昨年5月の「吃音者宣言」採択に続き、11月には、たいまつ新書『吃音者宣言』が発刊されました。言友会運動に関心をもってかかわってこられた方々に、「宣言」だけでなく、本についても感想を寄せていただいています。

「吃音者宣言」に学んで

毎日新聞大阪本社学芸部記者  八木晃介

 1975年の初秋でした。当時、私が勤務していた毎日新聞東京本社に、言友会の代表と名乗る方が私に面会を求めて来られたのです。認識不足も甚しいのですが、「言友会?さて、なにかしら?」などと躊躇していると、本社の受付嬢は「『紙面について問いただしたいことがあるとおっしゃっています。」とかなりきつい調子なのです。「これはただごとではないわい」と四階の編集局からエレベーターにも乗らず、階段をかけ降りて一階の受付へ行きました。

 そこに立っていた童顔の、颯爽たる青年が当時大阪教育大学の助手で、全国言友会事務局長も務めたことのある伊藤伸二さんでした。それが私の最初の言友会体験だったわけです。地階の喫茶店に腰をおろし、コーヒーを注文したのですが、伊藤さんはそれに口をつけることもなく、開口一番から私を激しくめくりはじめたのです。むろんそれは私を罵倒するなどというものではなく、温厚で説得的な伊藤さんのいつもの語り口だったのですが、私にすれば、いわば糾弾を受けていると実感せざるを得ないほどに胸にこたえてくることばかりでした。

 「八木さんは部落問題や障害者問題などについて比較的まっとうな反差別の論理を新聞でも展開しているのに、吃音問題についてはなぜあのようなデタラメの原稿を書くのですか。」というような調子であったと記憶します。私は読者に対して、常にある種の恐しさというものを意識しながら原稿を書いているつもりですが、そのときもまたここにも本質的なこわさを持つ一人の読者がいる、と実際に感じなければなりませんでした。要するにそのとき、伊藤さんは私に対して、おまえは分かったような顔をしているが、実際には何も分かっていないではないか、と指摘されたのだと思います。恥かしさをおして言えば、私は今まで一貫して、そのような指摘を受け続け、その中でようやく自分が歩いていく道筋をみつけ出してノロノロと進んできたように思うのです。私にとっての幸いは、そういう私を見捨てることなく、めくり続けてくれる部落の人々や、「障害」者の人々が私の周囲に存在していたことでした。伊藤さんもまたそのような存在として、つまり、私を〝真人間〟に作りかえてくれる人物として私の前に登楊してこられたのです。

 伊藤さんが〝あのようなデタラメの原稿〟と指摘されたのにはむろん具体的な対象があります。それは、ある民間の吃音矯正所の紹介記事といったもので、それも単なる紹介ではなく、その矯正所の作った本やレコードの配布方法にまで詳しく触れたものでした。私は正直いってその当時、吃音はある種の医療的手だてによって完治する、もしくは少なくとも軽快するにちがいないと信じていましたし、治療できるものは治すにこしたことはないと極めて単純に考えていたのです。ですからその民間矯正所が本やレコードを無料で配布すると聞いたとき、無料というところにその矯正所の良心のごときものを感じたのは事実ですし、本やレコードが吃音矯正に多少でもプラスするならばそれはそれで評価してよいのではないか、とも思ったわけなのです。

 伊藤さんは様々なことを私に教えてくれました。いかなる治療によっても治らない吃音が少なくないこと、その場合でもなお治すことに執着すべきであるかどうかということ、そうではなく、吃音をありのまま認めてたくましく生きていくことが人間として本質的な生き方ではないか、そのためには〝治す努力を否定する〟ところから出発すべきではないかということ-など、今から考えてみればごく妥当なことばかりでした。それ以前にも私は新聞や雑誌に「障害」者問題にふれて「もし障害さえなかったら・・・・と非現実を空想するのではなく、障害をありのまま認めたうえで、人間としての解放を展望することこそ重要ではないか」といった内容のことを書いているわけですから、伊藤さんにすれば、吃音問題に関する記事を書いている私と、「障害」者問題を書いている私とが果たして同一人物か、と不審感をもたれたのも当然のことと思います。いいかえれば、私はそれほどにも真実が見えていなかったということですし、さらにそれを裏返していえば、結局は「障害」者問題についても、もっともらしいことを言いながら、実際のところはやはり見えてはいなかったのだということなのです。まさに何度赤面してもしすぎることのない恥ずかしさをいまもって感じ続けているのです。

 伊藤さんはそのとき、言友会活動のあゆみを克明に総括しながら、到達した地平について熱っぽく次のように説明してくれたのです。「吃音が治ってからの人生を夢みるのではなく、いまこのときをどう生きるかを大切にすべきだと思うのです。〝どもりを治す努力を否定する〟ところから新しい生き方が生まれます。どもりを治すべきかどうか、の問題ではなく、どう生きるかを問題にしていくのが言友会活動の内容なんです」と。さらに「言友会の考え方と、八木さんの考え方とが全然違うと思えば私は最初からここにはきません。一致する部分が多いはずだと思えばこそ抗議にきたわけですが、どうですか、ちがいますか」とも述べられました。私は伊藤さんのいうところにほとんど同意し、きれいにめくられていく自分を意識していました。ちなみに伊藤さんは私と全く同年齢なのでした。

 言友会に所属する吃音者の人々は、「どもりさえ治れば本来の自分の姿をとりもどせる」とか、「いまはどもっているのだから仕方がない」という自らの逃げの姿勢をまずはっきりと対象化するところから出発し、逃げない自己の確立をめざすという非常に高いところに到達されたのだ、と私は思います。口にすればそれだけのことかもしれませんが、それがどれほどの痛苦を伴う作業であるかを考えることができる程度の想像力は私にもあるつもりです。

 そのような地点から「吃音者宣言」に達したことは、第三者的ないい方になりますが、その意味で自然なことがらであったと考えられます。むろん、自然なゆき方とはいうものの、「隠せば隠しきることができる吃音」をあえて自ら宣言するというところに自然なゆき方を超えた本質的な思想性が存在することも当然でしょう。私は後日、伊藤さんから送られてきた「吃音者宣言」の草案を拝見したときに、実をいって、日本の最初にして最高の人権宣言ともいうべき「水平社宣言」を読むときとほとんど同質の熱い感動を覚えたものでした。

