老舗鰻屋のタレ

 先週6月28日の大阪吃音教室の講座は、「幸せについて考える」でした。吃音を言語障害の問題ととらえ、「治す・改善する」というアプローチからは到底考えられない講座名です。「吃音はどう治すかではなく、どう生きるかだ」を大切な基本としている大阪吃音教室ならではの講座でした。
 朝から警報級の雨が降っていましたが、開始の午後6時45分ころには小雨になり、その日、しばらく顔を見せなかった人が2人、久しぶりに参加しました。2人とも、初めて吃音教室に参加したときの顔とは全然違います。一人は、結婚して子どもができて、吃音がこわくて避けてきた電話などにも挑戦して、助手的な仕事ではなく、自分ひとりで仕事を担当するようになったと話していました。もう一人は、就職し、積極的に人と関わろうとして、いくつかグループに参加するようになったと言っていました。表情も明るく、どもり方もつらくなさそうです。
 大阪吃音教室での出会いが、彼らを変えたとのことでした。そんな話を聞きながら、僕たちは、人が変わっていく場に立ち会える喜びを感じていました。その日、長く大阪吃音教室に参加している人たちもその場にいましたが、2人の変化を我が事のようにうれしく思っているようでした。新しい人も、古い人も、お互いに、幸せな時間を過ごしました。
 吃音を認め、受け止め、どもりながらも、しなければならないこと、したいことを誠実にしていくことで、吃音に左右されない幸せな人生を歩くことができると、実感させられました。 この日の講座は映像として記録されており、ユーチューブで公開の予定です。

 つい先日、そんなことがあったのですが、今日、紹介する「スタタリング・ナウ」2006.1.21 NO.137の巻頭言に、僕は同じようなことを書いていました。紹介します。

老舗鰻屋のタレ
                     日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二

 どもる人のセルフヘルプグループ、大阪スタタリングプロジェクトは、名称の変更はあったが、創立して40年になる。ミーティングである大阪吃音教室は、週1回のペースでずっと続いてきた。「吃音を治す、軽くする」路線から、「吃音と向き合い、吃音とともに生きる」路線へ、新たな視点での活動に切り換えてからも30年以上がたつ。
 毎週毎週40年も飽きませんかと尋ねられることがある。どもる状態に焦点を当てた取り組みを続けていたら、おそらく飽きたことだろうが、吃音と向き合い、「どう生きるか」を学び、話し合うことに飽きることはない。常に新鮮なのだ。大阪吃音教室の話し合いが、奥深く、かつ新鮮なことを、私は「老舗鰻屋のタレ」によくたとえる。
 創業100年の老舗鰻屋のタレは、創業時のものに、毎日新しいタレを継ぎ足し継ぎ足し、年を重ね、熟成されてきているという。100年前のものがごく微量でも残っていると思うと楽しい。
 大阪吃音教室も、40年、30年と通い続ける人からまだ半年や1ヶ月の人、今日初めて参加する人など様々だ。その人たちの人生が混じり合い、熟成されていくのがいい。新しいだけでも、古くからいる人だけでもダメで、違った年月を経た、さまざまな人がいることで、ミーティングの場は、ほどよいバランスとなり、独特の味わいを醸し出している。
 同じようなことが、滋賀県で、毎年夏に開き、16年になる吃音親子サマーキャンプの親の話し合い、子どもの話し合いにもみられる。初めて参加する人も少なくないため、最初の時間はその人たちのために使うことが多いが、だんだんと、複数回参加している人も話し合いに加わってくる。その体験に基づく話を聞きながら、新しく参加した人は、今まで気がつかなかった視点やものの見方・考え方に気づいていく。また、複数回の人は初心に返ることができる。これが、初めて参加の人、2度目の人、3度目の人と、いろんな経験をしてきた人が混在していることの素晴らしさだと言えよう。16年間続けてきた老舗の味わいだ。
 昨年5月に開かれた第7回島根スタタリングフォーラムの親の話し合いで、このグループも老舗の味わいが出てきたと思えた。第1回は、私の一方的な講演だった。その後、話し合いや学習会的な要素が加わり、回を重ねてきた。
 当初は、親のこれまでの不安や悩みに耳を傾けることにほとんどの時間が使われ、親の表現を借りれば、「涙、涙の話し合い」だった。
 どもるのは母親のせいだと、児童相談所などで言われた人がいた。どもる子どもを持ち悩んでいること、将来に不安をもっていることを初めて話すことができた親もいた。子どものどもっている姿を「かわいそう」で見ていられないというひとりの親の発言から、参加者全員が「そうだそうだ、かわいそうに思う」と反応したときもあった。「かわいそう」と思われる子どもの方が「かわいそう」ではないかと、時間をかけて話し合った。「どもりは一生治らない!!」と早朝登山で叫んだ小学1年生のことばにショックを受け、「連れてくるんじゃなかった」と私に訴えてきた親がいた。そのことを取り上げて話し合ったこともあった。
 誰にも話すことがなかった思いを存分に出し、お互いに聞く中で、共通の土壌が耕されていく。
 親の話し合いは、3時間の枠が2回あり、合計6時間。7年分をトータルすると42時間。じっくりと吃音と向き合ったことになる。参加回数の違う人たちがおりなす人生が響き合う、吃音についての話し合いは、吃音をテーマに親たちと人生談義をする趣だった。吃音をひとつの切り口にして親も自分の人生を語る時間だったように思う。
 吃音について不安を出し合い、吃音についての知識を得る段階から、自分自身の人生をみつめながら、子どもについて語り合う、しっとりとした深まりのあるものへ。老舗の味わいはこれからも熟成し、まろやかなものとなっていくだろう。
 親の人生とは交わることのない、「吃音を治す、軽くする」路線からは、生まれない世界だ。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/07/01

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