響き合うことば 2

 昨日のつづきです。
 僕は、ヘレン・ケラーとサリバンの話をしています。「奇跡の人」は、これまで、映画でも舞台でも、幾度も上映、上演されています。有名な「ウォーター」の場面の解釈、「奇跡」といわれることのとらえ方にはいろいろあるようですが、竹内敏晴さんから教えてもらった、ここで紹介する話が一番ぴったりときます。
 どもっていたがゆえに悩み、苦しくつらい思いをしてきた僕にとって、「ことば」は特別なものでした。なめらかに流れることばさえあれば…と思っていましたが、ことば以前にお互いを思い合う、響き合う関係性があるのだと思います。

2003年2月15日 石川県教育センター
 《講演録》 響きあうことば
                伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長

ヘレン・ケラーとサリバン
 〈変わる〉ことについて、エリクソンの基本的信頼感、自律性、自発性、勤勉性と関連させて、子どもの発達に関係する一つの事例として、ヘレン・ケラーの話をしようと思います。
 この4月、大阪の近鉄劇場に、大竹しのぶ主演で『奇跡の人』という芝居がきます。早速申し込んで、久しぶりに芝居を観に行くのです。
 『奇跡の人』は、アン・サリバンとヘレン・ケラーの話ですけれど、ヘレン・ケラーの話をどこかで聞いたことのある人、ちょっと手を挙げていただけますか。(たくさんの手が挙がる)
 ありがとうございます。大分多いので、話し易いですが、当時、芝居よりも映画でした。アーバンクラフトがサリバンで、パティー・デュークという名子役がヘレン・ケラーでした。
 この芝居がまだ日本で紹介されない前に、先程話しました竹内敏晴さんが、演出しないかと言われたときに、竹内さんがシナリオを読んで疑問をもったそうです。『奇跡の人』の有名なシーンは、食事中に暴れ回り、水差しから水をこぼしたヘレンとサリバンが格闘をして、ポンプから水を入れさせている時に、ヘレンの手に水があたって、「ウォーター」と言う。そこで奇跡が起こったとして、『奇跡の人』というタイトルがっいたのでしょうけれども。竹内さんは、「そんな馬鹿げたことがあるか。殴り合って格闘して、ワーッとなっているときに、ポンプの水でウォーターなんて、そんなことが起こるはずがない」と思って、その芝居の演出をしなかったという話をしてくれたことがあります。
 私は、竹内さんの話に興味をもって、ヘレン・ケラーの自伝と、『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(明治図書)の2冊の本を読みました。サリバンが、ホプキンスという親友に、ヘレン・ケラーとのかかわりについて、手紙を出していて、手記のようなものを丁寧に読んでいくと、竹内さんがおっしゃるとおり、全然違うことが分かりました。大竹しのぶさんの芝居が、「ウォーター」のシーンをどう演じるか、とても楽しみにしているのです。