 「全国の仲間たち、どもりだからと自分をさげすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢みるより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている硬い殻を打ち破ろう」「どもりで悩んできた私たちは、人に受け入れられないことのつらさを知っている。すべての人が尊重され、個性と能力を発揮して生きることのできる社会の実現こそ私たちの願いである」「吃音者宣言、それは、どもりながらもたくましく生き、すべての人びとと連帯していこうという私たち吃音者の叫びであり、願いであり、自らへの決意である。私たちは今こそ、私たちが吃音者であることをここに宣言する」

 さきにあげた「水平社宣言」の精神は現在に至るも強く生き続け、たとえば教育の場における部落民宣言という形でも具体化されています。さらに、位相と局面を異にしますが、在日朝鮮人生徒の本名を名乗る運動と朝鮮人宣言にも本質的には共通する精神が存在していると思います。この一連の流れの中に吃音者宣言を位置づけることはむろん強引すぎると思われますが、底流としての思想性や精神としてはやはり重なる部分が多いと私は考えます。

 現代日本の総体としての差別社会にあって、自らが被差別者であることを宣言することは、もとよりいかなる現実的利益をももたらすものでないことこれは確実です。しかし、それにもかかわらず、否、そうであるがゆえに、宣言は人間的な意味合いを担保するものといえるわけなのでしょう。自らの依って立つ基盤を客観的に把握することによってはじめて自己の社会的立脚点や立場が見えてくるのであり、しかも被差別者の存在がこの階級社会にあっては十分階級的であることから、宣言それ自体がすぐれて階級的意味を持たざるを得ないことにもなると思います。

 伊藤さんは『吃音者宣言(たいまつ社刊)』のプロローグを「どもりが、どもりとしてそのまま認められる社会の実現こそ、私たちの願いなのである。その道は遠くとも、行かねばならない」という言葉で結んでおられますが、以上に記したような意味で私はそのことの意味をとても大切なことと思います。部落出身者や在日朝鮮人が差別されることのない社会の実現、「障害」者が「障害」のゆえに差別されることなく「健全」者と共に地域、職場、学校などで平等に生きていける社会の実現こそ必要であり、そのためには自らのおかれた社会的立場の即自的かつ対自的な認識こそが前提となると私も考えています。そしてそれこそが、社会的な広がりを加味した人間的連帯の根本的契機にもなると思うのです。言友会は「吃音者宣言」を発することにより、その抜きさしならない苦しい、しかし正統的な歩みを、歩みはじめたのだと思います。

 すでに述べたように、私は伊藤さんをはじめとする言友会の方々から実にたくさんのことを学びました。にもかかわらず、私はそれにほとんど応えていない自分というものを厳しく認識しています。たったひとつの仕事といえば、たいまつ社の編集委員をしている関係で『吃音者宣言』の刊行を企画し、伊藤さんを中心とする言友会の方々の努力でそれが実現されたことくらいです。私はこれからも私自身の立場から言友会運動に参加していきたいと願っております。

 本稿で、私は編集者の意に添わず自分のことを書きすぎたような気もします。私はこの文章を、私自身への〝確認書〟のつもりで記したのです。御容赦下さい。

 言友会の皆様、誤ちばかりをおかしている私を今後もどうかめくり続けて下さいますように、とお願いして筆をおきたいと思います。(1979・6・17記)

「吃音者宣言」の今後の道は

-記事を一回書いただけの、ある新聞記者の思い-

朝日新聞大阪学芸部記者  長倉 功

 吃音者宣言から1年たって-という記事を書いた。(朝日新聞5月20日付大阪家庭面)

 どもりの記事は、探してみると、かなり各新聞に載っているし、吃音者宣言についてさえも、いくつもの紹介記事が書かれていて、正直いうとびっくりした。言友会諸氏のPRに感服し私の新聞記者としての認識不足に毎度のことながらクサった。完全な〝後発〟の記者としては、さてどんなニューラインで読者というフアッション界に売りこんだものか。クロウトとして割合に苦労した記事であった。

 結局は「どもりの人たちの世界に変化がおこりつつある。その変化というのは、どもりを〝すばらしい個性〟と積極的に捕える風潮が、どもりの人々の間で育ってきていることだ」という現象を中心に、書いた。新聞の常だが、当然推測される「昔ながらの考え方」の存在はあっさり書いてしまったし、積極的な捕え方がどのくらい成功するものかもデータ不足で書けなかった。あれやこれや、記事としてダメな点を考え出すと、新聞記者などやっていられるものではない。幸か不幸か、常に「ハイ次!」とニュースが追いかけてきて、そしてヘェーというようなことが沢山あるものだから、あまりクヨクヨしなくて済む。まあ吃音の記事のできばえは、上見りゃきりないし、下見りゃきりないが、小生としては傑作でもひどい欠陥作品でもなく、マアマアではなかったろうかという程度である。

 で、記者のクロウトとしての思いはこのくらいにして、言葉を気にしているかたがたのことを、どんなふうに考えたか、今はどう考えているか、つまり、吃音者宣言について何を考えてきたか、に移ろう。

 もうご相像いただけたと思うけれど、吃音者についてまともに考えてみたのは、こんどの記事の取材が、はじめてだった。何だ、はじめてなのに、こんなに図々しく…という反射的な情緒反応を起こさせてしまいそうだが、まあ待ってほしい。確かに、吃音者については今回が初めてだが、聞くにつれ読むにつれ、ウム、このことはアレと同じだなと思うようなことが、いくつも-実に沢山-思い起こされてきた。アレというのは、今、日本で、特に医療や福祉といった世界で問題になっている〝一連の諸現象〟である。

 私がここで問題にしておきたいのは吃音者とかドモリとかいう種類に個有の特異的現象のことではなくて、他の分野の心ある人々がいま、苦闘を重ねている様々なこととの共通性についてである。もっとも、吃音あるいは吃音者という分野について、当然ながら私はまだ理解不足のところもあるだろう。『吃音者宣言』(たいまつ社)を読みながら、幾度も「うわァ、ドモリの人って大変なんだなあ」と驚いたくらいなのだ。的外れも、あるかもしれない。あらかじめお断りしておく。あったら、そこで「だから図々しいというんだ!」と思ってほしい。多分あまり外れてはいないのでないか…という気持ちは(これこそまさに図々しく!)ちょっぴりあるけれど。

 さて、私がまず引っかかったことは「ドモリ」と「吃音者」という2つの語であった。この2つは、メクラと盲人、ビッコと身体障害者といった種類の、差別をなくしていくための使い分け用のことばなのか?

