吃音に強い劣等感をもったきっかけ
小学2年生の秋の学芸会で、セリフのある役を外されたことで僕は、吃音をマイナスのものと意識した。どもっても、よく本読みも発表もし、友だちも多かったのが、学芸会が終わる頃には、まったく別人になっていた。担任は、セリフの多い役はかわいそうだと配慮したのだろうが、僕はとても傷ついた。「吃音は悪い、劣った、恥ずかしいもの」と、先生からレッテルを貼られたことになるのだから。吃音に強い劣等感をもち、「どもるくらいなら話すのをやめよう」とのライフスタイルをもった。発表や音読はしなくなり、友だちとも話さなくなり、クラスや学校の役割も一切しなくなった。ひとりぼっちの給食や、休み時間、運動会や遠足がとても嫌だった。劣等感が劣等コンプレックスになり、人生の課題から逃げた。
苦しかった、中学校、高校時代
中学生活で唯一の救いはクラブ活動だったので、高校でも卓球部に入った。入学式の時見初めた女生徒も卓球部にいて喜んだのもつかの間、新入生の男女合宿を知らされた。彼女の前でどもりたくないだけの理由で、迷いに迷って、合宿の前日に僕は卓球部をやめた。大事な、好きなことからも逃げたことで、一層落ち込んだ。どもるのは仮の姿で、どもりが治ってからが本当の人生が始まるのだと、治ることばかりを夢見、勉強も、遊びもしない高校生活を送った。高校2年生のとき、よく当てる国語の授業に出られなくなり、不登校になった。国語の先生に、音読の免除を願い出てやっと高校を卒業した。早く高校を卒業し、音読や発表から解放されたい。どもりを治すために東京に行きたい。そう思うことが、生きる支えだった。
民間吃音矯正所の体験
どもりを治したくて、2年間浪人生活を送り、東京の大学に行った。1年生のとき、「どもりは必ず治る」と宣伝する東京正生学院に30日間、寮に入って、朝から夜遅くまで吃音を治すために努力した。
院長は、極端にゆっくり話す「どもらずに話す方法」を教えてくれた。
息子の副院長は、アメリカの治療法を勉強して、どもる不安や恐怖があっても、どんどんしゃべろうと、わざとどもる「随意吃音」や、「軽く、楽にどもる方法」を教えてくれた。
院長の方法で、喫茶店で「カーレーラーイース」と言うと、嫌な顔をされ、笑われた。どもらないが、僕のことばじゃない。どもって自分のことばで言った方がよほどいいと思った。こんな方法で治るはずがないと確信した。
副院長のすすめた「随意吃音」を練習したら、吃音がひどくなり、話せなくなった。しかし、「どもってでもどんどんしゃべろう」は僕を勇気づけた。吃音を治すための「ゆっくり」しゃべることは一切やめて、自然にどもっていくことにした。
この学院では、アメリカで激しく対立する2つの方法を同時に教えてもらったことになる。30日間の寮生活の、午前中は呼吸・発声練習、午後は「警察はどこですか」など、毎目100人以上に声をかける街頭訓練と上野公園の西郷隆盛の銅像前や、山手線の電車での演説練習。そして、夜は円く輪になり遅くまで話し込んだ。そのときどもりまくっていた僕は、どもり慣れてきたのだろう。これまで話すことから逃げていたために「どもれない体」になっていたのが、30日間の寮生活の中で「どもれる体」になっていた。当然のことながら、僕自身の吃音は治らなかったが、治すための「ゆっくり」話す訓練をしていた人たち、吃音矯正所に来ていた300人のうち誰ひとり治らなかった。
ゼロの地点に立つ
吃音は治らなかったが、東京正生学院は僕の心の故郷で、今でもとても感謝している。初めて大勢のどもる人と出会ってほっとした。吃音の悩みを話すと、みんなが聞いてくれた。みんなの話も、僕が体験をしたことばかりだ。どもっても平気で話せ、話す喜びを初めて味わった。そして、恋人などできるはずがないと考えていたのが、「どもって一生懸命話す伊藤さんが好きだ」と、そのままの僕を愛してくれた人と出会って、「どもるままでも、まあいいか」と思えるようになった。30日間どもりまくったおかげて「どもれる体」になっていた僕は、この吃音矯正所を出てからも、どもっても話そうという決意ができた。副院長の「どもってもしゃべろう」のアメリカ言語病理学の教えが支えてくれたのだ。
