『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)をめぐって《感想》

 『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版)を読んだ人の感想を紹介します。少し長くなりますが、感想を「スタタリング・ナウ」で紹介した全員の分を紹介します。大阪吃音教室の仲間がどのように自分の吃音と向き合ってきたのか、吃音をどう捉えて受け止めてきたのかがよく分かります。

 「治したくない」と「治りたくない」は違う
                         掛田力哉(養護学校教諭)

 大阪吃音教室に通い始めて1年半になります。
 まだまだ短い期間ではありますが、その短期間の間にも私が見聞きした覚えのあるエピソードや教室での議論の様子が、本書には沢山紹介されています。教室には色々な思いをもって参加している人がいます。正に「例会」の名の通り、週に一度の吃音仲間との語らい、息抜きの場程度に思っている方もいますし、真剣に自身を見つめ、生き方を考える場として考えている方もいます。切実に悩みを抱えている人もいます。人それぞれ思いは違いますが、その様な色々な人が集まり、吃音というテーマについて時には真剣に、時にはバカ話に花を咲かせながら自由に発言しあえるという教室の雰囲気が私は気に入っています。しかし、そんな教室での何気ない会話や議論の中に、吃音を考え、研究する上で重要な要素が多く含まれていることを、本書は改めて教えてくれます。
 愛媛大学の水町先生が、大阪吃音教室での、ある女性をめぐっての参加者たちのアドバイスを例にして「吃音の受容」について述べています。それは、「吃音の受容」というとどもる事が全く気にならなくなる状態と誤解されがちであるが、実はそうではなく、日々吃音に困ったり、「どもりたくないな」という思いを持ちながらも、それに押しつぶされる事なく、自己の責任や役割を果たすべく真摯な努力を続けること、それを通して自身のどもりに対する悩みや困難の比重を結果的に少しずつでも軽くしていく事ではないか、という指摘です。水町先生自身は吃音者ではなく、もちろん最初からその様な見解を持っていたわけではありません。しかし、大阪吃音教室に参加する多くのどもる人たち、どもる人と関わる人たち、また初めてどもる人を見た人たちなど、様々な人たちを対象にした長年の分析、研究、また関わりのなかで、その様な見解に至ったということには、私たちの活動を考える上でも非常に深い意味があるように思われます。治ることない吃音を「治したい」ともがき続けるのではなく、「どもりたくないな」という恥ずかしさを持ちながらも、より良い人生を歩みたい。深く悩む人にはなかなかすぐには理解しがたい事かもしれませんし、悩んでいない人には改めて考えるほどの事ではないかもしれませんが、吃音研究に人生をかけた研究者にそう思わせた何かが、正にこの大阪吃音教室に参加する皆さん一人ひとりの生き方や考え方全てに潜んでいる事だけは間違いなさそうです。全国の書店でこの本を手に取るどもる人たちに思いをはせながら、是非皆さんも本書を通してあらためて、「どもること」について、どもる人が集まって続けているこの活動について、考えてみませんか? 

 ゼロの地点に立ち、そして
                             徳田和史(会社員)

 私が、この本を読むに際し、頭の片隅にあったのは、昨年の大阪スタタリングプロジェクトの忘年会における伊藤伸二さんの、「ようやくこの3月に、『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』が出版されることになった。出版が遅れたのは、どうしても自分自身が納得いかないところがあり、何回も練り直していたからです。私として10冊目の節目ある本となり、吃音問題に関して私の集大成となるもので本望です」とのスピーチだった。
 伊藤さんには大変失礼であるが、私は、どのあたりが何回も練り直した部分なのかを見つけることに興味があった。読み進むうち、このあたりではと想うところがあった。それは、第6章の”マイナスからゼロの地点に立つ”から”未来志向のアプローチ”そして”どもる力”までの展開ではなかろうかと。この展開のなかでは、論理療法はもとより、吃音評価法、交流分析、自己概念等の考え方が取り入れられており、改めて、日頃大阪吃音教室で行われているこれらの講座が意義あるものだと実感した。
 この本を読み終えて私として感じたことは、佐々木和子さんが言っているように、悩める吃音者にとって”居場所”の確保が大切ではないかということ。佐々木さんにとっては、そこが大阪教育大学言語障害児教育課程であったし、私にとっては大阪吃音教室であった。子どもたちにとっては吃音親子サマーキャンプではないかと思う。
 一人悩み、落ち込み、どうしていいか分からない吃音者にとっては、自分の存在を認めてくれる”居場所”があってこそ、そこで情報を得、自ら体験することによって、自己意識・自己概念が芽生え、マイナスからゼロの地点に立つことができ、そして、そこから未来志向のアプローチに向かうこともでき、なおかつどもる力を得ることができるのではないだろうか。

僕が他人に一番解ってほしかったこと
                            堤野瑛一(パートタイマー)