まず、からだごとの触れあい
 ヘレン・ケラーは、目が見えない、耳も聞こえない、ことばのない少女ですが、7歳のときに、家庭教師として雇われたサリバンとヘレン・ケラーの関係が始まります。ことばを獲得して、話せるようになって、日本でも講演している人です。
 『奇跡の人』という『奇跡』は何を指すのでしょうか。「ウォーター」と、ことばを発見したことが奇跡だとして、芝居では『奇跡の人』とタイトルをつけているのでしょうが、サリバン自身が、自分の手紙に「奇跡が起こりました」と書いているのは、この場面ではありません。
 サリバンが出会ったときのヘレン・ケラーは、全くしつけられていなくて、食事の作法についてサリバンはこう表現しています。
 「ヘレンの食事の作法はすさまじいものです。他人の皿に手を突っ込み、勝手に取って食べ、料理の皿がまわってくると、手でわしづかみで何でも欲しいものをとります。今朝は、私の皿には絶対手を入れさせませんでした。彼女もあとに引かず、こうして意地の張り合いが続きました」
 サリバンは、このヘレン・ケラーと向き合った後、こう言っています。
 「私はまず、ゆっくりやり始めて、彼女の愛情を勝ち取ろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです」
 これはサリバンの覚悟なのでしょう。一筋縄ではいかない。からだごとぶつかって、自分も一緒に生きるところで彼女と向き合わなければ、彼女のことは理解できないし、彼女が変わらない。基本的信頼感がお互いになければ、家庭教師として、教えることはとてもできないということです。
 それを確立するために、2週間という期限を区切って、小屋に二人で住まわせてほしいと申し出ます。一つの小屋で、食事から何から完全に二人きりの生活です。これまでは自由奔放に勝手気ままに生きてきたヘレンにとって、この閉ざされた空間で、サリバンと二人だけの生活は、非常に厳しいのですが、濃密です。これは、乳児期・幼児期の母と子の関係に近い関係です。サリバンに従わないと、食事すらできない。信頼はともかく、柔順に従わざるを得ない状況です。
 初日の食事のときの格闘の後は、サリバンの雰囲気を感じると逃げていたヘレンが、二人きりの生活の中で変わっていくのです。6日から7日目のことですが、サリバンは、こういうふうに親友に手紙を書いています。
 「今朝、私の心はうれしさで高鳴っています。奇跡が起こったのです。知性の光が私の小さな生徒の心を照らしました。見てください。全てが変わりました。2週間前の小さな野生動物は、優しい子どもに変わりました。今では、彼女は、私にキスもさせます。そして、ことのほか優しい気分のときには、私のひざの上に1,2分は乗ったりもします。しかし、まだキスのお返しはしてくれませんが」
 家庭教師と生徒の関係を越えて、人間と人間の生身のぶつかり合いの濃密な生活の中で、この基本的信頼に近い感覚が芽生え始めたのでしょう。この関係ができたことを、サリバンは、「奇跡が起こった」といっているのです。ここまでの取り組みがいかに大きなことかは、サリバンの「奇跡」ということばで分かります。随分とおとなしくなったヘレンを見て家族はとても喜んで、2週間という約束だから、また家に戻してくれという。サリバンは、まだまだそんな状態ではないからもう少しこのままの状態を続けたいと強く訴えるのですが、約束だからと家の人がつっぱねる。そして、2週間後に家に戻ったのですが、最初の夕食がすごい勝負なのですね。

自律から自発へ
 そのあたりは芝居でどうなるか興味深々なのです。誰も助けてくれない、閉ざされた小さな小屋では、彼女はナプキンをつけて食べるようになった。自分の父や母のいる安全な場面に来たときにもそれができるか、です。勝負だったのですね。これが人間ではなくて犬の調教だったら、調教したことは、場所が変わってもできる。でも、ヘレンは人間ですから、そうはいかない。そこで、最初の晩餐のときに、ナプキンをおこうとすると、彼女はダーッとナプキンを放り投げて、またわしづかみで食べ始める。要するに、最初に出会ったときと同じ状態に戻るのですね。ヘレン・ケラーとサリバンの勝負です。
 教えた食事の作法でやらせようと思っても、バーっと振り払って絶対させてくれない。芝居や映画では、この格闘でこぼした水差しに水を入れさせるために、食堂から引きずり出す。そして、ポンプのとこで「ウォーター」と感動的な場面になるのですが。サリバンの手紙によるとそうじゃない。その晩は仕方ないから、そのままにしておいて、次の朝、何とも言えない気持ちを抱きながらも、サリバンが食堂へ行ったときに、ヘレンが先に席についていて、ナプキンをしている。サリバンが教えた方法ではなくて、自分のやり方でナプキンをしていた。それは、竹内敏晴さんから言うと「それはサインだ。つまり、サリバン、あなたが教えようとしたことは要するにこういうことなのでしょ。要するに、形は違うけれども、こういうものをつけて食事をしろということを教えたかった。それを私流にすると、こうなんですよ。それをあなたは受け入れるか。私の自律性を認めるか。私を尊重するのですか」という問いかけだった。それに対してサリバンが、「それじゃだめでしょ。私があれだけ教えた方法でやりなさい」と無理強いしたら、その後のヘレンとサリバンの関係はなかったでしょう。すごい勝負どころだったと、竹内さんは言います。
 サリバンは、やり直しをさせなかったということで、「OKだ。あなたはあなたのままでいい。そのあなたのやり方でいいんだよ。そういうふうにして食事をしてくれればいいのだ」と、無言のOKを出すのです。
 ヘレン・ケラーの自伝と、サリバンの手紙を読み比べると、随分面白い。ヘレンは、自分自身のことだから、手づかみで食べたことなど書いてないし、かんしゃくの発作という表現はあっても、サリバンと凄い格闘があったことなど、まったく書いていません。しかし、サリバンは明確に書いています。
 二人きりの生活の中で基本的信頼が芽生え、この場面で自律性が尊重されたことによってさらに信頼感は確実なものになっていきます。
 基本的信頼の階段をのぼり、自律性、自発性、勤勉性の階段をのぼり、どんどん学び、言語を獲得していくのです。サリバンとヘレンが一緒に階段をのぼっていったのだと思います。
 母と子の関係や、教師と生徒、カウンセラーとクライエントとの関係にしても、どちらかが一方的に相手を信頼するから基本的信頼感が育つのではありません。母親から子どもへの一方通行ではなくて、母親自身が子どもを信頼するという関係は重要です。いろいろ大変な事があっても、私はこの子どもを育てることができる、大丈夫なんだという自信。その信頼が、子どもに伝わり子どもは母親を信頼する。サリバンはヘレンに対しで「この子は力がある。きっと変わる」という、人間として成長していくという大きな信頼があったのだろうと思います。
 その信頼に対して「本当にあなたは私のことを信頼してくれているのか」という、すごい強烈な問いかけを、サリバンから教えられたのとは違うナプキンのかけ方で、無言で試したのだと言えます。それに対してサリバンは「あなたはあなたのままでいいのだよ。それでいいのだ」と言う。このメッセージを受けて、食事が終わってから、ヘレンがサリバンのところへきて手をつなぐのです。OKを言ってもらってありがとうなのか、私を認めてくれてうれしかったのか、手をつなぐのです。そこから本当の意味での相互の基本的信頼が深まったのでしょう。

