事実と意味づけ 3

 昨日のつづきです。
我の世界と我々の世界、このことばは、以後、僕たちの大切なキーワードになりました。我の世界と我々の世界、この両方で生きていかないといけないのが人間だ、というお話は共感できます。折り合いをつけながら、楽しく機嫌良く生きていきたいものです。

第4回臨床家のための吃音講習会・島根  2004.8.7
  事実と意味づけ
               梶田叡一(現・兵庫教育大学学長)・特別記念講演

我々の世界と我の世界
 人間は、両生類です。かえるが水の中と空気の中で生きるのと同じように、人間は全く原理の違うふたつの世界を同時に生きていかなきゃいけない。ひとつは我々の世界、もうひとつは我の世界です。我々の世界は世の中です。我の世界は、独自固有の自分で、このふたつは全く違う世界なんです。
 人間のことを社会的動物だと言いますが、人間は、人と人とのネットワークの中でしか生きていけない。一食の食事でも、何百人もの人がかかわって、私たちの口の中に入ってくる。お互いが相通じ、ひとりひとりが自分でできるささやかなひとつの役割を果たし、他の役割の人がやってくれたものを全部活用させてもらって生きている。そういう、我々の世界でつまはじきにされたらだめです。たとえば、あいさつがきちんとできないとだめです。私は自分のかかわっている機関では、まずあいさつをやります。私の大学では1年生にあいさつをしようといろんな機会に言います。すると、「私は高校を出て大学に入ったつもりだったのに、小学校に来たような感じ。うるさいことばっかり言われて」と言う。私は、「よかったじゃないの。どこの大学に入ってもそこまで指導してもらえない。同じ授業料で得したね」と言う。あいさつの他には、授業中私語や飲み食いをしない、携帯を使わない、などです。服装についても言うが、これはなかなかです。そういう指導をなぜするか。大学を出て、世の中に出てあいさつひとつできなかったらだめだし、この場ではこの服装は許されるけど、この場ではだめだと分かってないといけない。就職活動のときに付け刃でしてもだめなんです。我々の世界に生きることは、なかなか大変です。自分の役割、ある資格をとらなくてはいけないし、服装や物の言い方も覚えなきゃいけない。そういう中で、私は他の人と一緒にやっていくと意識する社会性、集団性を身につけなきゃいけない。私はこれをやりたいからと言ってやったのでは、どうにもなりません。自己中心性を乗り越えないといけない。これが我々の世界に生きるということです。そういう力をつけなきゃいけない。
 世の中は我々の世界ですから、「やあ、結構。いいお話で」と言わなきゃいけない。何かの交渉のときもそうです。役所との交渉なんかも、こちらの方が筋が通っていると思っても議論してはいけない。何を言われても、「ご指導、ありがとうございます」と言った方がいい。結局はスムースに認めてもらったら勝ちで、議論に勝ってもどうにもならない。特に若い人は、それをよっぽど言っておかないと、「どこがおかしいんですか」と議論をしてしまう。それを言っちゃおしまいですよ。我々の世界で生きるための知恵なんです。泣く子と地頭には勝てない。勝とうと思ったら、別の形で勝てばいい。これが我々の世界に生きることです。自分の気が済むことをしてはいけない。これが自己中心性です。これを子どもたちに分からせないといけない。あるいは、障害のある子の場合は、より一層このことを言わなきゃいけない。

我々の世界で生きていくということ
 うちの大学で難聴の学生がノートをとる人を大学の費用でつけてくれといっている。なんとかならないかと相談にこられたら応じますが、最初から権利だなんて思われたら困ります。難聴の子が入ってくるのはいいことですが、基本的な自分の面倒は自分で見るという決意でいてくれないと困ります。お互い人と人との手のつなぎあい、ネットワークの中で生きていくのが、我々の世界です。障害があれば確かに生きていく上でやりにくいところがあるからいろんな形で手をさしのべればいいし、公的にもそういう仕組みがあっていい。けれども、私は障害があるから、人に面倒を見てもらって当然だ、あるいはほかの人よりも私の事情が優先するんだ、となったら間違いです。我々の世界の原理です。私にも生きる権利があると言います。確かに誰だって生きる権利があるから、みんなで私のこと、お世話して下さいと、権利として当人が思い込むと、我々の世界のルールが崩れていくと思うんです。特に障害のある子には、どこかで分からせないといけないと思います。権利として主張していく部分はあるけれど、それを越えて、なんでもかんでも私の事情を最優先させて下さいとなると、私は困るなあと思います。
 今日の参加者は、障害のある子にかかわる教員の方が多いので強調します。障害のある子にはむしろ普通の子よりも厳しく、自分で自分のことをきちっとする、人を頼るな、人をあてにするな、ということを言わないといかんと思います。障害はハンディですが、一番のハンディは事実としてのハンディじゃなく、「私は障害があるから、みんなが面倒を見てくれて当たり前だ」という意味づけです。誰でもいつでも笑顔で面倒を見てくれるわけがない。みんなひとりひとりが自分勝手な存在です。障害のない人はみんな聖人か、というとそうはいきません。人間は、みんな自己中心的な存在です。自分の事情を最優先したいと思っています。満員電車で席が空いたら私が座りたいと思うのが普通の人です。そういう中で、私は最優先させてもらって当たり前、みんなが自分の面倒を見てくれて当たり前という思いを持っていたら、結局は阻害されるでしょ。みんなその子の周りに近づかないです。世の中は、シビアなもんです。
 障害があってもなくても、誰でもどの子も、自制自戒して、自分をうまくコントロールして、世の中に合わせていくことが分かっていないとだめです。自分の事情を最優先していてはだめだということが分かっていないとダメです。
 子どもに障害があっても、自己中心的でないようにしないといけない。私は特別だ、私はみんなから面倒を見てもらって当たり前だという思いを持たせてはいけない。これが我々の世界で生きるということです。みんなお互いがお互いにとってじゃまにならないように、自分でやるべきことは自分でやって、そして自分の役割、自分が与えられた立場や役割は、精一杯果たして、そういう中で、お互いがお互いのネットワークを上手に組んでいくということです。なんで「おはよう」と言わないといけないか分からないがやはりとりあえず「おはよう」です。これが、我々の世界に生きるということです。