 問題にしたいのは、なぜ2つの用語が必要なのか、ということではない。それはそれで興味を引かれはするが、新聞記者としては、ドモリを吃音者と直して使えば、最低ラインはパスするのだから。

 引っかかっているのは『吃音者』である。また『吃音』(者がない)である。

 ドモリという語は、どちらにも通用する。つまリドモリは、現象を指し、そういう現象をかかえる人間をも指す。「ドモリをなおす」「ドモリをよくする」「ドモリを克服する」という文章のドモリは、どちらを指すのだろう?

 いうまでもない。ドモリという語は現在使われている限りでは、現象が主であって、その保持者を示す意味は、いわば流用でしかない。

 「吃音者宣言」とは、だから「ドモリという性質を持つ人間」を人間だときちんと捕えて、その人間についてうんぬんして行こうという姿勢を見事に表している言葉といえないか。逆に捕えれば、ドモリで困るのは「人間」なのだという、一番大切なところを、少なくとも日本では、従来、意識的につかまえようとして来なかったのではないか。私が引っかかったことを説明的な文章にすると、こんなことになる。

 医療の世界で「病気を見るな、病人を見よ」という言葉が、かなり前から強調されている。病気を治療することだけに終わらず、常にその病人のしあわせが増すかどうかをチェックしつづけろという意味の警句である。この「病気」と「病人」の個所に、「ドモリ」と「吃音者」をあてはめてみてほしい。

 病人は、この病気さえなおれば…と病床では考えやすい。医療従事者がその、必然的に狭くなった患者の観念だけにとらわれてはいけないのは、当然であろう。病気がなおらないときもある。病気がなおっても患者に〝天国〟が来るとは限らない。多分、ドモリについても、同じことが言えるのではないか、ドモリをなおすことに取り組みそれにかかり切って、ドモリストの人生を含むその他のことはつい忘れていたというのが、これまでのみんなの姿勢だったのではないか。そうでなくてドモリという特徴を持ったその人間について、総合的に検計する姿勢を貫くことが、大事なのではないか。むろんドモリという性質をも含めてではあるが、そのドモリストが持っている沢山の人間としての性質をも、忘れずに考えあわせるということを強調してよいのではないか。

 「吃音者宣言」と、人間であることをうたったところは、その姿勢を示して、ドモリストを人間扱いするということの突破口を開いたと私には思えた。そう評価することが、宣言の意義の最大のもの、少なくともきわめて大事なポイントではなかろうか。

 広く医療・福祉の各分野での〝人間回復〟〝人間性回復〟を目指しての、旧勢力との闘争との共通性に思い当ったというのは、たとえば、以上のようなことである。

 実は、名医とか名看護婦とかいわれる人々は、ずっと昔から、常に「その人にとって、どうだろうか」という視点を、きちんと持ち続けて来ていた。だからこそ、名医と呼ばれ、名看護婦と呼ばれたのだった。念のためだが、その人たちはすべて独学で、孤立したままで道をつくった。あちらにひとりこちらにひとり…と、ポツンポツンと存在し、日本の全体として大きな勢力には育つことなく、一人ずつ死んでいった。その孤立無援-未結集という事情は、実は今日でもあまり変わっていないのだが、しかしそれら名医、名看護婦、名保健婦といった人々が持つ視点に着目し、それがどんなに大切なことかを人々に認識させようとする動きが、あちこちで始まっているとはいえるだろう。

 ドモリについても、事情は全く同じことではないか。昔からドモリを克服した人たちは各地にポツンポツンといた。その人たちには、必ず、「本人にとってコノコト(今やろうとしていること)は結局人生にどのくらいプラス(又はマイナス)だろうか」という視点が必ずついていたように思える。自分で克服したときには自分に。子や後輩にドモリを克服させた場合は、親または先生(先輩)に。あるいはその双方に、その視点があった。『吃音者宣言』の中に限っても、たとえば子を「ことばの教室」に入れるのを断った父親には、「この子にとってはどもりながらの生活でよいしその人生の方がこの子には結局プラスだ」という姿勢がきちんと備わっていると読みとれるし、ドモリストの運転手吉田昌平氏の講演のテープをドモリに悩むK君に聞かせたことばの教室の担当者からも、「K君は、ドモリながら生きる味を知った方が人生豊かであろうし、K君なら克服できるであろう」という、愛情に裏打ちされたきびしさとその執着を、ひしひしと感じさせる。安藤百枝さんの、ドモリの子の母親としての思いの中にも、「この子にとってコノコトは…?」とひとつひとつ自問してみる姿勢の有無が、まさに母親としての合格・不合格を決定するのだと理解していくそのへんが、痛いほど表現されているし、更に多くの吃音者が、「本人(自分)にとって何が大切なのか?」を問い詰めてその解答を得たとき、ドモリが克服できたと口々に語っているのである。

 そしてそれは、これまで、他の分野と同様に一人ずつポツンポツンと日本中に散在する成功者の経験であった。もし言友会の活動と吃音者宣言がなかったら、やはり結局はそのまま成功者の人生が終わるとともに、墓の下に埋もれ続けて行ったことであろう。

 ドモリ(吃音)が焦点になってはいけない。その人(吃音者)自身の、その人の主観での人生の豊かさが(いかにむずかしかろうと)唯一最大の焦点にならなくてはいけない。

 吃音者宣言が突破口となったその概念を、私なりに書くとこうなる。

 さて、吃音者宣言の起草者、その運動のポイントである「治す努力の否定」の創始者には厳しすぎるかもしれないが、以上のような私の見方からすると宣言や運動はあくまで「突破口」にすぎない。宣言や運動の意味するところは十分にわかるけれど、それだけが、すべての吃音者にとって唯一絶対であると証明されたわけでは決してない。このことを、主唱者である人たちは、十分に頭の中に入れておいてほしいと思う。

