第7回ことば文学賞受賞作品 3

 ことば文学賞の優秀賞は、2作品です。今日は、昨日に引き続き、優秀賞の2作品目を紹介します。
 ことば文学賞は、大阪吃音教室が主催して、毎年、募集し、選考を経て受賞発表していますが、日本吃音臨床研究会の会員も応募することができます。今日、紹介する優秀賞作品は、「スタタリング・ナウ」購読者で、岡山県在住の方の作品です。講評の五孝さんも書いていますが、田辺さんの文章はとても素直な「いい文章」で、僕の好きな作品のひとつです。
 僕の身の周りには、自分は苦しみながらも自分の吃音を認めることができるようになったけれども、子どもがどもり始めてショックを受けた人がいます。ところが、子どもと一緒に吃音に向き合っていくなかで、どんどん変わっていきます。そして最後には、子どもと一緒に吃音と向き合った「どもりの旅」は充実して楽しかったと言います。経験した人でなければ分からない不思議な世界です。(「スタタリング・ナウ」2005.3.20 NO.127)

《優秀賞》  マイナス+マイナスは?
                  田辺正恵(岡山県在住・パート職員・45歳)

 45歳の私と19歳の長男には吃音という共通項がある。4歳の息子がどもり始めた時、目の前が真っ暗になった。頭の中が真っ白になって何も考える事ができなかったのを今もよく覚えている。
 私は吃音が原因で小学校の時いじめられた経験があり、この記憶を引きずりながら生きてきたので、どもる息子が自分のようにいじめられる! あんな辛い思いをしたらどうしよう、とそのことばかり気になった。
 コンプレックスと自意識過剰の思春期を送っていた私は中2の時、開き直って自分なりに吃音への姿勢を決めた。それは「どもる事を隠さない」、親しくなりたい人には積極的に自己開示していった。喋れば分かるのだから隠してもしかたない、どもる自分を分かって欲しかった。自己開示してそのために友だちを失う事はなかったからこれは成功したのだと思う。でも、「私はどもるの」と人に言う時、とても悲しかったのも事実だ。どもりさえしなければこんな事、言わなくても良いのだから。心の中で泣きながらそれでも自分を知って欲しくて、どもる事を告白し続けた。
 私のどもる事へのイメージはどう考えてもマイナスだ。自分がどもり出した時から息子がどもるまで20数年の時間が流れていて、その間に学校に行き、就職をし、結婚、出産とそれなりに生きて、小学校のいじめ以外に吃音で決定的に打ちのめされた事がないにもかかわらず、「どもる事は悲しく、辛く、なりたくないこと」だ。だから息子がどもるようになった時、悲しかった。「親子でどもるなんて!」
 どもる息子を育てる事は自分の吃音と向き合う作業でもあった。息子には「吃音は悲しい」イメージを持って欲しくなくて「ことばの教室」にも行かず吃音を矯正する事は一切しなかった。矯正する事は直すべき自分がいる事で、それは自己否定につながると思ったから。
 息子の吃音を否定したくない、自分の吃音は中2の時、認めたのだから息子の吃音も直視できるはずだった。でも、できなかった。思春期に決意したあの覚悟はなんだったのだろうと思うほど、どもる息子を見るのは悲しかった。私が息子にしてやれたのは、「どもるようになったけど、どもる事に負けないで!」とエールを送り、先輩の吃音者として内心のはらはらを隠しながら見守る事だけだった。吃音を言い訳にしない生き方をして欲しかった。私はそうしてきたという自負もあった。でも、そう願いながらその願いの裏側には、私の中の吃音に対する明らかなマイナスイメージがある。どもる自分を隠さない、でも、隠さない生き方をせざるをえないのって悲しい、自分ひとりでも充分辛いのに子どももなってしまうなんてダブルパンチだ。マイナスが二倍になってしまう。
 そんなふうに思いながら10数年が過ぎて、私は近頃、親子でどもる事について以前とはまったく違う考えになっている。
 それは、「どもる息子で良かった!」
 私は息子がどもり出した時、息子に自分を重ねていじめを心配した。自分のようになったらどうしようと思った。事実、息子は吃音をからかわれ、いじめられた。よく、学校から泣きながら帰ってきていた。でも、彼は私と違ってその記憶に引きずられてコンプレックスにさいなまれていない。親子で、吃音という共通項はあるけど彼は私とは違う人間だ。違う人間だから吃音への対応も当然違う。「吃音は悲しい」は私の感情であって誰もがそう思うとは限らない。この事を息子は私の傍で育ちながら私に教え続けてくれた。思い込みの呪縛から解いてくれた。どもる息子を育てなければ、わからなかったと思う。
 親子でどもって悲しいマイナスの2倍じゃなくてマイナス+マイナス=プラスだという事に気付いた。息子は私にとって一番身近な吃音者であり大切な事を教えてくれる人生の師匠だ。育児をして子どもを育てたのは確かに母親である私だが、私を人間として育ててくれたのは子どもだ。
 私には3人の子どもがいる。吃音のある長男からはいろいろな吃音者がいる事を、どもらない長女と次男からはどもらない側から見た吃音者の姿や本当にさりげない優しさを教えて貰った。
 自分が自分らしく、生きていく上で大切な事を子ども達に教わりながら、「親子でどもるのも悪くないかも!」と思っている。「どもることは不幸じゃない」と気付いたこの頃である。

〈五孝さんの講評〉
・どもることのつらさ。誰かも書いていましたが、本人にしか分からないと思います。さらに我が子がどもり出したときの母親の気持ちとなると…。いい文章です。
・やはり心の根っこに吃音へのこだわりが残っているのでしょう、子どもの吃音を機に自分の心の中を冷静に見直し、跳ね返していく力が文章によく出ています。
・「吃音は悲しい」という呪縛を持たない子どもが本当にいるのでしょうか。この思いは私だけではないかと思います。なるほどなあと読む人が分かるように書くことができれば、もっといい文章になったと思います。

※岡山在住の田辺さんの受賞の喜びの声…「伝えたいことを伝えることの難しさ」を思いました。書けば書くほど、自分の想いから遠ざかってしまう、元に戻りたいけど、どう戻ってよいか分からなくなってしまい、途方に暮れながら書きました。改めて文章を書くことの難しさと、自分の文章が下手だという事がよく分かりました。でも、書くことは楽しい! です! そのことも分かりました。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/23

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