出します。資格がなくても自分にとってはローグが必要だ。大司教の推薦するセラピストを、「これは私個人の問題だ」と断固拒否し、改めてローグをセラピストとして選びます。本当の信頼関係が確立した瞬間です。再びセラピーが始まります。

   人間が変わっていく要因

      
 九州大学の村山正治先生に紹介していただいた、カウンセリング、精神療法、心理療法の効果要因の研究があります。ゲシュタルト・セラピー、交流分析、論理療法、来談者中心療法などいろんなセラピーに共通する効果要因の調査研究です。
 それぞれの流派は自分たちの技法が一番効果的だと考えていましたが、流派による差はなく、その代わりに興味深い数字が出ました。人が変わっていく要因の全体を100%とした場合の数字です。
 ①特殊なスキル     15パーセント
 ②期待効果       15パーセント
 ③セラピストとの関係性 30パーセント
 ④セラピー以外の場   40パーセント
 これは心理臨床の研究ですが、自然に変わっていくことの多い吃音臨床の場合、④は、この数字以上だろうと僕は考えています。
 特殊なスキルとは、多くの臨床家が自分こそはと誇るその流派の特殊な治療技法で、15%。
 治療に期待する効果は15%。
 アメリカでは、偽薬の研究が盛んです。あまり信頼できない医者が処方する本物の薬より、信頼できる医者の小麦粉が効く場合があるくらい、セラピストとの関係性は大きく、30%。
 一番大きい40%は、セラピーの技法などと関係ない、セラピー以外の場です。いい仲間や恋人ができた、仕事がうまくいった、楽しめる趣味のようなものが見つかった、思いがけず宝くじに当たったなど、生活の中のセラピー以外の場で起こっているさまざまな出会いやできごとです。いわゆる自然治癒といっていいかもしれません。自然治癒力、免疫力、私は自己変化力と言いますが、日常生活を送る中で、何かは特定できないけれど自然に変わったのが、40%です。
 これはアメリカの長年の膨大なデータをもとにした、信用できる報告です。これが報告されたときに、村山先生の大学院の臨床心理士になろうとしている学生がショックを受けるから、紹介しないほうがいいよとの話が冗談まがいに出るくらい、治療技法を学ぼうとしている人にとっては衝撃的な調査結果だったようです。
 私は言語聴覚士養成の専門学校で講義をしていますが、学生は吃音治療のスキルを求めます。ことばの教室の教師もそうです。治療技法を探し、研修する人がいい臨床家だと錯覚している人がいます。問題を抱えて、人が生きる中では、治療技法よりもセラピストとの関係性の方がずっと大きいのです。相手を対等と見て、尊敬し、信頼する。相互尊敬、相互信頼のないところにセラピーは成り立たないのですが、その重要なセラピストとの関係性でも30%です。何か分からないけれど、自然に変わったが一番多いのです。
 ジョージ6世の場合も、開戦スピーチが成功した要因は、後で詳しく話しますが、ローグの吃音治療のスキルよりも、国王を支える妻のエリザベスを中心とした家族の愛、国王としての、スピーチを含めてのさまざまな公務の中での人やできごととの出会いが影響しています。セラピー以外の場の40パーセントだろうと思います。
 ことばの教室でも、あれこれと教室で40分ほど言語指導して、指導に効果があったと考える人がいるかもしれませんが、それは疑問です。仮に変わったとしてもそれはその子どものもつ、自然変化力によるものでしょう。学校生活の中で、先生や同級生との関係がいい方向に変わった、何か喜びや楽しいことができたなどの可能性の方が、ずっと大きいのです。