 このことは、決して「吃音者宣言」の価値や、「治す努力の否定」の成果を全面否定するものでは、毛頭ない。吃音者や吃音の歴史が続く限り、宣言の中の〝人間性回復〟や、「治す努力の否定」で自分の人生を取り戻したという人々の意義は、まちがいなく一つのエポックとして存在しつづけよう。

 ただ、ここでも他分野を参考にするなら、吃音者宣言からの今後の発展や展開は、実はこれからが大変なのであって、すべてのドモリストの福祉に役立つようになるまでには、曲りくねった険しい道が待ちかまえているだろうと、容易に予想されるのである。

 たとえば、八十才近いどもりのおじいさんが、「生きているうちに、せめて一度だけ、どもらずに話してみたい」と述懐している。むろんそれは、夢に終わるであろう。絶望的である。うんざりして、このおじいさんの二の舞いは踏みたくないと感じる- それはそれでよい。けれど、その思いとは別に、まさにこのおじいさんの人生にとってその叶えられることのない夢を持ちつづけた一生は、そうでない(仮定の)一生と比べて、どのへんがプラスだったのだろうかと、冷徹に考えてみなければなるまい。そう問うてみる気持ちが、少なくとも同時に、理想的には、「二の舞いを踏みたくない」という感覚よりも先に、湧いてこなくてはならない。

 そうでなければ、「このおじいさんにとって…」という視点は、少なくともその瞬間には失われる。この視点を持ち続けること、常に忘れないことは、そんなに容易な修行では獲得できないし、だからこそ、「病気をみず病人をみる」という警句が、あいも変らず強調され続けているのだ。従って運動としては、吃音者とその周囲の人々にとって、この問いを優先して心中に湧きあがらせるようなシステム(学習方法)を編み出し、普及せねばならない。少数の主唱者、指導者だけではない(その人たちだけでも大変だろうに)。にぶい人やバカもチョンも、世の中には沢山いるのだ。

 おじいさんの二つの人生を比べてみる姿勢を忘れてしまったら、それこそ運動は、ドモリ克服とか治す努力の否定という〝現象〟の強調に終わり、どもって暮らしているその人の人生を考える〝人間性尊重〟の最大のポイントを外れてしまうことになるのだ。

 更に、では、このおじいさんの人生を、もう一度やりなおすタイムマシンがあったとして(SFが大嫌いなら、同じような性質のドモリの子がいるとして)、その本人の人生は、①治す努力をしてみる②努力の否定にエネルギーを注ぐ、のどちらを選択した方が、本人にとって「幸福」が多いだろうか。これをつきつめねばならない。注意しておけば、その幸福はあくまで本人にとっての幸福であって、運動の主唱者、指導者の価値観とは全く別である。②を選んだ方が、その人にとって人生の実りが多い場合だけ、②を選ぶように勧め、仕向ける必要がある。となるとこれは大変な神技に近い。なにしろその子が、①治す努力をしてみる、という道を選び、それに成功し、それによって自信をつけて、自分が選んだ人生の進路で数多い成果をあげ、つまり十分しあわせになる- という可能性もゼロではないのだ。また逆に、②治す努力の否定の道がうまく行かずに、サイコロが裏目に出ることはないという保証も、ないのだから。道は決して、平担ではない。

 こんな、ヘリクツと受け取られそうな議論を一応わかって頂いたことにして、その上で他分野からの、参考になりそうな具体的な、「差し当たっての努力目標」を、ご参考までに、いくつか挙げておくことにしよう。

 ひとつは、いま述べた選択のさいの「その人」のパターンの分類である。とりあえずその子を②の「否定の道」に入らせようとするさいの、成功の確率の高そうな要因の抽出である。

 性格は、明るいか暗いか、楽天的か滅入りがちか、世話好きか孤独型か、うぬぼれ型か自信喪失型か、すなおかひねくれやすいか…。年齢は? 学歴や職業は? 育った家庭環境は? IQは? …。

 成功者では、一体何が、またはどんな取りあわせが、成功要因として効いているのか?- という点である。これには、たとえば他の分野から「がんと本人に宣告する場合の是非」「ボケやすい人の予想」など、現実にある程度研究が進んでいる成果などを取り入れることもできよう。

 第二に「治す努力の否定」のための〝予習〟である。

 ノイローゼを治す方法の一つに、日本で発案され、世界中に広まっている森田療法というのがある。何かが気になってしかたがない(ノイローゼ)とき、それにこだわるなという一般人の忠告とは逆に、監視者のもとで、「うんとこだわれ」「徹底的にこだわれ」と、簡単な作業などをやりながら、仕向けて行く実践方法である。こだわりきった状態を続けると、人間はヘトヘトになって、もうどうでもいいという気持ちになり、ある時期でポンとこだわりから抜けた広い境地に至るというのが筋道である。文字通り「こだわり抜く」のである。ノイローゼについては、症状によって、たとえば一日目はこうする、二日目は何をするといった具合に(そうリジッドではないが)、実施細則がきまっている。

 友人のノイローゼ既往者が、私の「吃音者宣言から一年」の記事を読んでまさに森田療法の結果と同じだね、と言った。彼は意識したかどうか分からないが、つまり、ポンと抜けた人は確かにこうなるだろうよ(大変なのは、抜けるまでだ)と言いたかったのだと思う。更に言いかえると、「治す努力の否定」で新しい境地に抜け出た人たちは、まだ抜けられずにいてこだわり続けている後輩たちに、どうしたら抜けられるものなのか、「その後輩」に適した実践細則を提示してあげてほしいものである。

 むろん、ある成功者の道が、ぴたりと「その後輩」に当てはまりはしなかろう。それには多くの例を集め、分析し、共通要因を抽出する基本的な努力が必要だろう。が、一方では、森田療法その他、人間に苦手な「その人を問題にしつづける」姿勢をなるべく意識しなくて済むハウツーを他分野から〝輸入〟によって、実践面の工夫を容易にすることはできよう。ロジャースのノン・ディレクテイブ・カウンセリング、心理学での支持療法とか内観療法…、その他応用可能な武器は多い。

