放任主義

 これまで何度か、敬愛するどもる先輩のひとりとして、羽仁進さんを紹介してきました。軽くどもりながらしゃべることを楽しんでいるかのようにさえ見えます。
 「スタタリング・ナウ」2003.7.21 NO.107 では、羽仁進さんのご著書「放任主義」から、吃音に関しての記述を一部紹介しています。この文章の中に出てくる父親は、著名な歴史学者である羽仁五郎さん。そして母親の羽仁説子さんも著名な教育評論家です。日本子どもを守る会の発足に参加、女性運動、児童福祉、性教育などの活動で知られていました。

  放任主義
                            羽仁進(映像作家)

どもりの子は、「どもり」と呼べ
 ぼくは、どもりである。子どものころは、かなりひどいどもりであった。そのころは、子どもたちのあいだに、どもりが伝染するという説があった。そのころ、ぼくは野球で二塁手や遊撃手をやっていたが、盗塁するのをいやがる仲間がいた。セカンド・ベースにいるあいだに、近くのぼくからどもりがうつっては困る、というわけだ。事実、ぼくと仲のよかった男の子が、軽いどもりになりかかったことがある。人間には、本能的に模倣欲がある。他人の口真似をしてみたい欲求があるのだ。いまなら、CMの口真似でもするところだが、不幸にもその子は、いくらか珍妙なぼくのしゃべり方を真似してしまった。たしかに、どもりには伝染の危険があるらしい。ますます悪評が高まり、ぼくは学校でよくからかわれるようになった。
 からかわれた記憶が多いわりに、それによって心がひどく傷つけられたことがないのは、理由がある。ぼくは、家でどもりであることを、つねに意識させられてきたからだ。小学校にあがるずっとまえから家族の者から、「どもり」と呼ばれたことが何度もあった。
 ぼくは、けっして気の強い子どもではなかったから、「どもり」と呼ばれて、なんとも感じないわけではない。それどころか口惜しさで、顔を真っ赤にしている幼い自分の姿が、いまでも心の底には古びた写真のように焼きついている。はたして、父がどれほどぼくの幸福のためを思ってわざと「どもり」と呼んだのかは疑問である。父は、相手を見て手加減しない男だから、子どもといってとくに手心を加えることはしなかったのかもしれない。しかし、子どもにやさしい母までが、自分ではそんなことは言わなかったにしろ、父や妹の「どもり」呼ばわりを止めさせた記憶がぼくにはないのをみると、母には何かの配慮があったに違いない。
 たしかに、その母の配慮の効果はあった。自分にとってもっとも身近な父や妹によって、自分の肉体的欠陥をいつも指摘されていた体験は、いわばぼくの心にとって、予防注射のような作用を果たしたのだ。ぼくは幼稚園にかよった体験はないので、小学一年生が家族以外の他人とつきあうスタートであり、そのときには相当に胸をおどらせていた。そのときはじめて他人に手ひどくからかわれていたら、へんな心の歪みが生まれたかもしれないのだ。