深いやすらぎと、集中の中で
 それからは、二人でいつも手をつないで、山道を歩き回り、ものに触り、いろんな事を一緒にする。お互いにゆったりとした、安心できる人間関係の中で、リラックスした中で、その「ウォーター」が起こるわけですね。ヘレンは自伝でこう書いています。
 「私たちは、スイカズラの香に誘われて、それに覆われた井戸の小屋に歩いて行きました。誰かが水を汲んでいて、先生は私の手を井戸の口に持っていきました。冷たい水の流れが手にかかると、先生はもう一方の手に、初めはゆっくり、次にははやく、『水』という字を書かれました。私は、じっと立ったまま先生の指の動きに全神経を集中しました。すると突然私は、何か忘れていたことをぼんやり意識したような、思考が戻って来たような、戦標を感じました。言語の神秘が啓示されたのです。そのとき、『W-A-T-E-R』というのは、私の手に流れてくる冷たい、すばらしい冷たい何かであることを知ったのです。その生きたことばが魂を目覚めさせ、光とのぞみと喜びを与え、自由にしてくれました」
 この場面をサリバンはこう書いています。
 「井戸小屋に行って、私が水を汲み上げている間、ヘレンには水の出口の下にコップを持たせておきました。冷たい水がほとばしって、湯飲みを満たした時、ヘレンの自由な手の方に『ウォーター』と綴りました。その単語が、たまたま彼女の手に勢いよくかかる冷たい水の感覚にとてもぴったりしたことが、彼女をびっくりさせたようでした。彼女はコップを落とし、くぎづけされた人のように立ちすくみました。そして、「ある新しい明るい表情が浮かびました。彼女は何度も何度も、『ウォーター』と綴りました」
 芝居や映画では、格闘し、つかみ合いながらのあの感動的な『ウォーター』が実際にはなかったことがはっきりと、ヘレンの自伝からも、サリバンの手紙からでも分かるのです。
 私は人間と人間を結びつけるのは、ことばだと思っていました。そして、どもるためにことばがうまく話せない私は、人間と人間との関係が作れない、保てないと思っていました。ところが、ヘレンとサリバンの初めのころの関係の中では、全くことばがなかったわけです。人と人とが向き合う関係の中で、教える、教わるという役割を越えた関係の中で、響き合ったのではないかと思うのです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/06/04

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