 第三に、客観的に見れば、(本人にはものすごくカチンと来ることは承知の上だが)吃音など大したことはないのに、その中に埋没してしまうことがこんなに多いのかと驚かされる現状では、そんな甘ったれた吃音者の目を、広く〝もっと気の毒な人々〟の上に開かせる方策を練ることが、ぜひ運動として必要ではないか。

 実はこれも、ドモリストだけではない。どんな病気でも障害でも、あるいは育児や教育の方面でも、一昔前に比べて「甘え人間」の増加が顕著である。うっかりすると、今の世の中は基本的に「食う心配」がいらないから(生活保護も救急医療も老人ホームも、ひと通りは、ある)だろうが、ヤケになって、大きな心配、「うっかりすると死んでしまうぞ」という自己への励ましが、湧いて来ないことになる。当然ながら、ドモリであっても勤まる職業を真剣に習うとか、どもりながらでもセールスを立派に勤めなければならないとかいう、否応なく「ドモリを克服する努力」など、よほど変人ででもなければ腰を入れにくいに決まっている。経済的にもややゆとりのできた現在の日本では、ドモリなど、こだわり、没頭し、ウジウジと悩み続けるかっこう「中ぐらいの心配のタネ」であろう。

 「ドモリの悩みが〝中ぐらい〟などとは、何をこの野郎」とお考えの方にいいたい。死病に臨んでなお、全力をふりしぼって生きている人の姿にシンから打たれるまで、看病してみたまえ。肉親の生涯を打ちこんでの看病の中で呼吸を続ける植物人間のボランティアを、やってみたまえ。ボケ老人のボケを回復させ、その中で人間にとっては何が大切なものなのかを悟ってみたまえ。その実践のあとで、自分にとってドモリがどのくらい大切かを、あらためて考えてみたまえ。

 筋ジストロフィーで死期を宣言されている少年たち。脳性小児マヒの人々とその家族…吃音が妨げとならないボランティアの道は、いま、ありすぎるほどある。その粘り強い実践の中でドモリストたちは、ドモリ克服のヒントを必ずつかむにちがいない。

 冷静に考えれば、かくいう私とて、ヤワな世の中に生きる、だらしない〝甘ったれ〟の一人である。いろんな方が、その甘ったれの私に「お前の人生では何が大事なのか」を問いつめてくれた。それを思うと、〝甘ったれ〟達の世の中には、お互いの、この種の問いつめの機会を与え合うことが、非常に大事なことである。ドモリストたちが自ら人生を考えるためにボランティアを実践することは、結果として広く他人の障害にも目を向けることになろう。そしてその成果は更に、広く〝人間たち〟の真の連帯をも生んで行くのではないだろうか。

宣言の意味するもの

㈶東京正生学院 梅田英彦

 1620年に、宗教的迫害を逃れてヨーロッパ大陸に渡った102名の清教徒たちがいた。

 肉体的な死を賭けての精神の自由、人間の尊厳をかちとろうとする壮行であった。

 そして、150有余年を経て、人種問題を契機とする南北戦争の終焉と共に、1776年、リンカーンによる「人民の、人民による、人民のための政治」を標ぼうする「アメリカ独立宣言」がなされたのは、夙に有名な史実である。以後、アメリヵでは、ジェファーソンの人権宣言から、今日におけるカーターの人権政治まで、人間の自由と平等の保証こそ、教育の、社会の、政治の「是」とする一貫した理念がある。

 それは、ややもすると、それを許さない勢力や思想が存在したり、台頭するという人間の歴史を物語っており、今日、アメリカ社会にもなお、多くの矛盾が露呈されていることにも、よく判る事実といえる。

 日本でも、迫害や差別に泣いた人々それへの抵抗や運動は、数多くみられる。

 「島原の乱」における切支丹宗の「踏絵」への反逆は前記の清教徒と軌を一にする行動であり、新しくは水平社運動がある。

 戦国時代から徳川時代にかけて「穢多」「非人」と称せられ、職業、結婚、服装、髪型等々に極端に禁止的な分が設けられ、特殊な集落を作り住むことを強制させられた部族があった。彼等の存在は、朝鮮半島から渡り住んだものという「人種的起源」、四足動物を殺生し生計をたてるものは、仏教に反する不浄の徒とする「宗教的起源」、闘いに敗れ、追われ住んだとする「政治的起源」等の原因で説明されてきている。いずれにせよ、武家の下で搾取されてきた農工商民たちより、更に悲惨な下層を作ることにより、彼等の不満を抑え、身分を受け入れさせ、封建制度を維持せんとする政治的意図があったことは否定できない。それが300有余年という被差別者の歴史を産み今日なお、同和問題として取り沙汰される事実となっている。

 明治4年、新政府により、呼称の廃止、身分・職業とも平民同様という解放令が出されたが「新平民」という呼称として、差別の歴史は続いていく。ツバを吐きかけられ、石を投げられた彼等自身の中から、真の解放をかちとろうとする水平運動がおこったのは、これまた踏絵への反抗であった。大正11年、京都の岡崎公会堂において、全国より集まる3000人の人々によって、人権宣言ともいうべき「水平社創立宣言」が果されている。

 昭和51年5月、第10回全言連大会に参加した200名ほどの成人吃音者によって「吃音者宣言」が採択された。〝どもりを治す努力をやめ、もったままでたくましく生きよ〟とするこの宣言は、水平社宣言にヒントを得たと伝聞されている。

 更に、同年11月、伊藤伸二氏の編著による『吃音者宣言』が〝たいまつ社〟より上梓され、言友会活動の社会的意義、或いは、吃音者はどう生きるべきかの一方向が示唆され、宣言の意図するものが天下に公開された。

 それを筆者は、「吃音者による、吃音者のための、吃音者の独立宣言」と了解した。

 それを、長年の肩の荷をおろす実感として読んだ。

 吃音を恥じ、恐れ、苦悩することなく、人の支持や理解を求めるのでなく自らの意志と責任で、自らの人生を探求するということばを、多くの吃音者の総意として確かに聞いたからであった。

 これまで、善意の親、教師の役割を長年果してきたと自賛していた矯正家、臨床家、研究者達は、吃音者からの折節の過剰な依存、時としての転移的憎悪に苦しめられた過ぎし日を想い、一抹の愛惜を胸に秘めながら、確かに拍手をもって吃音者離れを心に誓ったに違いない。