話すことから逃げない生活のはじまり
僕の家が貧しかったので、学費・生活費すべてを自分で稼がなくてはならない。新聞配達店の住みこみから大学生活はスタートしたが、夏休みに東京正生学院への入寮生活のためにやめた。「どもってもいい」と決心がついたので、新聞配達店には戻らずに、百科事典のセールス、デパートの売り子、飲食店のボーイなど、話さなければならないアルバイトに切り替えた。嫌な経験もたくさんしたが、どもっても人はちゃんと僕の話を聞いてくれた。どもると何もできないと考えていたのは、思い込みで、できないことは何ひとつないことを知った。どもりながら、今を生きるのが僕の人生だと気づいた。
どもる人のセルフヘルプグループ言友会の創立とその変遷
1965年秋、せっかく出会えた人たちと別れたくないと、僕はどもる人の会、言友会を作った。リーダー経験がない僕が、会長に次ぐ幹事長になった。自分が作った会の発展のために、どもりながら必死に活動した。失った学童期・思春期を取り戻すかのようだった。
当初は、参加する人の多くが治す思いが捨て切れず、例会は、発声・呼吸訓練をしていた。しかし例会以外のさまざまな活動の方が活発で楽しかった。グループに大勢の人の体験が集まることで、治療方法そのものが間違いで、治るものではないことに多くの人が気づき始めた。障害者運動、青年運動などに積極的に加わり、吃音に対する考え方が変わった。吃音矯正所と同様、吃音は治らなかったが、どもりながらも行動ができる人がどんどん育ち、あきらめていた教師の仕事に就くなど自分の人生を変えていく人もあらわれた。
大阪教育大学・言語障害児教育教員養成課程の教員
1972年、会の後輩が、大阪教育大学の言語障害児教育教員養成課程に行くことになった。吃音を専門的に学び、会の活動を整理する機会だと考え、一緒に行くことにした。主任の神山五郎教授は、耳鼻科の医師であり、自分自身が吃音に悩み、アメリカの大学院に留学して言語病理学博士になり、日本に新しい学問を紹介した人だ。学童期・思春期と、ほとんど勉強しなかった僕は、興味のある吃音の勉強だから、一所懸命勉強した。そして、大阪教育大学の教員となり、ことばの教室の教員を養成する仕事についた。その後、ウェンデル・ジョンソンに直接学び、吃音研究の第一人者である、心理学の、内須川洸教授が大阪教育大学に赴任された。日本を代表する、タイプの違う二人の吃音研究者に身近で学べたことは幸いだった。
吃音を治す努力の否定
僕の言語障害研究室には、全国から大勢のどもる人が、学生や研究生となって集まった。その人たちと、吃音の症状ではなく、消極的な行動、問題との直面を避ける、吃音に悩む人の人生について語り、考えた。「どもる人の悩みが深いのは、吃音は治るとの期待を根強くもつからだ。そのため、吃音が治ったら~しようと考えてしまう。治ることを目標にし、治す努力をすれば、自分の人生は見い出せない」と、「吃音を治す努力の否定」を提起した。これまで誰もが、正しいことだと信じて疑わなかった「吃音を治す」前提を、どもる当事者が取り去ったのだ。
あるどもる青年との出会い
一言一言激しくどもり、舌が強く出る随伴症状に悩む一人の青年は、職場では電話をとらず、話さないので仕事にならない。困り果てた上司の、吃音を治すようにとの職場命令で、「吃音を治してほしい」と大学に相談に来た。小学5年生から、民間吃音矯正所に何度も行ったが治らずに随伴症状も出るようになった。治りたいと思いながら治療の意欲がなく、生活全てが消極的だった。
「僕は君の吃音は治せない。言語訓練は一切しないが、君が消極的になっている行動を変えていくのなら、そのお手伝いはできる。どもりながら、君のしたいことに取り組もう」