 このことに関係して、再び「対等」の話をします。映画での「対等」は、治療の場では、国王も国民も対等だということに矮小化されそうですが、そうではありません。セラピストとクライエントは対等で、セラピストがクライエントよりも優れていたり、吃音に関して何か特別の知識や技能があるわけではなく、対等とは、セラピストの、自分は大したことはできないとする、「無力宣言」に等しいのです。大したことはできないけれど、対等の人間として誠実に関われば人は変わっていくのです。
 家族療法におけるナラティヴ・アプローチでは、「無知」と言います。自分を苦しめている問題が、どう自分の人生に影響しているかを一番知っているのは研究者や臨床家ではなく、本人です。当事者本人に教えてもらうしかない。無力で何も知らないから、本人に教えてもらうのです。ことばの教室だったら、吃音についてどんなことを考え、どんなことで困り、どんな将来へのイメージをもっているか、子どもに教えてもらわないと、取り組みは成り立たないのです。
 なのに、あえて強い言葉で言えば、傲慢にも、吃音研究者や臨床家は、自分が吃音について一番知っているかのような錯覚を起こして、自分の数少ない臨床経験の中で、こうやればこうなるはずだと考えてしまう。これはとても危険なことです。
 ローグは徹底して彼の側に寄り添い、真剣にジョージ6世の話を聴いています。まさに臨床です。
 ローグが対等の立場で、よく話に耳を傾けることによってジョージ6世は心を開き、自分の苦しかった幼少期について話します。王室では、母が育てず、乳母が育てるようですが、乳母につねられたり、食事を与えられないなど3年間虐待を受けた苦しみや、兄との関係や、13歳で死んだ弟のことなどを話します。
 その話は、一般国民のセラピスト、ローグには想像もつきません。言語障害の専門家ではあっても、その人がどう生きてきたかは、教えてもらうしかないのです。私は何も知らないから、あなたが物語って教えてほしい。無知であることに徹底します。対等は能力的にも上下関係ではないので、セラピストも当然のことながら失敗します。ローグもいっぱい失敗する。しくじった、しくじったと何度も言っています。
 特に吃音は、確実な治療法がなく、ローグにしても、自信があったわけでも、こうなると見通しをもってジョージ6世に関わったわけでもなかったでしょう。治療法のない、吃音の取り組みは、失敗して当たり前、しくじって当たり前なのです。だからしくじったら、ごめんなさいと謝って、悩んで落ち込む。対等ということは、一緒に落ち込み、一緒に悩み、一緒に失敗し、一緒に成功する。その中で一緒に何かを探し出していく。その姿勢が、対等であるということです。
 映画でも、ローグを専門家であるけれども、一人の劣等感をもつ人間として描いています。彼は、オーストラリア人であること、オーストラリア訛りがあるために、シェイクスピアの劇のオーディションに失敗したことなどの劣等感をもっています。弱さや劣等感をもっている仲間として対等で、一緒に歩んでいく。これが僕が言う対等性です。
 ローグは見事に対等性があったが、映画の冒頭に出てくるような、消毒してあるからと言ってビー玉を口に含ませて、「ビー玉に負けず、集中して」と、上から押しつけるような医者であれば、絶対に成功はしていません。
 セラピストも、自分と同じ匂いがする、劣等感をもっている弱い存在なんだと思えたから、ジョージ6世はローグを信頼したのだと思います。ジョージ6世とローグの互いに信頼する対等な人間関係が30パーセントです。
 治療場面以外の場が40パーセントとすると、いわゆる言語治療は大きな位置を占めていないことが分かるでしょう。実際に言語訓練はまったく効果がなかったことが、開戦スピーチの直前の様子をみても分かります。では、何がジョージ6世を変えたのか、さらに考えましょう。