 多くのマス・メディアによって、吃音に対する認識が普通化した今日、教師への個人的期待によって吃音者が集まる治療、矯正学校があっても、既に施設活動は死在化し、老木の倒るるのをまつ感が深い。

 親の依頼によって、吃児を預る治療教室があっても、治療という響きに自信をもって当れる教師は少なく、臆病でもあり、逃避的ですらある。その活動も縮少に向かいつつある。

 吃音界をリードする主導権は、既に吃音者の手の中にある。

 伊藤氏を始め、言友会の中核的活動をなして来た人々の姿は、眩いばかりに、将に「たくましい」。ただし、「たくましい」とは、目的に向って一途に生きる人の謂であって、「吃音をもったまま、たくましく生きる」という表現はかなりナルチスティックである。「たくましさ」が目標になるのは、ボディビルである。

 少数の刻苦によって吃音を矯正し得た人の在りし日の姿は、やはり「たくましかった」であろうし、それを信念とし、人もそうなりうると愚直に教えつづけた多くの人の姿も、ナルチスティックな領域でやはり「たくましい」。

 皮肉なことに、「吃ったままで」と言おうが「吃らぬように」と言おうが、所詮、表裏の関係を述べているにすぎず、吃音者の吃音への〝とらわれ〟の深さをまざまざと思い知らされる。その証は、言友会発会の狼火となった〝アンチ矯正所〟の発想や表現が、10年経った今日なお、宣言の意義を説明する文章にかなりの多きページをさいていることである。

 「吃音者宣言」より既に前に、武満徹氏の「吃音宣言」という示唆に富んだ秀れた文章がある。更に古くは、ヴェンデル・ジョンソンの「胸張って、ニッコリ笑い、堂々と吃ろう」という呼びかけがある。筆者ですら、6年前の千代田公会堂における〝言友会を斬る〟集会で、「もし変えることができないならば、受けいれる勇気をもて」と発言したことを記憶している。

 「吃音をもって生きる」のが、宣言の大命題であり、そうあることが「たくましい」のではない。後輩吃音者に迷いを与えることなく、目的的に生きる姿こそ、「たくましい」と先輩たちは、ハッキリ教えねばならない。

 アメリカの独立宣言を記し、水平社宣言のいわれを述べ、吃音者宣言の部分に対する批判を述べ、長々と書き綴ったのは、結局、次の結論を言うためであった。

 吃音者が、「吃音者宣言」の下に、一致団結し、意志統一を果し、文字通り、「たくましく」生きるためになすべきことは、三点のいずれかにしぼられると思う。

(1)障害問題と同じく、差別問題として吃音問題を把え、他のグループと協力して、社会運動の一活動体たること。吃あるゆえに、個人的人権が侵害されることなき社会作りに、体験を生かして生きること。自己一身の身体とか持物への偏愛を超え、ハンディキャップをもつ全ての人への対象愛を育てる活動。

(2)吃障害ゆえに、賭けるべき人生目的を発見し得ぬ人に、適切なガイダンスなり、社会適応可能な心理状態に至らしめる臨床的事業、それを果しうるための各位の熱烈な学習会。

(3)(1)(2)を果し得ぬ人々は、直ちに言友会を退会し、それぞれの生業に立ち戻ること。或いは、サロン的会合である単位、言友会は直ちに解散し、文字通り、吃音者が独立すること。

吃音者ならではの発言を期待する

誰でも乗れる地下鉄をつくる会世話人 牧口一二

 今、私の机上には『吃音者宣言』と『われら何を掴むか』が置いてあります。1976年5月、言友会十周年全国大会で「吃音者宣言」が採択されたということですが、時を同じくして私は「障害のプラス面」を一冊の本にまとめ『われら何を掴むか』と、思いをこめた表題をつけて自費出版しました。

 一口に言って、この2冊の本は、幼い頃から障害をもって歩んできた者が「障害はマイナス」という社会通念の中に、自らも陥り、悶々とする日々を重ね、ともすれば逃げの人生に引きずられながら、辛うじて持ち続けた“生きる意味”を発火点として、自分の“わだかまり”に訣別を企み、自己の確立に向って新たな出発をしようとする共通点をもっていると思います。そして共通点は期せずして「自己の障害を肯定し、障害を個性として発揮する」ということです。

 この自己主張は、同時に現実の社会に巣喰う差別観や誤まった価値観(特に障害=マイナスとする社会通念)への挑戦でもあると、私は自覚しています。

 とは言うものの、私の編んだ『われら何を掴むか』の場合、社会の価値観への挑戦を意識した私は、ダイナミックで力強い。障害のプラス面を満載した本、五体満足な人が驚嘆して障害者に思わず嫉妬を覚えるような本を創ろうと意気込んでいました。私の胸中には「障害のプラス面」がいっぱい詰まっていて、〈俺は前向きに生きている。明るく生きている。よりよく生きようとしている〉と思っていましたから…。

 ところが、いざ原稿用紙に思いの限りを叩きつけようと試みた時、これらの思いが、いかに観念的でもろいものであったかを思い知らされたのでした。考えてみれば、私は幼い頃から今日まで、二本の松葉杖で歩いてきた道程で、それはもう、多くの人々と出会い、多くの人々から「お前は明るい、強い」と言われて育ってきました。その評価が、障害をともなった上でのものであることに自己の踏み込みが足らなかったことが、自己をあいまいにしていたのだと思います。

 結局、編集半ばにして、当初の“野望”がついえた私は、七転八倒したあげく、自分自身の30余年をふりかえる作業にたどたどしく辿りつき、迷いのままの自己をさらすことで一冊の本をとにかく完成させようとしました。その結果が『われら何を掴むか』です。

 このような苦い思いが覚めない今の私は、『吃音者宣言』を一読して、まず、まぶしい思いがいたしました。それは、言友会運動十年の歩みが重味として私に伝わり、加えて「どもりは努力すれば治るもの、治すべきもの」として考えられてきた具体的な誤りに挑戦している力強さが、この本にはあるということです。それだけ『われら何を掴むか』より抵抗も大であると感じますし、それだけ意味も大であるにちがいありません。事実、迷ったままの結果に終わった『われら何を掴むか』は、批評も手かげんされてしまいました。