自分で情報を集めて、腹話術を練習し、5か月後のどもる人の全国大会で発表する課題に取り組んだ。当初は動けなかったが、腹話術連盟の電話番号だけを教えたことで、仕方なく彼は、初めてひどくどもりながら電話をし、最後まで言い切り情報を得た。この電話をきっかけに彼は変わっていった。200名もの参加者の前で、腹話術を演じた。その後さらに積極的になり、職場でも困ることはなくなった。目標や目的にしたわけではないが、3年ほどしたら、舌が出る随伴症状は消え、吃音も軽くなった。
僕の、「吃音と共に生きる」の提案に対して、吃音の重い、消極的な人は無理だとの批判を必ず受けた。しかし、彼が大きく変化したことで、私は大きな自信を得た。もし、彼との出会いがなかったら、「吃音を治す努力の否定」の提起を、自信をもって提起できたかどうかわからない。
大阪教育大学研究紀要『成人吃音者の一処遇例-治す努力を否定して』1975年
全国吃音巡回相談会から吃音者宣言ヘ
セルフヘルプグループの長年の活動と、この青年とのつきあいで自信を深めた僕は、グループも治療機関もない地域で、ひとりで悩む人に僕の考えを伝え、話し合って検証する旅に出た。北海道から九州まで3か月かけて、全国35都道府県・38会場で、どもる人や親、ことばの教室の先生など400人ほどと、吃音についてじっくりと語り合った。この旅の中でも大きな収穫があった。吃音に悩む人と出会う一方で、吃音に左右されず、自分なりの人生を豊かに生きている人とたくさん出会えたことだ。
僕自身が深く悩んだ体験から、「どもっていれば、吃音に悩むはずだ」との先入観があった。それが破られ、セルフヘルプグループの活動の成果にも確信を持つことができた。
そして、それは、「私たちは長い間どもりを隠し続けてきた…」で始まり、「どもりが治ってからの人生を夢みるより今を生きよう」と呼びかける宣言文につながった。僕が起草したこの宣言文は、反発や批判はあったが、「吃音者宣言」として、会の創立10年の節目に公表した。
『吃音者宣言=言友会10年の活動』(たいまつ社)1976年
カレー屋の経営と、仕事は変わっても
僕は大阪教育大学を退職し、カレー専門店のオーナーシェフになった。吃音に取り組める、国立大学の教員を辞めることに、ほとんどの人が反対した。辞めるにはいくつか理由がある。私の主張に、「大学の先生の安定した仕事だから言えることだ。自営業、サラリーマンには難しい」とよく批判された。吃音研究者の枠にしばられない「ただのどもる人」になりたかったのも、理由のひとつだ。店の名前は「タゴール」。言いにくいと覚悟していたものの、最初の一年は「・・タタタゴール」とよくどもった。大学病院前なので、医師の呼び出しがよくある。「第一外科の田中教授」の呼び出しが、「…たったっ…」と10秒ほど激しくどもることもあった。昔なら、数日は落ち込んだだろうが、落ち込んだものの、30分ほどで、「どもる僕がどもるのは当たり前」と気持ちを切り替えることができた。吃音について学んできたおかげだ。
どもる人の世界大会
日本のどもる人だけでなく、世界のどもる人と出会いたい。世界の吃音研究者、臨床家と吃音についてじっくり語り合いたい。世界の最新の吃音の情報を得たい。
1986年夏、僕が大会会長となり、第1回吃音問題研究国際大会を京都で開いた。
11力国から34人の海外代表を含め、400人のどもる人、臨床家、研究者が集う、文字通り世界で初めての吃音国際大会だった。京都国際会議場の大きなホールで基調講演をし、最終日に海外代表と肩を組み、次回のドイツ大会での再会をよびかける挨拶をしている時、ふと、「どもりでよかった」と思えた。その後3年ごとに世界大会が開かれ、ドイツ、アメリカ、スウェーデン、ベルギー、南アフリカ、オーストラリア、クロアチア、アルゼンチン、オランダと続いている。僕は第10回大会のオランダ大会では3回目の基調講演をした。世界のどもる人や吃音研究者・臨床家との交流が続いている。
