第7回ことば文学賞受賞作品 2

 昨日の最優秀賞作品につづき、今日は、優秀賞作品の紹介です。

《優秀賞》  三つ子の魂、百までも
                      峰平佳直(大阪 会社員 47歳)
 今年47歳になった私のどもりが、突然大きく変わった。症状がひどくなり、どもりの不安不満が激減した。
 平成15年11月、通勤途中にある羽曳野病院結核病棟で、85歳の父親が私に話した。
 「こここ~んど来る時、いいいいいいいそじまん、も・・もって来てくれ。」
 父親が他の病院に移動するまで2ヶ月間、私は毎日、着替えを持って通い続けた。そして、父親の、子どもみたいな素直などもりを聞き続けた。
 それまでの父親は、どもる事を嫌い、「どもる人はだめだ」と感じている人間だった。私は父親と同じようにどもりがちであったため、幼年期の私は「どもる人はだめだ」を父親の暗黙の「教え」として受取り、46歳までしっかりと持ち続けた。
 小学校、中学校、高校時代、暗くて寂しい時間を過ごした。「どもる人はだめだ」を心の中に持って。友達と、どもりながら楽しく会話をする事など考えられなかった。
 18歳、今の会社に就職して、心やさしくしてくれた先輩が私に聞いた。
 「峰平君は、なぜ自分の事をそこまで卑下して、悪く言うのか」
 だめな人間だと思っていた私には、その質問が不思議な気がした。会社の電話は恐怖だった。電話の用事は、すぐには済ませられない。どもりそうだと感じたら、自信が湧いてくるまで半日ぐらい後回しにしたり、トイレや屋上で小さな声で発声練習をして、気合をいれてから電話をした。
 自由に使えるお金ができ、どもりを治そうと決意して、大阪の民間吃音矯正所に通い続けた。そこは、「堂々と、ゆっくり話す習慣が身に付けば、どもりは治りますよ」と教えていた。
 3年間、本の朗読、外に出て道を聞きながら歩く実地訓練、人前でスピーチをする。私はがんばった。私は矯正所の中では堂々と話す事が出来た。
 今思い返せば、まわりみんなが「どもる人はだめだ」ばかりである。自分ひとりでは無い、劣等感を持つ事が無かったのだろう。
 出来るだけ目立たないように、暗く、おとなしく、静かにしている習慣が染み付いていた私に、大きな転機を与えてくれたのは、地域の青年会活動だった。多くのイベントをこなしていくには、他人との挨拶、お付き合い、気配りが必要で、自分の殻に閉じこもっていられなくなった。
 22歳の時、同じ道を堂々巡りをしている自分の言葉に限界を感じていた。会社に4ヶ月の休職願いを出し、どもりの東大と言われていた東京正生学院に入学した。どもりが治らない事を、ここで初めて知った。紹介された本を読みあさり、自分のどもりを考え直す時間を持てた。発声練習、上野公園で演説、自律訓練法、催眠術、ディスコ、風俗。泥酔するほど酒を飲み、どもりの集まりには進んで参加した。
 大阪に帰り、アメリカの50年前の学者が書いた、「吃音の治療」に書かれている方法を、実験して見ようと決意した。
 吃音を改善する為には、動機づけとして、日常生活で平気でどもれるようになる必要がある。一大決心をして、家族、友人、職場、近所で、どもりまくった。しかし、頭がおかしくなってきた。
 さあ今日もどもるぞう。いやどもりたく無い。弱気な事を言うな。恐い、嫌だ。
 完全な敗北である。
 「どもる人はだめだ」に対抗するだけの気力は、2日が限界だった。
 どもりでかなり悩んでいた女性の友達に、半年ぶりに電話をかけた。彼女は変わっていた。「どもりは、もう、どうでもよくなった」と言う。これが、森田療法に興味を持ったきっかけである。恐怖、不安にさからうな。そのままで良い。今、すべき事に手を出しなさい。この考え方は私を救った。電話でどもりそうで不安の時、先ず受話器をとった。次にダイヤルを回した。声が出るのが遅いので、相手は電話を切った。用件を伝えるのがすべき事なので、すぐにまたダイヤルを回した。
 続けて3回目の電話は、私の声が出るまで切らないで、待ってくれる事が分かった。
 24歳の時、東京で知り合った友人の紹介で、大阪のセルフヘルプグループの例会に参加した。23年前の例会は、毎週日曜日に開いていた。3~4人が集まり、本を朗読したり、人前でスピーチをしたりしていた。
