どもりに悩んでいた頃、どもって自己紹介をしている自分への嫌悪感、どもる人間が将来どうなるのかという漠然とした未来への不安がふくらむ。小学校5年生で、もう中学生の新しいクラスでの自己紹介が怖かった。3月の、冷たい風に春の息吹が感じられ、新学年が始まる早春は、今でも、胸がキューンとしめつけられるような感じになる。

 このように、どもりに苦しみ、どもりを治したい、どもりが治らないと僕の人生はないと思い詰めている子どもに、親は何ができるだろうか。子どもが学校で苦戦していることは、通信簿や担任教師の話から知っている。心配もしていたことだろう。しかし、私の親は何もしなかった。どもりを治そうと必死になって病院などに連れていくこともなく、子どもの将来がどうなるだろうという不安は、おくびにも出さなかった。姉、兄、弟に対するのと、何一つ変わることはなかった。ただ、愛情をもって子どもの世話をする、ごくごく普通の母親だった。子どもの力を信じてくれていたのだろう。

 子どもが苦戦している現場に出て行き、子どもと代わってやる。そんなことはできない母親にとって、まっとうに子どもに愛情を注ぐ以外に、私への接し方はこれしかなかっただろうと思う。親から愛されているという、親の愛を信じることができた当時の私にとっては、この対応で十分だった……。

 ところが、現代は情報が多すぎる。そのままでは、子どもは情報の渦の中に巻き込まれてしまう。私が現代に子ども時代を送っていたとしたら、親にどのように声をかけて欲しかっただろうかを考えてみた。これは、吃音に限ったことではなく、病気や障害、様々な事柄に苦戦している子どもにとって共通のことだと思う。

「あなたはひとりではない」

 一人で悩んでいた。他にどもる人がたくさんいるなんて知らなかった。吃音がどんなものか話してもらったことがないから、話題にしてはいけないものだと思っていた。無知なるが故に、漠然とした不安は消えなかった。どもりながらも自分なりに充実した人生を生きている人がいることを教えて欲しかった。分かっている範囲で正しい情報が欲しかった。同じようにどもっている子どもや大人に出会いたかった。

「あなたはあなたのままでいい」

 必ず治ると信じていたから、今を生きられなかった。自分を受け入れることができなかった。吃音は治るのが難しいことなら、治すことよりも、「どもってもいいやんか」と言って欲しかった。どもることは、悪いことで、恥ずかしいことだと思っていると、話すことができなくなってしまう。治りにくいものに、治ると信じて、治そうとすることほど辛いものはない。

「あなたには力がある」

 学校で、辛いことや嫌なこともあったけれど、自分なりにはがんばってきた頃があった。その時、「がんばってね」と励ますよりも、「がんばっているね。大丈夫だね」と、現在苦戦をしながらもがんばっていることを評価して欲しかった。

 かつて私は、どもりながらも、明るく元気な子どもだった。「大きな声で返事ができることクラス随一である」と、小学校一年の時に書かれた通信簿は大きな支えだった。あれもできない、これもできないではなく、こんなことができると、自分の力を認めてくれる人が周りにいたら、大きな力になったことだろう。

★豊かな心とことばを育てる京都与謝地方親の会★

【ことばと教育 第106号  2003.7.11】   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二