第7回世界吃音者大会~シャピロ博士による基調講演~
2004年、オーストラリアのパースで開かれた第7回世界大会での、シャピロ博士の講演を紹介します。成人式の儀式でのできごと、大学での専攻科目のこと、息子の名前のこと、どれも、どもる人ならよく分かるエピソードばかりです。そんな彼はやがて、言語病理学を学び始めます。彼が大切にしていることが伝わってきます。
Beyond Speech Fluency:
Lessons Learned in Pursuit of Communication Freedom
David A.Shapiro,Ph.D.,CCC-SLP
ASHA Fellow,Professor
Western Carolina University
言葉の流暢さの向こうに
コミュニケーションの自由を求めて学んだこと
旅路
私の旅
人と人とのコミュニケーションの担い手である一人の人間としての私の旅を辿ってみると、ほぼ20年間はひどくどもり続けたものの、今では比較的流暢に吃音をコントロールしながら話せるようになったと実感します。しかし、今も私の旅は続いています。旅の途中に経験した様々な体験が蘇ってきます。そのうちのいくつかを紹介しましょう。
私はアメリカの北東部、ニューヨークで育ちました。重い吃音とそのために失望感を抱いていた私は、自分自身の吃音に取り組み、さらに他の吃音に悩む人の力となるために、言語病理学を勉強したいとずっと思っていました。ですから、ニューヨークの言語病理学科のある一流大学に合格したのは、私にとって大きな喜びでした。しかし一つ問題があることを知りました。言語病理学の専攻では、パブリック・スピーキングの授業が必修科目になっていました。弁論など、どもる私にはできません。やりたくないのではなく、実際問題としてできなかったのです。
私の周りのユダヤ人の男子はたいてい、13才の誕生日を迎えると、シナゴーグと呼ばれる礼拝所で成人式の儀式を行い、バル・ミツバーとなります。しかし私はバル・ミツバーの儀式を済ませることができませんでした。成人式では、成人になった証しとして出席者の前で話をしなければなりません。私にはとてもできないことでした。ところが、ラビ(ユダヤ教の会衆の指導者)が、私が人前で話をする代わりに、ソロでサキソフォンを演奏することを許してくれたので、なんとか成人式を済ませることができたのでした。
ラビは成人式の後で、今回は仕方がないにしても、今後はきちんと自分自身の言葉を見つけ、それを言える力を身につけてほしいと私に言いました。
私は吃音にとらわれていたのです。
大学時代
成人式の経験でもわかるように、人前で話をすることができなかった私にとっては、言語病理学ではなく心理学を専攻するのがベストではないかと思いました。心理学では、パブリック・スピーキングの授業が必修科目になかったからです。そういうわけで心理学専攻を決めたのですが、自分は本当にやりたい―言語病理学者になること―をやっていないという思いに私は苦しみ、さいなまれました。学期の終わり頃に私は指導教官のところへ行き、是が非でも言語病理学専攻に変わり、言語病理学を学びたいと話しました。
「いいことを教えてあげよう」と指導教官は、言語病理学専攻で、パブリック・スピーキングの授業がもう必修科目ではなくなったと教えてくれました。たしかにそれは少し前の私だったらいい知らせだったかもしれません。この授業から逃げるために、言語病理学専攻をあきらめたのですから。しかし、挑戦することを避けた私が、改めて覚悟の上で言語病理学専攻に変わりたいと考えたのですから、このままこの授業を避けては人生を先に進むことができません。そこで私がどうしたと思いますか?