 素晴らしい本でした。この本は、多くの吃音に悩む方たちは勿論のこと、その周りの方たちや、それに、吃音と何の関わりのない方たちにも、出来るだけ多くの人の目に触れて欲しい…、読みながら、そんな気持ちでいっぱいになりました。
 何故なら、この本には吃音のすべてが書いてあるからです。どもりに対しての理解の希薄さや、誤った情報や認識が飛び交う世間に対し、吃音の実態や真実をすべて明かしてくれる。それに、吃音で悩む当事者たちに対して、この先豊かな人生を送るためのヒントを、たくさん教えてくれる。これはそういう本です。
 特に僕は、第2章「吃る人は具体的にどんなことで困り、悩んでいるのか」が感慨深かったです。これは、僕がどもりに独りで悩み、どうしようもなかった頃に、一番他人に解って欲しかった事なのです。この理解が得られず、また伝える事が出来ず、僕は多くの誤解を受けながら独りで苦しみました。自分のどもりを知っている身内ですら、この”どもりの苦悩の本質”は理解してもらえていませんでした。吃音者の多くは、吃音でない人が想像もしないような、特有の事情や悩みをもっていると言えます。著者の水町俊郎さんは、非吃音者にも関わらず、そういった吃音の問題点を的確に鋭く提示され、その研究や調査の結果を著されています。また伊藤さんも、吃音当事者の観点から、それぞれの問題を曖昧にされることなく、ひとつひとつ深く丁寧に掘り下げられています。
 そして何よりもこの本は、問題提示や理解だけに留まらず、行き着くところは”吃音をもちながらも豊かな人生を…”に終結していることが、最も重要なのです。
 このような素晴らしい本が出版されるのもまた、”どもる力”なのです。

吃音を持つフレッシュマンへの応援歌
                            西田逸夫(団体職員)

 第7章のまとめとしてある、「フレッシュマンへの応援歌」というのは、元々伊藤伸二さんが書いた文章の表題であり、この本の一節のタイトルでもあります。私はこの本を通読して、このことがこの本の重要なメッセージの一つだと感じました。
 伊藤さんの前著、『どもりとむき合う一問一答』が、どもりを持つ子どもたちとその親達への応援歌なら、この本は、これから社会人になろうとする吃音者とその親達、すでに社会に出て吃音のことで困っている成人吃音者への応援歌なのだと思います。
 【吃音者の職業】特にお奨めなのは、この本の第7章、「吃音者の就労と職場生活」です。ここに、水町先生が吃音者の職業について調査された表が載っているのです。その表によると、調査対象の吃音者ll3名中、23名が、教師や営業職という、人と話すことが専門の仕事をしています。この他、自営業、サービス業の8名を合わせると、3割近い吃音者が、人と話す機会の多い仕事をしていることになります。水町先生のところに卒業後の相談に来た高校生に、この表を見せたところ、本人は大いに驚き、吃音のせいで就職に悲観的になる必要がないと気付いたそうです。吃音だと就職に不利なのでは? これは吃音を持つフレッシュマンが、よく持つ不安です。それに対する明快な答えが、上で紹介した表です。決して不利ではなく、多くの成人吃音者が、人と接する職業人として日常を過ごしているのです。
 【吃音者のコミュニケート能力】吃音者が人とコミュニケートする能力は、一般に思われているより、そして吃音者自身がそう思い込んでいるより、ずっと高いのではないでしょうか。と言うのも、大阪吃音教室に通う人達には、自分が吃音で困った状況を表現するのが巧みな人が多いのです。話題が吃音のことなので、他の参加者にも伝わりやすいとも言えます。でも、吃音教室以外の場で、非吃音者の人達が自分の抱えている問題を話すのを聞いていると、言葉は滑らかでも問題点をうまく表現出来ない人がどれだけ多いことでしょう。吃音者だからと言って、人とのコミュニケーションが下手とは限りません。吃音のままでも、立派に人とコミュニケートし、暮らしている人が大勢います。「吃音は治るもので、治さなければならないものだ」という情報がはびこっている日本で、この本は貴重な存在だし、多くの方に読んで頂きたいと思います。

どもりのマイナス面とプラス面
                           橋本貴子(主婦)