   吃音に悩む人が変わるには

 
 I have a voice

 英国王のスピーチは、この一言のために作られた映画だといっていいくらいです。今後の吃音臨床でもっとも重要な意味をもつことです。「I have a voice」は、言葉を変えれば、「私は、国王としての責任を全うする」です。この責任感が、開戦スピーチ成功の一番の要因です。
 戴冠式の準備の時、大司教から、ローグがスピーチセラピーの研修経験もセラピストの資格もないことを知らされたジョージ6世は、自分の吃音を治せなかったローグを責めます。
 「お前は研修経験も資格もないが、度胸だけはある。戦争が迫る中、この国にことばなき王を押しつけた。私の家族の幸せを壊した上に、治る見込みのないスター患者を罠に陥れた。ジョージ3世のように狂気の王になる。狂った王、どもりのジョージ。危機の時代に国民を失望させる王」
 このように責められている間に、ローグは戴冠式に使う王座に座ります。それを見たジョージ6世は怒ります。
 「立て、王座に座ってはいかん」
 「ただのイスだ。観光客の落書きもある」
 「戴冠式用のイスだ。私の言うことを聞け、立つんだ」
 「何の権利でそういうことを言う」
 「神の権利だ。私は王だ」
 「あなたは、王になるのは嫌なんだろう。そんな人のことばをなぜ聞く必要がある」 
 「I have a voice」 
 「そうとも、あなたは忍耐強く、誰よりも勇敢だ。りっぱな王になる」
 「I have a voice」、ジョージ6世の凛とした声が響くこのシーンが、この映画のハイライトです。字幕には、「私には王たる声がある」とありますが、公開前の宣伝映像の字幕は、「私には伝えるべき言葉がある」でした。これが吃音の臨床の眼目です。
 流暢に話せることが重要なのではない。どもらないように工夫してしゃべることに意味があるのではありません。その人の話の内容に大切な意味があるなら、どんなにどもっても人はその話を聞きます。でも、どんなに流暢でもその人の話が空疎なら、しゃべればしゃべるほど人は聞きません。
 僕の親友の結婚式の経験です。感動的な結婚式の最後に、新郎の父親の意味のない挨拶が延々と20分以上続きました。聞き手の反応にお構いなしに話は続き、参加者みんながうんざりして、折角の感動の結婚式が台無しでした。
 真実の言葉を語るときは、どもった方がいいと世界的作曲家の武満徹さんが名エッセー「吃音宣言」の中で書いています。詩人の谷川俊太郎さんとの対談で、僕が女性にもてた話をしたときに、「どもる人は、誠実だと誤解されるんだよね。とつとつと話す言葉に真実がある」と言いました。「私はあなたのことが好きだ」と、早口で軽く言われても相手に伝わらない。「す……………好きだ」の方が伝わると言うのです。
 平和な時代の王であれば、「I have a voice」と言う必要はありません。ヒトラーが、イギリスの説得を無視して戦争が始まります。日本の僕たちが考える戦争と、ヨーロッパの人たちが考える戦争とは全然違います。沖縄の人たちが経験していることですが、地続きのヨーロッパでの戦争は、目の前を戦車が通り、人が撃たれて死に、建物が破壊されます。目の前で起こる大変なことを第一次世界大戦で経験しているヨーロッパの人たちが、また、その戦争に再び巻き込まれる。政府としては苦渋の選択です。
 開戦のスピーチは、国王が、国民に説明し、勇気づけ、安心感を与え、みんなでこの困難を耐えようと訴えなければならない、大変重要な言葉です。結婚式のお祝いのスピーチではありません。空疎な「頑張ろう!」なんてことでは国民は納得しません。どれだけの人に影響を与えるかを知り尽くした上での国王としての言葉なのです。
 国王としての立場、責任、地位、役割、それらの中から絞り出された、「I have a voice」です。ローグへの怒りを込めながら、しかし、大いなる決意を込めて、威厳をもっての「I have a voice」。
 本当の王が誕生した重要なシーンです。