その通りです。私は必須科目ではないにもかかわらず、パブリック・スピーキングの授業を受けることにしたのです。
私は私の強敵である吃音、ひいては自分自身に向き合わざるを得なくなり、前に向かって進み、カリブの民話に出てくるアナンセのような強さを手に入れなければなりませんでした。
その授業の最後となった3回目の私の発表は「発語ブロックの打開と、吃音のコントロール」でした。クラス全員が大きな拍手をしてくれました。私は必ずしも「A」をもらえるような優等生ではありませんでしたが、その授業は「A」でした。
吃音のとらわれから私は自由になりました。
息子の誕生
息子の誕生を心待ちにしながら、名前を決める時も、私は自分の吃音に直面しなければなりませんでした。妻のケイと私は、二人目は男の子だとわかっていたので、アロンという名前にしようと決めていました。アロンという名は、聖書、特に旧約聖書の出エジプト記に関わりのある名前で、私にとって特別な意味をもっものでした。アロンは、吃音者であったモーゼの弟で、モーゼはアロンを自分の代弁者としてあちこちに同行させた、と多くの聖書研究者は考えています。そんなわけで、吃音に悩んできた私にとって、息子の名前はアロン以外に考えられなかったのです。とはいえ、アロンの最初のアという母音は、私にとって言いにくい音であることは、自分でもわかっていました。息子が生まれる前から、言葉につまりながら息子を紹介している自分の姿が思い浮かびました。
「…アアアロン・ジョゼフ。息子の…アロンです」
ジョゼフは、私の祖父に対する敬意から息子のミドルネームにしようと考えていました。「ジョゼフ・アロンの方がいいかもしれないな」と私は密かに思いました。「ジョゼフ」は私にとって言いやすいのでその後に続ければアロンも言える。「アロン・ジョゼフ」と違って言いやすい。それとも、アロン以外の、最初に言いやすい子音がくる名前にすべきか。私がどのような経過で子どもの名前をつけたか、誰も気づきはしないでしょう。しかし、アロンとなるはずだった名前を、父親の勝手でケビンだのセスだのロバートなどにしたとしたら、私はどうやって息子を育てていけるだろうか。別の名前に決めたとしても、永遠に罰を与えられることはないにしろ、少なくとも私と息子にとっては究極の逃避となったでしょう。いろいろと思い悩んだ末に、結局息子の名前をアロンと名付けました。
私は吃音のとらわれから自由になりました。
専門家への道
これまでの道のりで、私にとって最も重要な岐路となったのは、人々の助けとなることを決心した時でしょう。それまでの人生で、私を励ましてくれた専門家も確かにいましたが、一方では、悪気はないにしろ行く手を阻む人も少なくはありませんでした。彼らは専門性を振りかざし、私ができることよりも、できないことを遠慮なく指摘しました。この経験から私は次のことを学びました。
―最高の贈り物とは我々が与えるものであり、専門家として、この地球に住む人間として、私たちが果たすべき役目は、夢を分かち合うプロセスに関わることであり、このプロセスにおいて、どもる人とその家族がこれまで想像もできなかったようなことを想像できるように、そして彼らの夢の実現のために援助することである―
他の人々を支援することで私自身も成長します。他の人々に教えることで私も学びます。自分の道を見出そうと思い、他者を助ける決心をした日のことを、私はよく覚えています。その日以来ずっと私は感謝の気持ちを忘れずにいます。
どもる人たちと関わるこの仕事は、私を元気にしてくれます。実際、どもる人やその家族の皆さんと一緒に仕事ができる特権をありがたく感じない日は、一日たりともありません。私は自分の仕事を心から楽しいものと感じると同時に、非常に大事な仕事だと思っています。
人生のある時期、私は、専門家である「自分の力」で吃音に悩む人の世界を変えることができればと思ったことがあります。当時より少しは分別のついた今は、吃音者とその家族自身が自分たちの世界を変えるのであり、私はそのためのちょっとした「手助け」をしているに過ぎないと気づいています。「自分の力」でできないことへの専門家としての挫折感ではなく、前向きな気持ちで、吃音に悩む人が自分を変えていく「手助け」ができていることを嬉しく思います。
結果的に私は、あらゆる限界を超えることのできる人間の力と、人と人とのつながりの力を感じています。今私がしていることや、それに関わる人々に対して満足しています。人と人とのコミュニケーションのプロセスこそが大事なことであり、そこから生まれるものが、とても重要であると考えているからです。(「スタタリング・ナウ」2004.9.18 NO.121 (つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/21