 近くに4畳半の事務所が有り、水炊きを作って味ポンでみんなで食べた。すっかり気に入ってしまって、2回目の参加から、例会の担当者をさせてくれと、当時の実行委員に申し込んでいた。
 「どもる人はだめだ」を、心の奥にしまい込んでいた私は、何処にいても居場所が無いような疎外感を、いつも持っていた。しかし、どもる人ばかりに囲まれるのは、自分の存在を確認できた。
 伊藤伸二さん、東野晃之さんが本格的に乗り込んできて、今のようなりっぱな大阪吃音教室になる以前の6年間、集まるだけの質素な例会の輪の中にいつもいて、周りをかき回した。担当が自分一人になっても、例会を続けていく気持ちだった。しかし、不思議に次々と新しい担当者が現れて、仲間を増やした。「10年遅れた青春だった」
 例会で、「吃音の受容」が言われ出した。私は、どもりを持ったままで生きて行こうと、人に言っていたが、しかし、「受容」の言葉に嫌悪感をはっきり持った。
 ダブルスタンダード。2つの標準を持つ。表と裏がある。理性と感情が違う。言葉と行動が違う。
 どもりを持ったままで生きる事と、受容するは、どこが違うのか。受容の言葉は私には向かないと、矛盾を感じながら背を向けた。
 どもる事にアンテナを張り、仲間を作ってきたので、親しくなる女性も、どもる人が多かった。しかし、どもる彼女に、いちずにはなれなかった。
 女性の彼女は好きだけど、どもる彼女は嫌い。中途半端な、煮え切らない男。空回りの20代の恋だった。
 親戚には、あいもかわらず、話す事ができない。
 無口で、暗く、真面目なんだけど、ちょっとたよりない印象だったと思う。当時は不思議で、何故かわからなかった。今は分かる。どもって話したら、父親が嫌がるからだ。
 父親が、大阪市内の病院を入退院繰り返していた時、自分の葬式が近い事に気がついて、「わざわざ」、結核を発病して、私の会社の近くに強制入院してきた。
 「こここ~んど、来る時、いいいいいいいそじまん、も・・もって来てくれ。」
 2ヶ月間、父親は子どもみたいな素直などもりを、「強制的に」私に聞かせた。そして、何故か2ヵ月後、結核菌は消えて退院した。
 父親は、幼い息子に「どもる人はだめだ」の種を植え、あらゆる攻撃にも耐え抜いて、しっかり実らせ、収穫期にすべて刈り取っていった。来年の春は自分で決めた種をまきなさいと、言い残して。
 平成16年6月5日、朝ご飯を食べて、昼穏やかに、85歳で他界した。
 完全犯罪を成立させて、真実が分かったときは、天国へ高飛びである。
 今、天国で悪意のある顔をして、ニヤっと、こちらを見ている気がする。
 葬式では、父親の計画どおりに、私は親戚の前で、子どもみたいに素直にどもりながら、堂々と威厳を持って、喪主の挨拶を済ませた。

〈五孝さんの講評〉
・構成がうまいです。最初の段落、えっと思わせる。相矛盾するような表現を並べ、どういうこと?と、読み手の興味をつなげています。そして、最後の段落で見事にまとめています。構成を考えているなあと思ったのはこの作品だけです。段落ごとに話を変えて展開しているのもいい手法だと思います。
・どもりを持ったまま生きていこうという境地に達しても、「どもる人はだめだ」という父親からの呪縛から逃れられなかった、父の死で初めて解放され、素直にどもれた、というのが大意なのでしょう。しかし、私には父親の呪縛だけの問題かと感じました。うまく説明できないのが残念ですが、筆者が心の中をもっともっと見つめれば、違う文章になったような気がします。
・また、いらないと感じる段落がありました。個々の文章でも、分かりにくい個所があります。特に最後の3段落はとくに分かりにくいです。説明不足、舌足らずというより、もっと分かりやすく説明することから逃げているような気がしました。惜しいです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/05/22

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