気がつくと、先の見えないことばかりやっています。~仕事とは、『旅』を続けること~

 平井雷太さんとの出会いは、たまたま図書館で手にした詩集の中にあった「やさしさ暴力」の詩でした。その後、平井さんに来ていただき、私たちの集まりで話してもらったり、インタビューゲームの合宿をしていただいたりしました。また、私も平井さんの集まりに行って、話をさせてもらったりして、いろいろな機会にたくさんの話をしたと思います。平井さんと僕には、共通する部分も多いのですが、違う部分もあり、お会いするたびに新しい発見があります。 2003年11月に、セルフラーニング研究所で話したことが、月刊セルフラーニング『Co:こぉ』の2004年6月号に掲載されました。編集委員会の許可を得て、「スタタリング・ナウ」2004.6.19 NO.118 に転載したものを紹介します。

気がつくと、先の見えないことばかりやっています。
      ~仕事とは、『旅』を続けること~
                 伊藤伸二+平井雷太+飯島ツトム(CO-WORKS代表)
                 2003年11月29日セルフラーニング研究所にて

◇「お金」・親からの自立

伊藤 僕にとって、父親・母親は、随分ありがたい存在でした。中学、高校のころ、僕は、勉強はしないし、警察や学校からは呼び出されるし、本当にどうしようもない人間でした。今で言うところの非行少年でした。ところが、母親も父親も僕に、責めるような、非難するようなことは何も言わなかったんです。
 僕が、やっと就職したのは29歳です。今でこそ『フリーター』とか言われていて、そんな人は多いけれど、大学を卒業したらみんな就職する時代に、大学はふたつの学部に行って、いつまでたっても、まともな仕事に就かずにブラブラしている僕に、親は「お前、ちょっとええ加減にせえよ。大学を卒業して何年になるんだ? ちゃんとした所で働いたらどうか?」と、言わなかったんです。
 僕のことをあきらめて、もうどうしようもないと思って見捨てていたのか、それとも僕を信じ切っていたのか、それは分かりませんが。

平井 すごいですね。信じ切っていたんですね。

伊藤 たぶん、そうでしょうね。僕は、大学に7年間いて、ブラブラしていました。親から援助は一切受けずに、学費も生活費も全て自分がアルバイトで稼いでいました。ある時、勉強したい事ができました。それは『吃音』のことなんです。大学生活をしていた東京から、大阪教育大学へ言語障害児教育を学びに行くことにしました。
 その時に、父親の所へ行って、「僕は今まであまり勉強しなかった。だけど、大阪で勉強したいことができた。これまではアルバイトで生活してきたけれども、大阪に行くからには僕はアルバイトを一切したくない。自分のやりたい勉強を一所懸命やりたいから、親父、お金を出してくれ」と、言ったんです。そうしたら親父が、「情けない」とも何とも言わず、「いいよ」と、生活費を出してくれた。「あいつはあいつなりに、人生を生きるだろう」と、思っていたんでしょうね。だから、本当に放っといてくれた。

平井 すごいですよ! 

伊藤 だから、うちの親父はすごいなあ、すごい親だなと思いました。あれだけ待てるというのは…。27、8まで大学でブラブラしていた人間に、それまで愚痴の一つもこぼさず、今度は「お金を出してほしい」と言ったら、「いいよ」と、ふたつ返事でお金を出す親って一体何なんだろう、と…。

平井 そうですか…。僕の場合は、親にうるさく言われっぱなしですよ。お金は出してくれたけど、条件があってね。
 要するに「学生運動するなら、お金は止める」と。だから、「親の思い通りになるのなら、あなたは私の子どもでいていい」という条件つきなんです。だから、僕は、お金は条件つきでもらうけど、いつ止められるかわからないからアルバイトしたんです。

伊藤 条件つきですか…。なるほど。

◇自分の「苦手」に向き合うのが「仕事」?「働くこと」と生きる実感。

平井 僕は、人に会うのが大嫌いで、話すのも苦手でした。人が居るところで喋るのなんて、冗談じゃなかった。だけど、バイトせざるを得なくなった。

伊藤 そうなんですか。

平井 選んだのは、市場調査です。知らない人に会ってインタビューする仕事ですよ。僕は学生時代に、個別にいろいろな家に行って3,000件位インタビューしました。それは、親からの制約みたいなものがあったから、一番苦手だった『話すこと』をせざるを得ないような状況になったってことで、本当に何が幸いするか分からないです。

伊藤 分からないですねえ。

平井 ええ。だから、『苦手』というのは、時々どうしてもそっちの方に引っ張られていくことがあるから、苦手意識を持つのはそんなに悪くないんじゃないかと。今、思えば、ですけどね…。

伊藤 本当にそう思います。

平井 できないと思ってたことができてしまうんですから…。『欠損』とか、『欠ける』というのは、そういう意味では、ものすごく重要だと思います。

伊藤 そう言えば、僕も、人が怖くて、新しい場に出て行くのが苦手でしたが、おかげで、とてもいい経験ができましたね。
 大学では、受験料も何もかも全部自分で工面したんです。当時、父親とも母親とも喧嘩をして反発していたから、「経済的な援助を受けるなんて、反発している人間としては沽券にかかわる」と、一切援助を受けずに生活しました。1年間浪人をした時は、大阪で新聞配達しながら、入学金から授業料から全部貯めて、それで受験して、大学生活をしました。東京の大学に出て来る時も、住むところがないから、やはり新聞配達店を探して、そこから私の大学生活はスタートしたんです。
 僕は「どもり」のせいもあって人が怖かった。特に新しい環境に出るのが怖かった。それで、せっかく自分で金を稼いで大学生活を送ろうと思っているんだから、新しい場にできるだけ出よう、いろんなアルバイトをしようと思ったんです。そのため、どんなに居心地のいいところでも絶対1ヶ月以上は居ないでおこうと決めたんです。キャバレーにも行った、新宿のスナックでバーテンもした、新幹線の工場で働いたし、商店で販売もした。数えたらきりがないほどのいろんな仕事に就きました。小学2年からずっと、他人に対する信頼、他者信頼をもてなかったから、孤独で、あまりにも強烈に人が苦手だったので、何か自分を変えたいなあと思っていたんでしょうね。昔は『学徒援護会』というのがあって、たくさんの仕事が貼り出されていました。やった事のある仕事はやらない、一度もやってない仕事をやろう。だから、『靴磨き』とか『泥棒』以外、…(笑)ほとんどの職種につきました。何百種とはいかないにしても、百種類位のバイトをしました。そんな中で思ったのは、「どうやってでも人は生きていける」でした。「こういう世界も知っている」、「こういう世界で生きても、まあ何とかやっていける」、そう思いました。ああいうやり方でバイトしていなかったら、新しいことに挑戦することや新しい出会いが億劫になっていたかしれません。「怖いながらでも、やってみよう」という気にはならず、ただ「怖い」だけで終わっていたでしょう。
 学習研究社の百科事典を売るときの経験は、すごく面白かったです。”ピンポン!”って、玄関のインタホンを押しますよね。応答なく留守だったら、ホッとするんですよ。自分で売り込みに行っているのに、「留守で、ああ、良かった」なんて思ってね。「これじゃ売れないな」と思いました。そんなことなど思い出しますが、本当にいろんなものを経験していたんです。
(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/04/10

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