我の世界

 2004年の第4回臨床家のための吃音講習会での梶田叡一さんの話を紹介してきました。話の流れを優先させたので、「スタタリング・ナウ」2005.9.18 NO.133 の巻頭言の紹介がまだでした。
 吃音に悩んでいるとき、吃音が占める割合が大きくなり、「どもる私」が全面に出てしまいます。もっといろんな私がいるはずなのに、どもっている私だけが大きくクローズアップされるようです。映画監督の羽仁進さんは、「どもる人の奥にある世界を豊かにしよう」とメッセージをくださいました。梶田叡一さんも、内面の自分としっかりと向き合い、それを豊かにすることを提案してくださいました。
 僕も、まだまだ我の世界を磨くことはできそうです。

  我の世界
                 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 吃音は他者との関係の中ではじめて問題となる。どもることで息が苦しくなったり、からだが緊張することはあっても、どもること自体で苦しむことはない。どもった私を他者がどう見ているか、感じているかという他者の視点、評価が気になって悩むのである。
 私たちはどもることを他者から指摘されたり、笑われたりすることで、否応なしに、他人の目を意識せざるを得なかった。社会と向き合う私の前面には常に吃音が立ちはだかった。吃音を通して他者や社会をみつめていたことになる。子どもの頃から、社会に適応するために、我々の世界に生きるために、どもらずに話せるようになりたいと願ってきた。
 社会に適応する力は必要だが、そればかりにからめとられると、肝心の我の世界がおろそかになる。社会と向き合うときのどもる私は、私のごく一部にすぎないのに、吃音に深く悩んでいたときは、その吃音が私の全てを代表しているかのように思っていた。どもる・どもらないとは無関係の自分の豊かな我の世界があるはずだ。話さなくても我の世界を楽しむことはできる。楽器やスポーツやダンス、何かを育てたり作り出す、絵を描く、好きな音楽を聴く、本を読む、映画を観るなどたくさんのことができる。
 学童期、劣等感にからめとられていた私は、エリクソンの言う勤勉性が全くなかった。勉強もせず、友達と楽しく遊ぶこともなく、学校やクラスの役割も引き受けなかった。当時の通信簿には、そうじ当番をよくさぼると記されている。本読みや発表ができなくても、話さなくてもいいクラスの役割はあったはずなのに、私はしなければならないこと、したいことをせず何事に対しても無気力になっていた。
 思春期の私は社会に適応したいと願いながらできなかった。ゆえに私は孤独であった。このことが後になってみると、ある面では私に幸いしたらしい。本当はしたくないのに友達に合わせて時間を浪費することはなかった。周りに合わせようとしていたら、多くの無駄なエネルギーを費やしていたことだろう。
 私は、仲間を必要とせず、社会にも合わせようとせず、ひとりの世界に入っていった。孤独の辛さを紛らわせるために、私は映画と読書にのめり込んだ。中学生から映画館に入り浸った私は、1950年代の洋画全盛時代のほとんどの洋画を観ている。ジェームス・ディーンの「エデンの東」に何度あふれる涙を流したことだろう。世界・日本文学全集と言われる多くを読んで、自分では経験できない世界を味わった。我々の世界に入れず、不本意ながら我の世界の中に入り込んでいったものが、今私が生きる大きな力になっている。
 人間関係をつくりたくて、夜のコンビニエンスストアを俳徊し、たむろして時間をつぶす若い人たちを見て、私は吃音に悩むことによって内的な世界に入ることができた幸せを思う。
 私のように不本意ながらではなく、我々の世界に適応することはしばらくの間は諦めて、奥にある内面の自分としっかりと向き合い、それを豊かにすることだけを考える時期が必要なのではないかと最近考えるようになった。自分の喜びや楽しみのために、能動的に時間を使うのだ。私の場合、我々の世界に未練を残しながらの中途半端なものだった。それであったとしても私にとってよかったと思えるのだから、我々の世界に合わせることをとりあえず一時期断念し、自分に向き合い、自分を豊かに育てるのだ。
 楽しみを豊かに持つことは、自分自身の根っこの中の自信となっていく。その自信があってこそ、どもっていても大丈夫、「私は私だ」と、奥にある豊かな世界を意識しつつ生きることができるのだろう。
 子どもの頃から否応なしに我々の世界を意識せざるを得ないからこそむしろ早く、我々の世界に適応することはとりあえず置いておいて、我の世界を豊かにする。それは、我々の世界に生きるには周りからはマイナスのものと思われているものを持っている人々の特権ではないだろうか。
 国際吃音連盟ではどもる著名人をリストアップして、ホームページに掲載しようとしている。どもるからその人たちは一芸に秀でたり、成功したりしたのではない。どもる、どもらないにかかわらず、自分の奥にある内的な我の世界を大切に生きたからこそ、様々な分野で活動ができたのだ。このリストアップの動きが、「どもってもいい。我の世界を大切に生きよう」という声に結びついていけばいいのだが。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/19

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