 ただ、初めて本作りの体験をもち、社会通念に抗し切れなかった私は、その模索から抜け切れていない今、『吃音者宣言』の根幹である「吃音者宣言」そのものに、どうしてもひっかかってしまうのです。単に言葉の持つニュアンスを云々するのは、理屈っぽくなり本意ではありませんが、感じたままを読後感として書きます。

 「吃音者宣言」には、『私たちは知っている。どもりを治すことに執着するあまり悩みを深めている吃音者がいることを、その一方、どもりながら明るく前向きに生きている吃音者も多くいる事実を』(傍点筆者)とあります。

 この箇所が代表しているように思うのですが、私たち障害者が、現実の社会から疎外され、差別されている存在という認識に立つなら、吃音者としての立場を明確にする社会観が表明されなければならないのではないでしょうか。この引用部分に対比されている二者は、前者が好ましくない人間像、後者が好ましい人間像として私は受け取ってしまうのですが、これこそ社会通念ではないでしょうか。私は、「吃音者宣言」が生まれた背景には、どもりを治すことに執着し、悩みを深めていった生きざまがあったればこそと、解釈しています。また、明るく前向きに生きること、そのものは決して悪いことだとは思わないのですが、明るく前向きに生きられない現実があることをどうとらえていくかは、吃音者のみならず、障害者が共通して担うことではないでしょうか。別に必要以上に悲壮になることではなく、現実をありのままに直視することが大切だと思います。こんな事を考えると、傍点の部分は、もっと別の表現がしてほしかったと思うのです。

 肢体障害者の、例えば松葉杖の私には現状の階段の多い都市構造が、私をますます疎外していくように感じられてなりません。五体満足な人にとっても階段の多さは限界にきたようで、エスカレーターがあちこちで設置されてきました。けれども松葉杖はエスカレーターに適していません。私が自分の立場を離れて、人間全体で物を見たとしたら、エスカレーターは便利な物であり、エスカレーターによって五体満足な人が多い階段による疲労を少しでも和らげることができれば結構なことです。けれども現実は、松葉杖の私が階段を昇り、足の丈夫な人がエスカレーターを利用しているという奇妙な現象を生み出しています。私はとっくに多い階段を昇降する限度を超えたところにいます。この位置から社会を直視しなければ、やがて街に出られなくなるでしょう。このように私には具体的な社会の矛盾が示されています。これはありがたいことだと思っています。私が自分の位置を基盤として社会の矛盾が見えた時、それに向かって自己主張を行うことで、やがては人間全体を束縛している物との対決ができるのではないかと考えています。

 「吃音者宣言」の読後感になり得ない、私ごとの多いものになりました。今、私は地下鉄にエレベーターを設置する運動をしています。言友会のみなさんご支援をお願いします。

舌のもつれた日本の兄弟たちへ

アメリカからのメッセージ

 「吃音者宣言」が海外でどのように受け取られるかは、大変興味をそそられる問題でした。そこで、「吃音者宣言」と『ことばのりずむ』8号掲載の「治す努力の否定」を英訳し、『人間とコミュニケーション』に登場したアメリカの言語病理学者10名に送付し、意見を求めたところ、4名の方々から回答をいただきました。「舌のもつれた日本の兄弟たちへ」と、そのうちの一人ヴァン・ライパー氏が私たちに呼びかけています。

ウェスタンミシガン大学教授(言語病理学)チャールズ・ヴァン・ライパー

 「吃音者宣言」と「治す努力の否定」の問題提起をされたあなた方の手紙を実に楽しく読ませていただきました。その考えに賛成するかという質問に対して、私は、はっきりと「イエス」とお答えします。成人になってもひどく吃っている吃音者は、世界中のどんな方法を使ってもほとんど治ることがないと私は確信しています。遠い昔からある、このどもりの問題を、私は、長年研究してきました。自分のどもりはもちろんのこと、何千人もの吃音者を診てきました。報道機関を通してさまざまなどもりの治療方法が公表されるたびに、そのうちのひとつくらいは本物があるだろうと期待して、その検討もしてきました。しかし、それらはいつも子どもだましであったり、フォローアップでのチェックが不正確であったりしたのです。このような情勢の中から、私たち吃音者は、おそらく一生吃ってすごさなくてはならないだろうという事実を認める必要が生じてきました。ぜんそくや心臓病をわずらっている人が、その治療が難しいという事実を受け入れているのと同様に、私たちもその事実を恥ずかしがらずに受け入れようではありませんか。そして、私たちがその事実を受け入れると同時に、どもりを忌むべき不幸なものとしてではなくひとつの考えねばならない問題として理解し受け入れてくれる人を増やすために、吃音者自身が社会啓蒙することが必要なのです。

 しかし、吃音者はいつの日かなめらかに話せるようになるという望みをすべて捨ててしまわなくてはならないと言っている訳ではありません。コミュニケーションに全く支障をおこさず、気楽にスムーズに吃ることができるのです。そのためにはまず今後も吃り続けるであろうという事実を受け入れることです。そして、不必要に力んだりせずに、うまく吃るにはどうしたらよいかを習得することです。おおっぴらに吃ってみる勇気があるならば、これは、どんな吃音者でもできることです。私たちが吃る時にしているもがきや吃ることへの恐怖は、本当は不必要なことです。私たちが吃る時に起こるもがきは、フラストレーションが原因です。恐怖は、現実でないもののように装おうとすること、つまり非吃音者を装おうとすることが原因です。子どもたちは、吃り始めても、おとなのように話すことを恐れたり、グロテスクに顔をゆがめたり、話の途中で長くつまったりしません。私たちおとなは、どうしてそんなことをするのでしょう。

