私は書き続ける

 今日は、「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127 の巻頭言を紹介します。
 この号の2面からは、ことば文学賞の受賞作品を紹介しています。今も続けていることば文学賞は、体験の宝庫です。

  私は書き続ける
                   日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

毎日毎日、私はなにがしかの文を書いている。文章とはかぎらず、ふと頭に浮かんだことをメモとして残すものも含めれば、おそらく書かない日はほとんどないだろう。
 散歩をしているとき、これまで考えていたことだが、ひとつの固まりとして表せなかったことが、文章としてふと思い浮かぶことがある。忘れないようにと、何度もそのことを心の中で繰り返しながら急いで帰るが、家に着いたときには、肝心の部分が抜け落ちてしまっている。これではいけないと、ボイスレコーダーを買い、さあ、いつ、いい考えが浮かんでも大丈夫だ、と散歩にでかけるが、そんなどきには、あまり浮かんでこない。それがたびかさなると、つい持ち歩かなくなる。そんなときにかぎって、また、ふと思い浮かんでくる。これは、私には書きたいことや書かなくてはならないことがいっぱいあるからだ。しかし、それらが文章として形をなして、他者に読んでいただけるものになるのは、ごくごく一部にすぎない。私のからだは、それを早く表へ出してくれと、ときどき、せかせるのだが。
 日々、いろいろな人と出会い、いろいろな出来事と出会う。その時感じたことや考えたことを文章として残していけたら、どんなにいいだろうと思う。それらが、私が本当に書きたいこと、書かなくてはならないことに結びつくのだと考えた。だから、平井雷太さんの主宰する考現学に入れていただいて、毎日書くことを自らに課した。追い込んだのだ。なまけものの私には、環境を整え、条件を作って追い込んでも、毎日ひとつの作品らしきものとして、他者に読んでいただくものとして、書くことはできなかった。毎日何かは書いているにもかかわらず、である。
 書くことはつくづく不思議なものだと思う。仕事として原稿執筆依頼をうけて書くこともある。自分の身に余るテーマだと思っても、断ることはない。つい何でも引き受けてしまう態度が身についてしまっているからだ。引き受けたからには、まっとうしなければならない。締め切り間際にあわててとりかかることも少なくない。断り切れずに何でも引き受けてしまう自分が嫌いではない。のっぴきならない場に自分を置くと、動かざるを得ない。大きなテーマだとかなりの本を読んで考えを確認し、深めなければならない。これは、狭くなっていく自分を広げていくまたとない機会となる。新しい本との出会いもある。
 こうして、書かなければならない仕事としての書くことが入ると、当然自分の書きたいことがおろそかになって、これはどんどんと引き延ばされていく。このようにして、私のからだは、常に書きたいこと、書かなくてはならないことであふれてしまうのだ。しかし、作家のように書いてばかりの生活をしているわけにはいかない。大学や専門学校での講義はあるし、電話による相談も多い。思いはあっても、それが文章として姿を変えるのは、それほど容易な作業ではない。
 書きたいことがあるのは、つくづく幸せなことだと思う。これは吃音が私に与えてくれた最大の贈り物ではないかとも思う。吃音にあれほど深く悩むことがなかったら、ここまで書きたいという思いが募ることはなかっただろう。また、ひとつの主張をもつこともなかっただろう。
 「どもっていても大丈夫、吃音もいいもんだよ」
 私の書きたいこと、本当に書かなくてはならないのはただ一つ、このことだ。この『スタタリング・ナウ』の巻頭言も127号。以前のニュースレターを含めれば、200号以上になるだろう。
私はこのことだけを書きたくて、書き続けてきたことになる。まだ続いて書くことがあるのかと思うこともある。しかし、吃音は書けども書けども枯れることはないようだ。吃音にはそれほど奥の深い、とてつもなく広い世界があるのだと思う。
 ことば文学賞も今年で7回。書くことの喜び、書くことの意義を知る人々がどんどん広がっていくことはとてもうれしい。
 私は今日も書いている。書き続けている。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/18

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