吃音と上手につきあう講座
第一回の吃音問題研究国際大会での僕の主張は理解されたが、戸惑いもあったようだ。世界では、吃音を治す・改善には長い歴史があるが、「吃音を生きる」については、具体的にはまったく取り組んでいないからだ。吃音とつきあうための具体的なプログラムを求められた。
1987年の4月から、週に1度の大阪吃音教室で、僕は「吃音と上手につきあう」ために、3つを柱にした年間45回のプログラムをつくり、毎回資料を作って講座の全てを担当した。その時僕が毎週執筆していた資料やプログラムは現在でも大阪吃音教室に引き継がれている。
- 原因論や治療の歴史、不安や恐れへの対処など、吃音について学ぶ
- 自分を知り他者を知り、人間関係について心理療法を学ぶ
- 話す、聴く、書く、声の表現など、コミュニケーションの力を育てる
様々な領域から学ぶ
アメリカの言語病理学者、ジョゼフ・G・シーアンは、吃音は氷山のようなもので、水面に浮かんでいる見える部分が吃音の症状で、本当の問題は水面下に沈んでいる大きな部分だとした。この吃音氷山説の水面下の部分である、吃音からくる行動、思考、感情については、臨床心理学、精神医学、社会心理学、哲学、教育学など、様々な分野で理論や技法が蓄積され、人間共通の財産になっている。それらを、劣等感、不安、恐怖などへの対処に活かすことができる。吃音に活かせるものなら何でも学ぼうと、年に一度の「吃音ワークショップ」や「親・教師・言語聴覚士のための吃音講習会」などで、様々な分野の第一人者から学んできた。
吃音研究の内須川洸・筑波大学教授。演出家の竹内敏晴さん。アサーティブ・トレーニングの平木典子・日本女子大学教授。詩人の谷川俊太郎さん。論理療法の石隈利紀・筑波大学教授。芥川賞作家の村田喜代子さん。人間関係の村瀬旻・慶應大学教授。映像作家の羽仁進さん。劇作家・演出家の鴻上尚史さん。自己概念教育の梶田叡一・兵庫教育大学学長。交流分析の杉田峰康・福岡県立大学教授。文化人類学者のデイビッド・レイノルズさん。トランスパーソナル心理学の諸富祥彦・明治大学教授。笑いの芸人・松元ヒロさん。日本笑い学会会長の井上宏・関西大学教授。認知療法の大野裕・慶應大学教授。直木賞作家の重松清さん。パーソンセンタード・アプローチの村山正治・九州大学教授。アドラー心理学の岸見一郎さん。サイコドラマの増野肇・ルーテル学院大学大学院教授。当事者研究の向谷地生良さん。ゲシュタルト・セラピーの倉戸ヨシヤさん。内観療法の三木善彦さん。ナラティヴ・アプローチの国重浩一さん。社会福祉の北野誠一さん。
学んだことは、書籍や冊子になり、私たちの活動を支えてくれている。
吃音親子サマーキャンプ
僕たちは学童期・思春期、吃音に深刻に悩んだが、真剣に向き合い、学んでこなかった。だから、「ゼロの地点に立つ」ことが難しかったのだと考えた。私たちの経験を子どもたちに伝えれば、吃音を否定し、話すことから逃げる学童期・思春期を送らずにすむのでないか。早期に、吃音に向き合い、吃音とのつきあい方を学んでほしい。「ゼロの地点」に立ってほしい。
1990年、小学生から高校生までを対象にした、吃音親子サマーキャンプを始めた。
- 吃音についての話し合い:臨床家とどもる人が入り、同年齢の子どものグループで話し合う。
- 劇の稽古と上演:どもりながら他者に働きかける、ことばの力を体験する。
- 親の学習会:吃音だけでなく、子育てに必要な、アサーションなどを学ぶ。
全国からスタッフをあわせて150人ほどが参加するが、僕たちの予想したとおり、子どもたちは変わり、小学低学年の子どもが「ゼロの地点」に立ち、自分の道を歩み始めている。
この活動は、TBSがドキュメンタリー番組「報道の魂」や、TBSニュースバード「ニュースの視点」の40分の番組で紹介された。そのDVDの映像は、小学3年生の子どもたちがどのような話し合いをしているか、どんなキャンプか、よくわかる映像教材となっている。