 妹たちにまで、「アニキのどもり」と呼ばれるのは、たしかに腹立たしかった。しかし、これはぼくに、どもりについての別の視点をあたえてくれたのだ。たしかに、どもるのは事実である。いくら自分より年下で、よちよちしている妹から言われても、事実は否定すべきではないのだ。これも教訓のひとつ。だが、それだけではない。いくらどもりとからかわれても、だからといって、ぼくが妹よりだめな奴になったわけではない。どもりというひとつの欠点は、ただちに他の性質に影響を及ぼさないし、いわんや、ぼくという人間のすべてを否定してしまう力はぜったいにないのだ。
 このような教訓を得たのは、はじめての嘲りとの遭遇が、家庭という場で、しかも一抹のユーモアをたたえておこなわれたからであろう。もし、もっと酷薄なかたちでおこなわれたとしたら、ぼくはもっとひねくれたり、復讐心によって心の自由を失ってしまったかもしれない。つまり、どもりという単一の欠点が、別の欠点を作り出し、ついに人格の核心にまで影響をおよぼしたかもしれないのだ。
 ぼくの場合は「どもり」であったが、ほかにも、「でぶ」「びっこ」、「めっかち」と子どもがひけ目を感じる要素はある。こんなとき親は、こまってしまうこともあろう。だが、愛情が素直な表現になることの効果も、忘れないでほしいと思う。
 数年間を、屈辱の中で過ごしたのちでも、ぼくには、自分のどもりと自力で取り組む余裕が残されていた。ぼくは自分のどもりを直視することにより、本を朗読するときは、どもらないことも可能なのを発見した。ほかのことを考えないために、どもらないらしいのだ。それを手がかりにして、いっぽうで、少しずつどもりを直した。今日では、どうやらこうやら用をたせる程度には、しゃべれると思っている。
 また、このどもりを直す努力を、自分ひとりでやった体験は、自分というものを客観視するというひとつの能力を、ぼくに授けてくれた。なぜどもるのか、それが自分の心の動き方と関係のあるのを発見したことが、ぼくという存在のもっている性格、「恥ずかしさ」を、ひそかに自分の心でみつめ直す力を、ぼくにあたえてくれたのだ。
 人間は、欠点を隠したがるものである。欠点を隠したり、欠点を直したりしようとする努力は、しばしば人間の能力を高める。しかし、それはあくまで本人の問題だ。親しい他人が、欠点に目をつぶるふりをするのは、親切のようで、本人への侮辱になる。欠点によっては、他人の助けがどうしても必要になる。必要な助けをあたえるのと、欠点をごまかしてしまうのとは、あくまで別なことだ。
 外国を旅していてよく見かけるのだが、日本の青年で、いまは前途をあきらめて、どうでもよいような暮らしをしているものが多い。出発のときの盛大な見送りを思うと、日本にだけは帰りたくないという芸術志望者である。彼らの先輩や親しい者が、欠点を指摘してやらないというその場かぎりの配慮、よけいなお世話に、だめになってしまった原因のあることが少なくないのを、ぼくは見た。
 愛情のある者ほど、その人間にとって嘘のない鏡になってやるべきだ。どもりの子は、「どもり」と呼ぶ。よけいな小細工は、鏡にはないほうがよい。