 この本を読んで印象に残ったのは第6章の「吃音はマイナス面のみか―吃音力の提唱」です。改めて吃音のマイナス面とプラス面を考えてみました。
 大阪教室に参加する前まで、どもりはマイナスとしか考えられませんでした。就職に不利、会社でやっていけるか、結婚はできるのか、注文や探しているものが言いにくい言葉のものなら店員さんに聞けないなど「百害あって一利なし」と思っていました。ですが、今の私の気持ちは、私が考えていたマイナス面はマイナスと思わなくなりました。
 しかし、どもりたくない場面でどもるかもしれないなあと思っている時や、スーパーなどで探しているものが見つからないときそれが言いにくい言葉のものだったときは、どもりでなかったらなあと思う時もありますが、私はそれをマイナスとは思いません。
 なぜそう思うのかと言うと、どもりであっても「私は私のままでいい」という自己肯定ができたのと、本に書いてある『どもっていても未来は開かれているという視点、前提がある』ということが実感できているからだと思います。
 また、第6章の第5節(1)の「吃音は意味づけ、受け止め方の問題」の中で『どもっていても、吃音を否定せず、話すことから逃げない生活ができれば、吃音は大きな問題とはならない。吃音の問題を大きくするのは、どもる人の吃音に対する受けとめ方であるといっていい』と書いてありますように吃音に対する受けとめ方が変わったからだと思います。
 どもりだからできないのではなく、どもりは関係なく結局は自分が「やる」か「やらない」かだと思います。どもりのせいにするのではなく自分の問題であると思うのです。
 プラス面は本に『吃音に取り組まなければ出会えなかった書物や出来事、すばらしい多くの人たちと出会えた』と書いてあります。年齢、性別、職業に関わらずたくさんの人と出会えるのはどもりでなかったらなかなか難しいことだと思います。
 また、ことば文学賞や感想文や新生の例会報告など文章を書く機会があります。どもりでなかったら日記くらいしか文章を書いていなかったように思います。それにどもりのことで文章を書くと過去を振り返ったり、しっかり自分の内面と向き合うことができるのも良い点だと思います。
 そして、片頭痛など他にも悩みを持つことがありますが、その時はどもりと同じでなぜ自分だけとか、大事な時に片頭痛になるんじゃないかという不安で片頭痛は治らないものかと治療法を探したりしていました。でもどもりと同じで治療法がありません。そういう時は「治らないのなら仕方ない、どもりながら生きるしかないか」とどもりを片頭痛に置き換えると、肩の力が抜けて楽になれます。どもりで悩んだからこそ、どもりは治らないものだからこそすぐに気持ちの切り替えができるのもどもりのプラス面だと思います。
 この本を読んで、まだ気づいていないだけでたくさんプラス面があるかもしれないなと思いました。新しいプラス面をこれからも見つけられる自分でありたいなと思います。

変わるもの、変わらないもの
                          松本進(ことばの教室教諭)

 この本の中で一番ひきつけられた第3章(佐々木和子さんの例)についての感想です。
 30年ほど前、佐々木さん(旧姓、渡辺さん)が大阪教育大学の学生だった頃、私も東京の大学を出て伊藤伸二さんのいる大阪教育大の言語障害児教育教員養成一年課程に入り直した。だから、佐々木さんの学生時代と、その後の長い空白期間を経て2、3年前の吃音ショートコースで会った最近の彼女の両方を知っているわけです。
 本文にもあるように久しぶりに会った彼女はずいぶんしっかりとし、どもりも驚くほど軽くなっていた。劇的な変化と言える。でも、学生の頃と変わらないものも感じた。どもりながらも大きな目で前をまっすぐ見て話す話し方、物事をまっすぐすなおに見つめる視線は、以前と同じだと思った。この本の中の文章も、何のてらいもなく自分の過去をまっすぐ見つめ、自己分析したことがらを正直に記しており、彼女ならではと思った。高校時代の彼女を指導したという島根県松江市のことばの教室の大石益男先生は次のようにコメントしたとある。「和子の性格の魅力は、内面ウジウジしているのに、表面あっさりしすぎるほどにスパスパと決断し、話していくところにあると思う。…」
 人の復元力(?)みたいなことを考えさせられた。佐々木さんは小学から大学のはじめまで、話す場面から徹底して逃げ続けたという。この本の編著者の伊藤さんも小学~高校まで学校生活に背を向け逃げ続けたという話をよくする。しかし彼女も伊藤さんも、その後劇的に変わったと言っていい。
 果たして劇的に変わったのか、あるいは彼らのある部分は何も変わらなかったのか。なぜ変わったのか、については本人も周囲もいろいろに語ったり書いたりしているが、なぜ変わらなかったのかについては、よくわからない。彼らの学校以外の環墳が安定していて、どんなにつらいことがあっても癒してくれる帰るべき場所が確保されていたからか? あるいは、どもりで悩む前の幸せな幼児期に確固とした人としての核ができあがっていたのだろうか? 人には復元しようとする力が内在しているのか? そして、どこまで成長・変化できるものなのか? 彼らの経歴を知ると、将来のために今は逃げておく、という戦略もありなのかも、とも思ってしまう。
 この第三章でもうひとつ印象的なのは、社会人となった彼女をずっとそばで見てきたご主人の手記「カミさんの吃音」である。それは、彼女を冷静に客観的に観察しており、透明感のある、それでいて愛情の感じられる不思議な文章である。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/30

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