私の聞き手の研究 3

 水町俊郎さんのお話のつづきです。
 どもる症状ではなく、どもる人やどもる子どもに焦点を当てた研究です。日本吃音臨床研究会や大阪吃音教室、日本放送出版協会発行の『人間とコミュニケーション』や第1回吃音問題研究国際大会など、僕たちの取り組みを紹介してくださっています。

  私の聞き手の研究 3
                        水町俊郎(愛媛大学教授)

私の聞き手の研究

 それでは聞き手の研究の概要について話します。
 私は心理学的な観点からの研究をしていましたので、吃音者のパーソナリティについて関心がありました。吃音者のパーソナリティに関する今までの研究を、自分なりにずっと過去にさかのぼって文献を調べました。調べるとたくさんの研究がありました。吃音者に対していろんなパーソナリティテストや観察をした結果、吃音者に非吃音者とは違った独特なパーソナリティがあるという事実はないというのが結論なんです。
 吃音のパーソナリティに関する研究で、どもる人とどもらない人に差はないが、違った観点からの研究、つまり、周囲の人は一体どもる人をどういう人間だととらえているかという周囲の人のイメージの研究に関しては、おもしろい結果が出ました。吃音者は、周囲の人によっては違ったとらえ方をされていることが多かったんです。どもらない人より暗いとか、社会性に乏しいとか、神経過敏であると見られているとか、私はそれに非常に関心を持ちました。
 吃音者に直接調査したりテストしたりすると、非吃音者とは変わらない結果が出ているのにも関わらず、周囲の人は吃音者をなんか独特な存在として見ている側面がある。私はそれに非常に興味を持ち、日本でもやってみようと思ったんです。アメリカを中心にした、聞き手に関する研究は、シルバーマンという人が作成したと思うんですが、25項目の質問だけなんです。それぞれに関して、例えば、劣等感のある、真面目か、などを5段階にわけて、どもる人はどのあたりか、と聞いていく。私は聞き手の態度を調べるには、そんな少ない項目では、把握できるはずがないと思いました。それで事前調査もして、質問項目を80項目に作り直しました。項目を増やすと、今までにはとらえることができなかった聞き手の吃音者に対する態度が把握できるかもしれないと考えたのです。
 その結果、どもる子どもはどもらない子どもに比べて、「緊張しやすい」、「おどおどしている」、「消極的である」、「自信がない」など、ネガティブな特性を持っているようにみられている面は確かにあるけれども、それだけではありませんでした。もう一方に、「責任感がある」、「根気強い」、「礼儀正しい」、「誠実である」、「親切である」など、ポジティブに評価されている面も、少なからず、あることが明らかになりました。アメリカの研究では、マイナスの側面からしか周囲は見ていないという結果だったのに、私がやり直してみると、そういう面もないことはないが、逆にどもる子どもたちの方が、高く評価され、好ましいものを持っていると見られているという側面もあるという事実が明らかになったのです。
 今度は、どもる人に対する周囲の今までもっているイメージ、見方が、吃音者がどもっているところを実際見たり聞いたりすることによって、変化するのかしないのかを調べました。
 まず吃音に対してどういうイメージを持っているかを調査をします。そして、次にビデオで小学校5年の男の子が、非常にどもりながら文章を3分15秒かかって読んでいる場面をずっと見せます。どもっている場面を、映像で見せたり、聞かせたりして、今度は、その直後にまた、先程の調査をして、ビデオを見る前と見る後で、変わったのか、変わらないのか、変わっているとしたら、どういうふうに何が変わっているか、どの項目が変わっていたのか、それからどういう方向へ変わったのかを調べました。
 そうすると、ビデオを見て、視覚・聴覚的な情報が入ってきたときの方が変化がたくさん出ました。変容の方向については、どもる子どもに対する見方が、物事へのとりかかりが遅いというように、ネガティブな方向へと変化していく項目もありましたが、実はそういうネガティブな方向へよりも、ポジティブな方向に変わった項目が多かったのです。例えば、「最後まであきらめない」、「情緒が安定している」という方向に評価が移っていきました。引っ込み思案ではないというように、ポジティブの方向へ変化した項目の方が多かったのです。