苦手の課目は、苦手の理由を考えさせよ
 有名な画家で、子どものころ、いちばん嫌いだったのは、図画の時間だったという人がいる。すぐれた科学者で、算数が苦手だったという人もいる。小説家で、国語の点がひどく悪かったという人もいる。
 しかし、学校の授業が苦手だからというだけで、その能力がないということにはならない。むしろ、反対の場合だってあるのだ。
 荒垣秀雄さんといえば、有名なジャーナリストであり、テレビの座談会などでもよく知られている。この荒垣さんが、学生時代どもりであったという話を、直接聞いたことがある。図書館で本を借りようとしても、どもって言えない。ついに、一度も図書館から本を借りたことがないという。「駒込」と言って切符が買えない。「カキクケコ」が、とくに言いにくい。苦しんだあげく、「本郷三丁目のさきの駒込」と、やっと枕言葉をつけてなんとか言えたという。荒垣さんは新聞記者だったが、新聞記者といえば、人に会って話を聞くのが重要な仕事だ。どもりのインタビューなんて、奇怪な話だ。探偵小説に『どもりの僧正』というのがある。しゃべるのが仕事の牧師さんが、どもるのはおかしい、と謎解きがはじまる。ところが、荒垣さんは、どもりのインタビュアーとしてスタートし、「週刊朝日」の「時の素顔」という対談で、毎週話の聞き手として有名であった。
 荒垣さんは新聞記者になっても、はじめのうちは、けっして口がうまく動いたわけではない。イギリス国王の戴冠式に特派され、いまのエリザベス女王の父にあたるジョージ六世が、国王になる宣誓を「アイ・アイ・アイ・アイ・ウィル」とどもるのが、ウェストミンスター寺院の大伽藍に反響するのを聞いて、ほっとしたというのだから、まだそのころは、人に口をきくのがおっくうだったのにちがいない。どもりにとって、とくに初対面の人に会うのは、ぼく自身の経験からいっても、いちばんつらい。
 しかし、新聞記者というのは、毎日毎日、初対面の人に会わなければ、仕事にならない。荒垣さんは、そのあいだにどもりを直していった。それだけではない。氏独特のインタビュー術が生まれてきたのだ。インタビューの聞き役が、あまりべらべらとしゃべっては、かえって相手は話しにくくなる。ゆっくりゆっくり、言葉を選びながら慎重に聞く荒垣さんのインタビューは、いつのまにか、相手の心を暖かく開いてしまう。苦手だという意識がかえって、「話す」という単純なことに、荒垣さんの目を集中的に向けさせた。その結果、自分なりの「話し方」を作り上げたのである。
 はじめからすいすいと話せた人間には、こうはいかなかったろう。どもりは、自分の言葉を二度聞く。一度めは、じっさいにしゃべるまえに、この言葉はどもらずに言えるかどうか、心の中で発音してみる。二度めに、ほんものの発声を不安とともに聞くのだ。どもりの言語学者がいたら、きっとユニークな業績をあげるだろう、とぼくは思うのだ。
 これとはまったく逆なかたちで、苦手が生まれる場合もある。才能がありすぎて、学校の授業の成績が悪いといった場合だ。学校の授業というのは、平均的であり、常識的だ。とくにすぐれた感覚や才能をもっている課目で不成績というのは、十分ありうることだ。教科書に書かれている問題は、標準を決めて作られている。とうの昔に、そんなことを考えついてしまった子どもなら、そんな問題に興味をもてない。もったとしても、問題を、まるで別のやり方で考えてしまう。ときには、先生が予想した答えとは、全然ちがう答えを導き出す。いつのまにか、授業と本人のあいだに、ずれができる。そして、苦手だと本人も思い、周りも決めてしまうのだ。こんなことは、平均的な教科書で平均的な才能しかない教師が教えているときには、十分起こりうる。
 芥川龍之介と三島由紀夫が、期せずして同じようなことを言っている。それは、つぎのようなことだ。学校で国語が得意だったから小説家になりたい、などとはとんでもない。学校の国語の授業など、文学としては問題にならない。そんなものには、興味がないほうがいいのだ。それより、数学や体育の成績が抜群というほうが、まだいい。締切りに追われても微塵も平気な体力、合理的な思考力のほうが、まだしも役に立つというのだ。いかにも才人ぶりを誇る、二人らしい言葉だ。きざな言い方だが、けっして誇張はしていない。たしかに、そんなものだと思う。
 野球で解説者が、得意なところと苦手なところは、紙一重だという。バッターにとって、ここへくればホームランでもたやすく打てるというコースがある。ところがそのごく近くに、ボールのコースがある。そこに球がくると、つい手を出して凡打してしまう。これは逆に言えば、苦手なところの近くを捜せば、得意なところが見つかることになる。野球はとにかくとして、人生では、たしかにそういうところがあるのではなかろうか。
 親は、子どもに何か苦手なことがあると、それが気になるものだ。そして、なぜ苦手なのか理由を考えるよりさきに、がんばれ、がんばれと尻をたたきたくなる。しかし、子どものほうでも、ただがんばっただけでは、解決のつかないことも多いのだ。人並み以上に苦手だというのには、何か個人的な理由がある。その理由のみつけ方しだいでは、苦手を生かす道もあるのだ。苦手を得意に逆転させることだって不可能ではないこともある。そんな可能性は、苦手克服と尻をたたくだけでは殺されてしまう。子どもは、ますます劣等感を持っだろう。
 先生は、反対に苦手な生徒をあきらめやすい。どうせこの子は、この課目はだめだろうと、お客様扱いにしてしまいがちだ。けっきょく頼れるのは、本人自身である。自分で、なぜ苦手なのか、それを突きつめるのだ。そこからしか、何ものも生まれてこないのではなかろうか。
                      『放任主義』光文社 1972年
                  2000年度年報に、羽仁進の吃音論として掲載

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/01

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