 語るべき言葉をもつ

 吃音に劣等感をもち、治したいと悩むどもる人や子どもに伝えたいメッセージは、言葉がどもるか、どもらないかの前に、「あなたには語るべき言葉があるのか」です。
 2000年6月、NHKの『にんげんゆうゆう』という番組にスタジオ出演しました。柿沼郭アナウンサーが、「伊藤さん、最後に、吃音で苦しんできた人として、何か言葉について考えていることはないですか?」との質問に僕は話しました。
 「吃音を否定的に考えて、これまで、すらすらしゃべることに価値があると普通に近づくことばかりを追いかけてきた。でも、どもりながらでも、その人の話を聞きたいと思えば、人はいくらどもっていても聞くだろう。たとえ、立て板に水のようにすらすらしゃべっても、空疎で内容がない話だったら、人は聞かない。どもるどもらないより以前に、あなたには言いたいことがあるか、言うべき内容があるかを、自分たちで問いかけたい。 どうしてもしゃべりたいことがあれば、どもる恥ずかしさや恐ろしさを超えて、人は話していくだろう。そして、それが結果として言語訓練にもなる。どうしてもしゃべりたいという気持ちが出るような、生活の質、充実した生活をいかに送るかが大切で、その中でしゃべりたい内容を育てる。それが大切なんじゃないでしょうか」
 この番組を息子さんが録画して、それを観た落語家の桂文福さんが「吃音に悩んできた同じ仲間として共感しました」と電話を下さいました。以来、仲間としてのつきあいが続いています。落語家生活40周年記念パーティーの場で、特別に僕を吃音の仲間として紹介して下さいました。
 「I have a voice」。国王として、「伝える言葉」があったから、その責任を重いものとして自覚していたから、開戦スピーチができたのです。
 一方、どもる私たちやどもる子どもたちが苦しいのは、このように、重要な、伝えるべき言葉だけではないことも知っておいてほしいことです。
 小学校の健康観察の時の「はい、元気です」や、「おはようございます」など、簡単で、あまり重要ではない言葉が言えないことです。幼稚園で、謝るときには「ごめんなさい」を言うようにと指導され、「ごめんなさい」の「ご」がどもるため言えずに、いじめられていたとの話を聞きました。
 どうしても言わなければいけない言葉ではない、あるいは、言いたいことではない言葉で、多くの人は苦戦しています。作家の重松清さんも「語りたい言葉でどもるのはいいが、どうでもいいような言葉でどもるのは嫌だ」と言っていました。だから、重松さんも僕も、社交辞令の言葉だけが飛び交うパーティーや懇親会、雑談が嫌いです。ジョージ6世もパーティーや社交が苦手でした。
 静岡でのキャンプの話し合いで、「どもりを、別に治したいと思わない」と言った小学4年生の片山悠太君は、健康観察の時、「か」がどもって言えないので、「か」を言わずに、「たやまゆうた、元気です」と言っていると言いました。するとある子は、「おはようございます」の「お」が出ないから、「はようございます」と言っていると、悪びれずに言っていました。子どもたちがつくった『どもりカルタ』に「サバイバル、はい、元気ですの、「はい」をとり」がありました。
 語りたい、語らなければならない言葉は、どんなにどもっても語る。どうでもいいような言葉は、伝わりさえすればいい。このように柔軟に考えることが、吃音と共に生きるということです。

 ナラティヴ・アプローチの実際~「吃音否定」から「吃音肯定」への語り~

 
 言葉が生きる世界を作り出します。開戦スピーチの成功は、「どうしようもない王」という吃音否定の物語を、ローグを中心とした周りの人の力で、「やればできるかもしれない」という吃音肯定の物語に変えたことにあります。
 「英国王のスピーチ」の吃音治療は、結果として、ナラティヴ・アプローチになっていたと僕は考えています。
 ジョージ6世は、「どもっていては人から好かれない」「どもっていてはスピーチの成功はない」「どもっていると人は聞いてくれない」の物語を、子どもの頃から作り、自分で語り、それに捉われて、どもっていたら何もできないと思ってきました。
 親などから影響を受け、世間から影響を受け、自分自身で語り続けてきたのです。この吃音に対するネガティブな、悲しい苦しい物語を、新しい物語に変えたのが、この映画なのです。誠実であれば、責任感があれば、どんな場であっても、どもっても出ていける、人間として成長できるという新たな物語を語ることができたのです。それがナラティヴ・アプローチです。
 「英国王のスピーチ」には、物語を語り直すプロセスが描かれているといっていいでしょう。
 
 「まあいいか」、吃音肯定の語りへ

 映画の中で、吃音にまつわるネガティブな物語は再三再四語られます。吃音否定の物語が頂点に達したのが、1936年12月12日、王位継承評議会の場でひどくどもった夜、妻エリザベスの胸にすがって号泣するシーンです。
 「クリスマスの放送は、失敗するに決まっている。戴冠式・・・、これは大いなる間違いだ。僕は王じゃない。将校でしかない。王なんかじゃない。すまない。情けない」
 こような強固な吃音否定の物語を変えていくのは容易なことではありません。
 エリザベスを中心にした家庭では、吃音はそのまま肯定されていますが、それだけでは十分ではありません。「あなたの素敵な吃音を聞いて幸せになれそうと思ったから結婚したのよ」のエリザベスの言葉も、ローグの「あなたは立派な王になる」の言葉も、繰り返し繰り返し語り続けられました。映画の中で語られた肯定的な語りを拾いましょう。

