交流分析と吃音 3

 杉田峰康さんが、ご自分の専門分野の心身医学と吃音をからめて、お話いただいています。真摯に向き合っていただいたこと、感謝の気持ちでいっぱいです。杉田さんとの対談の紹介は、今日が最後です。杉田さんはじめ、本当にいろいろな方に吃音ショートコースに来ていただき、対談させてもらったなあと思います。幸せなことでした。

2001 吃音ショートコース 対談 3
            交流分析と吃音
                       杉田峰康・伊藤伸二

真理は汝を自由にする

伊藤:さきほどおっしゃった「真理は汝を自由にする」ですが、僕はそれに似たようなことで、「真実は人を傷つけない」と思ってるんです。どもりはぜったい治らないとは言わないけども、多くの人が治らなかったのは真実なんです。治らないと言うと、本人も、子ども、親も傷つくから言えないと言う。治ると言って実際に治らないことの方が人を傷つけると僕は思うんですけど、「傷つけたくない」が延々と続いている。

杉田:私どもは「あなたにとって、治るとはどういう意味ですか」と基本的な質問をするんです。完全な健康になりたいとの返事なら無理ですとはっきり言います。完全な健康なんか、歳とれば、みんな病気になるんだし、結局、自分の体の真実を知って、それとうまく付き合って、出来る限り、社会適応していく。薬を飲みながら、病院通いながら社会人としての責任を全うしていく。完全に健康を回復しなければ退院しないというのもおかしいですね。
 「真理は汝を自由にする」は、精神分析の考え方でもあるわけです。自分についての真実をはっきり知る。心が傷ついたトラウマは消えないわけですよね。心の外傷体験、例えば、性的ないたずらをされた人は、おそらく男性が恐いとか、男性を避けたいという気持ちはいつまでも残ると思います。しかし、治療グループに参加して同じような不幸な経験をした人がいるという真実を知ると、仲間がいるという支えが体験できそれも一つ真実ですね。私一人だけじゃなく同じように苦しんでる人がたくさんいる。苦しみの程度もあるでしょうが、この真実によって楽になり、自由になっていく。完全な人間はいないという真実。不完全な人間の方が多いという真実、人間は間違いをするものだという真実に気づけば、みんなで一緒に生きているという真実も受け入れられますね。

人生脚本

伊藤:人生脚本についてですが、どうして僕たちはどもりを治そうとここまで思いつめたか。それは言葉では言わないけども、母親なり父親なりの養育者が、どもってると、かわいそうだなという表情をしたり、言葉では決してかわいそうだとは言ってないんだけども、それを敏感に感じ取って、どもるとお母さんを悲しませるとか、そういう、非言語的なメッセージが強く働くと思うんです。

杉田:昨日の佐々木さんの例のように、口では言わないけども、目つきとか、雰囲気とか、態度そのものから困った心配だというメッセージを伝えてしまうことがありますね。それこそ、直すべきことなんでしょうね。そのために再決断療法などで、「ありのままのあなたでいいんですよ」というメッセージを、親が我が子に伝えるのは、葛藤を乗り越えるプロセスとして必要でしょうね。

伊藤:親子の関係と臨床家もそうですが、吃音はある程度、軽くなったりすることよりも、自分を大切に生きることが大事だと思うんです。そのために、どういうふうに臨床家が、親が関わっていけばいいのかというと、「どもってもいい」という〈許可証〉をあたえることだが、僕たちの主張なんです。吃音親子サマーキャンプは「どもってもいい」が大前提としてあります。そういう雰囲気でやっているキャンプをしていることを日本特殊教育学会という学会で発表しました。すると、二人の吃音研究者からそれは危険思想だ、「どもってもいい」なんて言われたら困ると強く反発されました。研究者、臨床家としては、「どもってもいい」ものをどうして研究しなければならないのか、臨床するのかということなのでしょうかね。

杉田:心身医学の草創期では、人間関係のふれ合いや人生観も病気に関係する、生きる意味が病気を左右するんじゃないかと言いますと、内科的な病気は生物学的な原因によるもので、薬物や検査を中心にするのが先決で、最初から人間関係を調べる必要などはないと相手にされなかったり、宗教じゃないかと批判されることもありました。しかし、東洋の思想の中には宇宙との一体感があれば、心の中も身体的にも統一されているという考えもあります。科学は再現可能で、数字で表したのが科学で、そうでなければおかしいとの主張があります。しかし、面接一つとっても、科学だったら、池見先生と同じ言葉を使って、同じやり方をすれば同じように治っていくはずです。ところが、面接療法のマニュアルは作れない。一人一人の面接療法の結果は違うわけです。科学的発想で、最終的に心理療法の教育はビデオを見せればいいという時代が来るかというと、来ないでしょう。外科の手術などは、先輩がしたとおりにすれば同じ結果がでる。ある先生が薬を処方して、若い先生も同じ処方すれば、同じ結果が出るはずですが、そうでないことがあるんです。臨床経験豊かな温かい人がらのお医者さんからいただく薬と、卒業したばかりの知識中心の医者が出した薬は全く同じでも効き方が違う。こういう実験の結果から、科学にも限界があることが分かります。人が治っていくとか成長していくのは、教育の場では再現不可能で、数字に表せない領域、ある意味では、芸術に近いような領域ですね。
 私どもを真に自由にする真実とは、人間的に心と心がふれ合うとか、何のために生きるとか、エゴイズムから解放されて、本当に意味のある人生を生きるとか、そういう体験の方が真実であると思います。言葉を自由にしゃべれることは便利かもしれませんが、あんまりしゃべると言葉は人を傷つけることもありますね。むしろ、吃音の方々が、いい聞き手になって下さる方がいいと私は思いますね。

伊藤:本当にそうですね。僕らの仲間でも、どもってた時の方がすごくつきあいやすくて、いい人間だったのがいます。どもりが軽くなったりすると、しゃべりすぎ、人を傷つけることを平気で言うようになりました。かえって、嫌な人間になっていく場合があるんですね。

杉田:一つの言葉を一回言えばいいのに、何回も言うと、言葉は致死量になるわけですよ。睡眠薬は1錠のむとよく眠れますが、20錠のんだら明日の朝は目がさめません。言い過ぎの言葉で人は傷つくでしょう。私どもも、言葉の生活の中で、本当に自分が成長するような言葉をいただいたてきたかと思い起こすと、傷ついた言葉の方が多いんじゃないですか。おそらく、吃音の方がことばで他人を傷つけるというのはほとんどないじゃないですか。

伊藤:そうなんですよ。吃音を認めて、どもっても誠実に話す人なら、話すことで人を傷つけるようなことはないでしょうが、普通にベラベラしゃべることが価値があると思い込んで、普通に近づかなければならないと思う人だったら、しゃべる相手が練習台になってしまいます。そこでは人を傷つけることが起こる可能性はありますね。(「スタタリング・ナウ」 2004.7.24 NO.119)

対談はこの後、ますます佳境に入っていきます。この続きは、2001年の年報に掲載されているのですが、残念ながら、この年報も在庫がありません。日本吃音臨床研究会のホームページで紹介したいと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/15

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