精神医学や発達心理学は、思春期を、社会的・心理的な発達の過程の中で、「疾風怒濤」の時代だとし、最も大きな関心が寄せられてきた。

 12歳の少年が幼児を誘拐し、死に至らせるというできごとや、神戸の14歳の殺人事件は多くの人に衝撃を与えたが、事件を起こした子どもが、非行歴もないごく普通の子どもだと知って周りの人たちは驚く。

 これらの子どもに共通するものがあると私は思う。吃音に悩んで生きた自分自身の思春期を振り返って考えると、それは、「自分が嫌いだ」と自分に肯定感がもてないこと、安心して自分が自分でいられる「居場所」がないことの二つだ。

 学童期、どもるのが恥ずかしく、できるだけ話さず、友だちもほとんどいなかったが、何とか小学校の学校生活は送れていた。それが、思春期に悩みは深まり、生活も乱れたものになった。

 中学校になると学級担任だけでなく、教科担任があり、クラブ活動がある。対人関係をつくるのが苦手だった私は、小学校の時代よりはるかに強いストレスを、吃音を通して感じていた。どもる自分が認められず、どもりが治る事ばかり夢見ていた。「どもる自分が大嫌い」だった。そして、「居場所のなさ」が更に悩みを深めた。

 中学1年生の夏。『吃音は必ず治る』という本を手に入れて、一所懸命発声練習をしていた時、「朝っぱらからうるさいわね。そんなことをしてもどもりが治るわけないでしょ」という信じられない母親の罵声に、これまでの母親への思いはいっぺんに凍りついた。その一瞬から学校だけでなく、家庭にも私の居場所がなくなった。

 苦悩の思春期は、自分の居揚所を求めてさまよっていたといっていい。映画館だけが居場所となり、何度も補導され警察のお世話になったが、映画館に入り浸ることはやめられなかった。今のように暴走族や、覚醒剤があればそれらのグループが居場所になったかもしれない。

 ことばの教室に通級している子どもが小学校を卒業すると、継続して指導したい揚合であっても、自動的にことばの教室を終了していく。学童期から思春期に向かう子どもに、ことばの教室の担当者として何ができ、何をしておかなくてはならないか。親として何ができるかを一緒に考えておく必要がある。

 アドラー心理学では、10歳前後に、自分はどう生きるかというライフスタイルをつくるという。それは小学校の中学年にあたる。子どもは、何らかのテーマをもって生きているが、そのテーマと照らし合わせて、ことばの教室で、学童期にしておくべきことはあるだろう。

 自己肯定は、今現在の自分がそのままに受け入れられ認められていることなしには生まれない。親や教師の期待通りに成長していなくても、そのままで大切な存在なのだ。吃音であれば吃音について話し合わなければならない。

 他者信頼は、世間は敵ではなく、仲間なのだという実感である。どもる人間にとって、無理解な聞き手ばかりだと思うと、話せなくなってしまう。嫌な人間もいるけれど、基本的には周りの人は信頼ができるという実感は、まず親や教師のことを子どもが信頼できるということから生まれる。

 他者貢献は、自分が家族や学校や学級の中で無くてはならない存在であるという実感である。学級や家庭で自分の役割を実感できる体験が必要になる。自己肯定、他者信頼、他者肯定の3つの実感がそろって初めて、子どもは自分の居揚所を見つけることができ、学童期から思春期へと旅立っていける。

★豊かな心とことばを育てる京都与謝地方親の会★

【ことばと教育 第107号  2003.12.17】 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二