 <妻・エリザベス>「私があなたと結婚を決意したのは、あなたの吃音が素敵だったから。あなたは立派な素敵な人だ」
 <父親のジョージ5世> 「兄は、他人の夫人にしか興味がない、父親にまで嘘をつく人間だ。もし彼が王になれば、一年以内に国は滅びるだろう。それを救うのはお前だ。おまえは兄弟の誰よりも根性がある」
 <後の首相・チャーチル> 「兄が離婚歴のある人と結婚をするからではなくて、不誠実で責任感に欠けている。戦争をする大事な時に、国民が本当に頼れる王が必要だ。あなたこそ、その、頼れる王だ」
 <ローグ> 「あなたは忍耐強く、誰よりも勇敢で、あなたこそ立派な王になれる」

 流暢にしゃべる社交的で聡明な兄よりも、弟のもつ誠実さ、責任感に価値を置き、弟の方が人間的に優れていると、父国王も、チャーチルら周りの人も語り続けるのです。
 言われたそのときには受け止められなくても、たびたび言われるこれらのメッセージを受けて、ジョージ6世は、「責任感を持ち、国民の声に耳を傾け、国民に対して誠実に語りかければ、いかにどもっていようと、国王としての役割が果たせるのではないか」と思い始めます。戴冠式の準備の時の、「I have a voice」は、吃音を肯定して歩む第一歩でした。そして、映画の最後のシーンに象徴的な言葉が出てきます。
 ローグと出会って5年、時には80日間連続してセラピーを受け、ジョージ6世も真面目に訓練に励みますが、全く効果がありません。
 突然入った開戦スピーチ。40分前に、ローグも呼ばれ、準備をします。大声で怒鳴ったり、歌うように言うなど、スピーチの数分前でも、いろいろと声を出す試みをしますが、声が出ません。まじめに厳しい訓練をしても変化のない吃音のまま、ジョージ6世はマイクに向かわざるを得ませんでした。スピーチの40秒前です。
 「結果がどうであれ、君の努力には心から感謝している」
 これは、言葉を変えれば、「いくらどもっても、私には語るべき言葉があり、語る権利がある。国民はそれを聞く義務がある」との物語ができたからです。どもるときは、どもりながら話そう、どもっても責任を全うしようと、ジョージ6世が覚悟を決めました。どもりながら、一言一言かみしめながら、間を置いて、丁寧に語ることばが、国民には伝わっていきます。
 セラピストであるローグは常に、新しい物語を彼に語らせようとしました。物語る材料は、セラピストであるローグにあったのではありません。「吃音があっても大丈夫」と、ローグがジョージ6世を説得したのではありません。ジョージ6世本人が語る物語の中から、材料を見逃さずにキャッチして、それをもとに物語る手伝いをします。
 家族療法のナラティヴ・アプローチをする人たちは、本人や家族が語るネガティブな物語から、何かヒントになる言葉を逃さずにキャッチします。ジョージ6世は、ネガティブな物語ばかりを語りますが、その中で、これまでと違う、長所を本人が語る場面がありました。
 父・ジョージ5世が死ぬ直前に、「あいつは、兄弟の誰よりも根性がある」と周りに言っていたと、ジョージ6世はローグに話しています。もっと早く父親が直接息子に話していれば、もっと早く肯定の物語に変えることができたでしょうに。
 妻も、父親も、チャーチルも、ローグも、再三「あなたは、王になる資質がある」と言い続けた言葉がだんだんと身に染み入っていったから、ジョージ6世は、最後の土壇場にきて、「たとえ、どもって立ち往生しても大丈夫。最後まで読み切ることで、自分の王としての責任をとることができる。立派にできる」と、どもる覚悟ができたのです。「失敗したら失敗するまでだ」と腹をくくることができたのは、周りの人の力を借りながら、新しい物語を、ローグとジョージ6世が、一緒に作り上げてきたと考えることができます。