かけがえのない自分の命を生きる
 これは、とっても大事ですが、実は、それだけになったら、空虚な人生になる。いろんな役割や立場をきちっとしていくとしても、それをしていくひとりひとりの人間は、かけがえのない自分だけの命を生きていくわけです。ここにいる10人の先生が立場としては同じですが、教師としての個人は全く違う。教師の役割としては取り替えがきくから人事異動がある。でも、ひとりひとりは取り替えがききません。
 みんな、たったひとりで生まれて、ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。縁があって、親子という縁を結んでも短い間です。夫婦が手をとりあって生きていくと思っています。世の中の約束事でやってるだけで、結局は、ひとりひとりが自分に与えられた自分だけの命を自分だけで生きてるんです。私が、今日は暑いと思って、「今日は暑いですね」と言って、みんなは「そうだ、今日は暑い」と、うなずき、通じたような気がするが、暑さの中味はひとりひとり違っていて、全然通じていない。冷たい温かいは、自分で知る、自分で感じるしかない。他人の感じている冷たさを私が代わって感じるわけにはいかない。沖縄の人と北海道の人がここで会って、「島根県も暑いですね」と、島根県の人も交えて三人で盛り上がったとしても、その感じる暑さは、沖縄の人と北海道の人では全然違うんです。普段の当たり前が違うからね。ましてや、悲しい、苦しいなどは、みんな違うんですよ。
 基本的には、我の世界は、私にしか見えてない、感じてない世界が土台にある。土台を前提にして、ことばでおおまかなところを通じ合わせて、破綻のないように手を結んでいる。失恋した人に、「あんたの気持ち、よう分かる」と言っても分かった気になるだけです。自分の個人の事情は、自分にしか分からない。ただ、分かると言ってもらった方がうれしいから、支えになるから、それにすがりつくところはあるけれど、でも、ほんとはそれじゃいけない。私は私がもらった命を引き受けて、その命を私なりに完全燃焼してやっていかなきゃいけないのです。
 ひとりひとりが自分の独自固有の世界を持っていて、結局はその世界の中で生き、死ぬ。自分が見えてるものと、隣の人が見えているものとは違う。今日、梶田が言っていることは、一応みんなの鼓膜まではいっているが、ひとりひとり、どう受け止めるかはまた全然違う。どう意味づけるか、どの部分が記憶に残るかも全部違います。そうやって、毎日毎日を過ごしているわけです。
 客観的ということばを、少なくとも哲学や社会学や心理学では使いません。客観的というのは、みんなが共通にこれはこうだと認めなきゃいけない世界があることです。物理学でも、今、客観性ということが変わりました。どこから観測するか、どう観測するかで、物理的な世界の見え方が違うからです。
 心理学や社会学では客観的と言わないで、間主観性という言い方をよく使います。ひとりひとりの世界しかないけれど、その間にことばによって橋をかけて、お互いが土台として認めてもいいものを、ことばや概念の上で確認する。これが従来、客観的と言われるものです。あるいは自然科学的な方法によると、追試可能性です。こうやったらこうなると、みんなこれを認めないといけないですよね。ことばの上で一致すればいいというだけでなくて、論理や論拠が、みんな、なるほどなというふうになることが、追試可能性です。それだって、結局は主観の中での確認にしか過ぎない。
 みんなが、ということはなく、ひとりひとり、しかない。ひとりひとりが個別に生きて、見ているもの、聞いているもの、持っているもの、ひとりひとり全く違う。ただ、お互い、ことばで伝える技術を人間は編み出したので、それによって、社会的なネットワークが組める。ことばの上で一致したとしても、それの受け止め方やどう具体的な行動に表すかは、みんな違うということです。イメージが違うんです。この、我々の世界と我の世界、両方で生きていかなきゃいけないのが、人間なんです。上手に両方を生きていくようにするのが、教育ということになります。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/09

Follow me!