 私がどうしてこのことに気づき、どのようにして30才の年で生まれ変わったかを、お話しましょう。私は、ことばを話し始めた頃から吃っていたようです。少年時代、青年時代は、みじめそのものでした。何とかして治そうと何度も試みたにもかかわらず、努力は報われませんでした。大学時代には、相変わらず並はずれて激しく吃り、成績はよかったにもかかわらず就職の際にはどこにも相手にされませんでした。やっとの思いで材木を切り出す人夫になりましたが、伝達がうまくできないという理由で首になり、将来を悲観した私は、3度も自殺しようとしました。しかし、どうしても死ねませんでした。やけっぱちになって、聾唖者を装い農場に就職しました。しかし、やはりそこでも、農場主と彼の家族たちにからかわれ、馬鹿にされ、家畜小屋で寝食しなければなりませんでした。たまりかねた私は農場をやめて、何のあてもなかったのですが、町へ出ようと思いたちました。町への長い道のりの途中、木の下でひと休みしました。そばでは農夫が畑仕事をしていました。そこへ車に乗った老人がやってきて、その農夫に話しかけ始めました。私はその老人が、とぎれとぎれで奇妙な話し方をすることに気づきましたが、それがどもりだとは思いませんでした。すると、その老人が近づいてきて、「町まで乗せてやろう。」と言いました。私は、便乗させてもらうことにしました。老人は、名前やら行き先やらを尋ねました。私は、いつものように顔をゆがめて、体をねじって、恐しく吃りながら答えました。すると、彼は、げらげらと笑い出したのです。私は、もう少しで老人をなぐってしまうところでした。ところが、私が怒っているのを見て、老人は言いました。「いやいや、君が吃ったから笑ったわけではないんだよ。実を言うと、私もどもりだからさ。君くらいの頃には、そこらじゅうをはねまわって、つばをとばして丁度君みたいに吃ったもんだ。でも今になっては、老いぼれすぎて、くたびれすぎて、そんなに一生懸命吃れなくなってしまったよ。君も、もっと気楽に吃ったらどうなんだい。」

 暗闇の中に一条の光を見たようでした。
 あの老人のように吃れるようになろう。
 老人よりももっと上手に吃れるようになろう。
 吃らずに話そうとするのはよそう。
 どもりの治った日を夢みるのはよそう。
 なめらかに吃れるようになろう。私は、そう決意しました。
 そして私は、それを成し遂げました!私は、もう老いぼれてしまいました。しかし、あの老人と会った以後は、素晴らしい人生を送ってきました。そして、他の人たちにも素晴らしい人生が送れるように、手助けをしてきました。私は、どもりであったことを、そして今なおどもりであることを、今になっては、喜んでいます。人は皆、その人自身が持つ悪魔と戦って生きていくものなのです。

アイオワ大学準教授(小児科)スペンサー・F・ブラウン

 「吃音者宣言」と「治す努力の否定」を送って下さり、コメントする機会を与えていただいたことに感謝します。

 「吃音者宣言」は、吃音者に生きる自信を植えつける上で大変意義があると思います。あなた方の言う通り、多くの吃音者が、どもりであることで悲嘆にくれ、吃ることへの恐怖に脅えながら暮らしていることは事実であり、そのことに対して大きな関心を寄せる必要があります。どもりを治そうとして、うまくいかなかったときには、意気消沈して、すてばちな気持ちになります。だからあなた方の活動のおかげで、吃音者たちが勇気をもち、吃音者が自分の自信を回復させることができるならば、あなた方は、非常に吃音者の役に立っていると言えましょう。

 「吃音者宣言」が、改善のための努力を全くすべきではないという意味ではないことを望みます。この努力は、なかなか成功しません。アメリカでは、エセ吃音治療師が、吃音者から多額のお金を受け取りながら全くその人のどもりを治すことができませんでした。しかし、幸運にもこのようなサギ師が横行することは今ではほとんどなくなり、過去の遺物になりました。インチキが通用しなくなったおかげで、適切な治療を受け、驚くほど改善された吃音者も中にはいます。改善のための正当な努力は、あきらめてはいけません。

ノースウェスタン大学教授(言語病理学)ヒューゴー・H・グレゴリー

 「吃音者宣言」と「治す努力の否定」について感想をお送りします。

 一般に、私たちの行動を主題として論じようとするときは、どんな場合でも私たちの置かれている現実を直視することがまず要求されます。

 もし、私たちがどもりの問題を抱えているなら、そのときも、どもりはたやすく解決できるものではなく、それは極めて困難であるという現実を認めなければいけません。そしてそのやっかいなどもりを治療し、改善しようとするなら、現在吃っている状態が少しでも改善でき、吃ることへの恐怖と不安が減り、もっとなめらかに自然に話せるようになるということを信じつつ、現実的な態度で臨まねばなりません。

 どもりの問題は改善しうるものと信じましょう。どんな行動であっても、それを変えられないものとして、受け入れるような生活態度は確立すべきではないのです。と同時に、吃音者自らが、改善につながると思われるにふさわしい行動を起こさなくては、急激な変化を性急に期待することはできません。

カルフォルニア大学教授(心理学)ジョセフ・G・シーアン

 私は、あなた方の「吃音者宣言」文と、「治す努力の否定」の考え方を同封した手紙を、たいへん興味深く、又うれしく拝見しました。

 あなた方が、吃音問題に関して、「吃音者宣言」にもりこまれているようなひとつの方向を打ち出されたこと、又そこに到達するまでに費されたあなた方の努力に、私は敬意を表したいと思います。

 興味深いお手紙をいただいたお礼の意味もこめて、私は1970年に出版された私の著書『Stuttering:Research and Therapy』を一冊あなた方に、別封でお送りしました。

 その本をお読みになって、又感想を聞かせていただけるとたいへんうれしいです。

 さて、どもりの問題をオペラント条件付けによって研究している人々や、又、どもりは簡単に治りますよと宣伝する人々を含め多くの臨床家に対してあなた方が抱いているのと同じ疑惑を私も感じています。

 しかし私は、どもりの問題について悲観的ではありません。確かにどもりは、治らないかもしれません。一生どもりのままで過ごさなければいけないかもしれません。しかしどもりであるが故に、自分を卑下して生きていかなければいけない必要はすこしもないのです。どもりが治らないからといって自分のすべてをあきらめることはないのです。楽などもり方で明るく生きる吃音者になることは、どの吃音者にもできることなのです。

 そのためには、お送りした著書の中でも述べているように、どもりを持っている自分をすなおに受け入れることが大切です。

 そして、話したい語から逃げないで話さなければいけない場面を避けないで生きていきましょう。吃音者が、自分の問題に正面から立ち向かい、どもりながらも話しつづけていくとき、どもりの問題解決に明るい展望が開けるのです。それはこれまでの私たちの研究が立派に証明してくれています。がんばりましょう。