 相手に向かって言葉を届ける
 
 不安と緊張が高ぶって、放送室に行く長い廊下を歩く時、チャーチルが、自分も言語障害だったが、自分なりに克服したと言います。実は、チャーチルは吃音です。チャーチルの吃音はジョージ6世の吃音よりも有名で、欧米のどもる人なら誰でも知ってるくらいです。その映像を、僕はクロアチアでの世界大会で見ました。「私もマイクが嫌いだったんだよ」と、チャーチルがさりげなく言ったのも、勇気づけになりました。
 飛び跳ねたり歌いながら声を出そうとしても効果がありません。いろいろやってもうまくいかない。もう駄目だと思ったとき、ローグが「聞いてもらう権利がある」と、ジョージ6世に言わせます。「権利がある、権利がある」叫ぶ内に、彼は、「私には、国民に聞いてもらう権利がある」と確信するのです。「聞いてもらう権利」という言葉、ディビッド・サイドラーの見事なシナリオです。 どんなにどもっても、聞いてもらう権利が私にはあると、自分に言い聞かせてスピーチの場に出て行きます。スピーチまであと3分というとき、国王としての覚悟ができていきます。そして、40秒前の、あの「結果がどうであれ、ローグ、君には心から感謝をしている」につながるのです。 

 ことばが人に届くとき

 「頭を空っぽにして、私に話しかけろ。私だけに、友達として」
 これがどもる人の話すときのポイントです。
 僕たちはどうしても大勢の人の目を気にします。僕も、1000人を超える聴衆の前で講演をしたこともありますが、やはり怖い。1000人の聴衆を見るのではなく、会場の中のこの人に話そうと焦点を当てます。頷いてくれている人や優しそうな人を探します。その人一人に向かって話します。みんなに向かって話すことはできません。
 教室で教員が子どもに語りかける時もそうでしょう。40人の子どもみんなをボヤーッと見て語るのではなくて、この子、この子とひとりひとり相手を見ながら、その子だけに話しかけるように話すと、他の子も聞くことができます。全体に焦点を合わせて語ったのでは、言葉は子どもに伝わりません。
 ローグは、マイクに向かって話すのではなくて、マイクの向こうにいる私を見て、友達である私に話せと言います。世界の四分の一の人口の人が聞いていると考えると、気が遠くなりますが、友達であるローグになら語れます。その瞬間、ふっと力が抜けて、間をとりながら「重大な、困難に、直面して…」とスピーチを始めるのです。
 ジョージ6世のスピーチは、YouTubeで聴くことができます。ゆっくりと、ゆっくりと語っています。聞き手にはどもっていないように聞こえますが、本人としては、どもっている意識はあったと思います。ブロックの状態にあるのが、絶妙の間となって聞き手には伝わっています。どもった瞬間を、間として生かしているのです。