 私の、聞き手の態度に関する研究では、アメリカあたりの研究とは基本的に違って、ネガティブだけに見られてるんじゃなくて、ポジティブの面から見られてるものもある。実験条件を入れて、どもってる場面を見ることで、むしろ理解が深まるという方向へと変わることもある。これらの事実を明らかにしたということになると思います。
 このように、吃音は周囲からもちろん笑われたり、馬鹿にされたりこともある。しかし、人さまざまだから、いろんな人がいる。いろんなことを言ったりしたりする人がいる。どもっている時に、確かに目をそらしたり、何か変な態度をとる人もいる。それらは全てどもった自分に対するネガティブな反応に違いないと、どもる人の多くは思うかもしれない。けれども、実は聞き手の側に立つと、目をそらす態度も人によって違う。たとえば、相手がどもっているとき、どういう態度をしたら、あの人を傷つけないで済むだろうかなどと、気をもんで下を向いたり、目をそらしたりすることもあるし、相手に対する誠意や配慮であったりすることもある訳です。それをすべて、聞き手の反応を自分がどもりであるということに対するネガティブな反応だととってしまう。吃音者自身が、そういう色メガネで周囲をみるということもあるんじゃないかという指摘は、実は、吃音者自身の中からもちゃんと洞察して出てるんです。
 1975年の出版の本で、伊藤伸二さんが、内須川洸先生、大橋佳子さんと出された『人間とコミュニケーション』(NHK放送出版協会)があります。その中に、自ら吃音者であったマーガレット・レイニーという女性のスピーチセラピストのことが書いてあります。彼女が吃音の講演をし終わって資料を片付けていたら、一人の青年がこつこつとやって来て、「先生、ちょっと」と何かいろいろ質問をし始めた。自分の周囲は自分が吃音であるということで馬鹿にしている。さげすまれてることばっかりだということを切々と言う。その時のことをレイニーは、次のように書いています。
 「彼にとって肝心なことは、自分が自分自身を、吃音者である自分自身をどう思っているか、と自問自答することでしょう。それをしないで、相手がどう思うだろうかと考えるのは、まさに馬の前の荷車です。馬に荷車をつけて動かそうとしても馬が動かない。よく見ると、馬の前に荷車をつけていたから、馬は先に行かないんだ。自分がそれをしているのに、気づいていない、つまり肝心なことを見落としていることに気づかずあせっているのでしょう。恐らく、自分自身に最もひどい批評を下しているのは、彼自身だったのでしょう。長い間、他人から受ける批評より、もっと厳しく自分を批評してきたのです」
 それから当時のノースウェスタン大学の教授であった、ヒューゴー・グレゴリーさん。京都で開かれた第1回吃音問題研究国際大会に参加され、基調講演をされた白髪の方ですが、あの人も自分の吃音経験からほぼ同じようなことを言っておられるんです。それをちょっと読んでみます。
 「私はこれまでの人生で吃音による影響をあまりにも意識しすぎてきたのではないか、あるいは他人が私の吃音をどう見ているかということを意識しすぎてきたのではないかと考えるようになりました。他人は自分が考えているほどには、私がどもっていることも気にしていないこともわかってきました」
 先程も、ウェンデル・ジョンソンが、大人になると周囲の理解を求めるだけじゃなくて、自分が、周囲のあり方をどうとらえるかという自分自身のとらえ方も、自分で追及していかなければいけませんよということを言ってるといいましたけれども、そのことと絡み合わせてみると、非常に理解しやすいんじゃないかと思います。
 そのことと関連して、大阪スタタリングプロジェクトの西田逸夫さんが、川柳でそのことを非常に見事に表現しているんです。『どもること 聞き手 大して気にもせず』。これは非常に名句です。周囲に理解をしてほしい、そのための努力は一方でずっと継続してやらなければいけないことは事実ですが、いろんな人がいるということ考えると、自分自身のとらえ方そのものを追求していくことも欠かせません。これはウェンデル・ジョンソンが言ってることでもあり、日本吃音臨床研究会が論理療法を取り上げているのも、そういう意味合いがあるんだと思います。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/30

Follow me!