   劣等性、劣等感、劣等コンプレックス

 最後に、この映画のもう一つの見所、兄と弟の劣等感の葛藤の話をします。
 あの映画を違う角度から観ると、兄と弟の、劣等感の葛藤の映画だと僕は捉えています。兄はハンサムで、有能で、社交的で国民に人気があります。王にふさわしいと誰もが思っています。弟は、吃音のために引っ込み思案になり、消極的で、社交性がありません。兄とは全然違います。弟が兄に対して劣等感をもっていただろうことは誰もが想像できます。しかし、僕は、兄の方が弟に対して強い劣等感をもっていたと思うのです。
 劣等性、劣等感、劣等コンプレックスの三つの違いを言ったのは、アドラー心理学です。
 劣等性は、平均値より低いなど、ある程度客観的なものです。しかし、劣等性があるからといって、劣等感があるとは限りません。この人がなぜ劣等感をもっているのか不思議なくらいの人が劣等感をもっていたりします。劣等感は、主観的なものです。
 劣等コンプレックスは、劣等性、劣等感を利用し、口実や言い訳にして人生の課題から逃げることです。人生には、「仕事」、「人間関係」、「愛」という3つの課題があります。仕事は、成人の場合は職業ですが、子どもの場合は、勉強や友達と一生懸命遊ぶこと、スポーツに打ち込むことなども含みます。人間関係は学校、クラス、地域での人間関係です。愛は、人を愛し、家族を作り、子どもを育てることです。
 これを読み解くと、子どもの吃音臨床に展望が出てくると思います。兄は有能だけれど、ある意味軽いです。弟は、吃音の悩みの中から身についてきた、忍耐力、我慢強さ、誠実さがある。兄は人気があるので、何をしても好かれるが、弟は悪いことをしたら相手にされないからでもないでしょうが、誠実、真面目になっていきます。
 みなさんがつきあう、どもる子どもに、真面目、誠実さを感じませんか。悩むということは、誠実だからです。他者に、自分の人生に、誠実でなければあまり人は悩みません。悩むことは悪いことではなくて、その人の誠実さの現れであると言っていいと思うのです。
 兄が弟に強い劣等感をもっていたと分かるシーンがあります。
 王である兄の山荘でのパーティに出席したジョージ6世は、仲がいいからこその苦情を兄に言います。「王たる姿勢で、公務を怠らず、愛人との生活に溺れず、仕事をしてほしい」。すると兄は、「彼女は愛人ではない。結婚するつもりだ。平民は愛があれば結婚ができるのに、なぜ王であればできないのか。お前は、スピーチの練習をしているとの噂を聞いたが、国民にスピーチしたいのか。弟が兄の私を王から引きずり落とそうとしているのか」と、弟のどもりを真似をします。
 弟に対する強い劣等感がなければ、それまでとても仲がよかった兄が、弟の一番嫌がるどもる真似などしません。勤勉性、責任感、誠実さなどの人間性や、王の資質に関して、弟の方がはるかに優れていると、兄は弟に対して密かに、強い劣等感をもっていて、その劣等感が爆発したのです。
 そして、劣等コンプレックスを使ったのは、どもる弟ではなく、人間性で劣ると劣等感をもっていた兄の方でした。弟は、人前に出て行かないとか友達を作らないとか、軽い意味での劣等コンプレックスは使ったけれども、最後の土壇場では使いませんでした。ジョージ6世を演じたコリンファースは、インタビューに応じて、ジョージ6世をとても勇敢な人物だったと語っています。
 「彼自身は自分のことを勇敢だと思っていなかっただろうが、いざとなれば臆することなく恐怖に立ち向かったんだからね。国王になるよう育てられていなかったにもかかわらず、兄が王位を捨てると、黙って王位を継ぎ、決して運命を呪ったりしなかったんだ」
 最後の土壇場で、劣等コンプレックスを使って、人生の課題から逃げたのは兄でした。退任のラジオ放送でもそれはさらに明らかになります。
 「私は退任をします。王を退きます。その理由を皆さんはご存知でしょう。国王として重大な責任と義務を果たすのが、愛する女性の助力がなければ私には不可能でした。この決断は難しくはなかった。弟は長く公務の研修、研鑽を積んできました。私が王を辞めたからといって、弟に代わったからといって、国民が一切の不利益を被ることはないでしょう。弟は立派に国王としての仕事をこなしてくれるでしょう」
 兄は、自分よりも弟の方に王の資質があることを知っていた。そして、平和な時代なら自分でも国王としてやっていけるが、第二次世界大戦という大変な国難の中で、国王として責任を全うする実力が自分にはないと知っていた。だから逃げた。
 「王冠を捨て、愛に生きる」なんて、一般受けするかっこいい言い訳を作り、国王は、離婚歴のある女性と結婚できないことを利用して、国王の責任から逃げたのです。
 どもる子どもが、流暢に話せないことに劣等感をもつとしたら、劣等感や自信について子どもと一緒に、考え、話し合うことが必要です。表面的な、運動や勉強ができるなどよりも、信頼や責任感、誠実さの方が、人間の本質的に価値があることを知ってほしい。
 どもる子どもの多くがもっている、まじめさ、優しさ、誠実さ、苦しくても逃げない忍耐力、工夫してサバイバルして生きる力こそ、幸せに生きる力になる。これらをもとに、「吃音否定」の物語から「吃音肯定」の物語に、一緒に変えていくことを、どもる子どもと取り組みたいのです。
 この映画は、脚本家・サイドラーが、自分自身が吃音に苦しんできたこともあって、少しひいき目に弟を見ていたこともあるかもしれません。国民的人気の兄の伝記やエピソードはたくさん残っていますが、弟はあまり関心がもたれず、ほとんど伝記がない地味な王だったようです。
 サイドラーは、長年、資料を調べ、脚本を書く時に、兄の方が弟に対して劣等感をもっていたのではないか、「王冠を捨てた恋」とかっこよく見えてもそうでないのではと感じたのではないでしょうか。少なくとも、映像からは、僕にはそのように感じられました。
 そこに興味があって、脚本家サイドラーと話をしたいとインタビューを配給会社にお願いしましたが、手続きが大変なので断念しました。機会があれば聞きたいと思います。
《2011年10月、第10回静岡県親子わくわくキャンプ・講演》

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