どもる子どもの支援につながる評価とは 2
昨日の続きです。
今、吃音検査法は、どの程度浸透し、広まっているのでしょうか。少なくとも、僕と親しくしている多くのことばの教室では使っていません。「吃音症状」といわれるものを評価しても何の役にも立たないことは、長い吃音研究・臨床の歴史でも明らかになっているにも関わらず、吃音の専門家はなぜ「吃音症状」にこだわるのでしょう。どもる人の人生を展望しての「吃音評価法」であるべきなのですが。検査のための検査ではなく、どもる子どもやどもる人の日常生活につながるものであってほしいと思います。そのためにも、僕たちの提案した、吃音チェックリストを活用してほしいと願っています。今回紹介するのは、20年以上も前に書いた文章ですが、今また、書くとしても同じ文章を書くと思います。変わらない吃音の世界ですが、どもる子どもやどもる人たちはこのような検査法に影響されることなく、生きています。それは大きな救いです。
どもる子どもの支援につながる評価とは
日本吃音臨床研究会 伊藤伸二
吃音の問題とは何か
私がこうまで吃音検査法にこだわるのは、この検査法が広く行き渡り、定着してしまったら、ますます、吃音の問題は吃音症状にあるということが強調され、吃音症状の消失・改善を目指す吃音臨床が幅をきかせるようになってしまうと危惧しているからだ。子どもに対する吃音の検査について検討することは、吃音の問題とは何かの本質的な問いかけに他ならない。吃音の問題とは何か。
吃音は、言語障害のひとつだが、障害ということばについて考えたい。
日本では、ハンディキャップを障害と訳したが、1980年版の世界保健機関(WHO)の定義によれば、「障害」は次の三つのレベルでとらえられる。
第一が「インペアメント」(impairment=機能・形態損傷)。例えば手が両手がない等心身の医学的な損傷という現実。
第二が「ディスアビリティ」(disability=能力不全)。両手がないため物を持つことができないように、客観的事実に基づき、ある課題を達成しようとした時に二次的に現れてくる障害。
第三が「ハンディキャップ」(handicap=社会的不利)。偏見の眼で見られ、就職が難しくなるなど。
第一、第二の障害に、社会的価値判断や仕組みが作用して、障害のある人に体験される社会的不利。
この三つのレベルを吃音にあてはめると、こうなる。
一次的な障害 吃音症状
二次的な障害 人前で話せない。電話ができない。自己紹介ができないなど。
定義通りに解釈するとこうなるが、どもっていても平気で人前で話す人はいる。ひどくどもりながら電話をし、セールスマンや教師など話すことの多い仕事についている人はたくさんいる。客観的事実よりも主観的事実が第二の障害を生み出すところが、吃音が他の障害と大きく違うところで、障害の程度が必ずしも、二次障害や三次障害を規定しない。吃音にとっての二次障害は、WHOの定義とは違う視点からとらえる必要がある。
吃音にとっての二次障害とは、吃音をマイナスのものとして強く意識することだといっていい。そうすると、吃音を隠すこと、話す場面から逃げることが起こる。その結果、社会的な経験が不足し、コミュニケーションや言語能力に影響する。これが二次障害であり、そのような生活を続けることで、結婚、仕事、昇進などで社会的な不利益を被ることが起こりえる。それが三次的な障害となる。吃音の問題は、二次、三次への取り組みだといえる。
私の体験
私自身のことを点検すると、私の悩みは、どもるという症状からくるものではないことがよく分かる。小学2年の秋まではかなりどもりながら、友だちもたくさんいて、発表もよくし、吃音は全く問題とはならなかった。ところが、吃音を「悪いもの、劣ったもの」と強い劣等意識をもったことから、自己を否定し、自尊感情がもてなくなった。『吃音と上手につきあうための吃音相談室』(芳賀書店)に詳しく書いたが、それには担任教師の不適切な対応が影響している。
吃音に強い劣等感をもった私は、どもりのままでは、有意義な人生は送れないと思い込み、どもるからだめだと、小さな困難を感じると、すぐ逃げた。回避することで現実に向き合わないことは、水漏れ症候群という状態で、逃げたことへの嫌悪感と罪悪感に苦しんだ。また、現実にぶつからないので、何をしてもだめだという自分に対する過小評価と、どもりさえ治れば何でもできると思うジャイアントコンプレックスのために、非現実的な願望を持ち、今を生きることができなかった。完全主義で、失敗恐怖が大きく、特に人に拒否されることに対しては過敏に反応していた。このころの生活は充実した楽しいものではなかった。
21歳の時に民間の吃音矯正所で治療を受け治らなかったことが、大きな契機になった。4か月間、あれほど頑張ったのに治らなかった。そしてそれは私だけでなく、吃音矯正所で出会った300人ほどの人が全く治らなかった。この現実に向き合い、どもりを治すことをある程度諦めてから、私の吃音とのつきあいが始まった。すると、吃音症状は全く変わらないのに、吃音からくる二次障害がほとんどなくなった。どもりながらも電話はできるし、大勢の前でもどもりながら話せるようになった。これまでどもるからできないと思ってしなかったことが、どもってもできることを発見した。これは大きな発見で、二次障害は全くなくなり、その後の人生で、三次障害を意識することはない。
これが他の障害と吃音が大きく違う特徴だといえる。吃音を「悪いもの、劣ったもの」とマイナスにとらえず、自分の人生を誠実に生きることで、吃音は二次障害、三次障害とならない場合が多い。私が何千人と直接出会ったどもる人の中に、一人だけ、一語一語ひどくどもり、電話をするのも大変だろうなあと思った人がいた。実際には対人関係で苦労することが多かったが、明るく自分なりの生活を楽しみ、仕事にもついていた。
アメリカの3人の巨人
アメリカの著名な言語病理学者、ジョゼフ・G・シーアンは、自分自身の吃音の体験を踏まえながら、吃音を氷山に例える。水面の上に浮かんで、周りの人にも見えているのが吃音症状で、それは吃音の問題のごく一部だ。水面下に大きく沈んでいる部分が、恥ずかしい、みじめだという感情や、悪いもの、劣ったものだという考え方、吃音を隠し、話す場面から逃げてしまう行動で、それこそが吃音の問題なのだと言った。そして、「吃音は治らないかもしれないが、ハンディキャップをもたない吃音者になることはできる」と主張した。
ウェンデル・ジョンソンは、吃音は吃音症状だけの問題ではなく、聞き手の問題でもあり、本人が吃音をどう考えているかの問題だと言い、Z軸へのアプローチの必要性を説いた。
ヴァン・ライパーは、病気で治せないものがあるように、吃音が治ると考えるのはもうやめよう、どもりを受け入れようと提起した。
アメリカの言語病理学の巨人である3人は、厳密に言えば実際のところは違うかもしれないが、「吃音を治し、改善する」ことよりも、「吃音と上手につき合う」ことを提唱していると私は受け止めたい。吃音症状へのアプローチがほとんど出尽くして、それでも治っていない現実に向き合ったときの、良心的な臨床家としての当然の結果だと言えるからだ。この3人の巨人が亡くなった後、吃音について何か臨床に役立つことが解明されただろうか。画期的な治療法が出現しただろうか。残念ながら何一つ変化はない。そして、3人と同じくらいか、それ以上に「吃音と上手につき合う」ことを本音で提唱し、臨床の中心にすえるような人も、ほとんど現れていない。そのような現実を前にして、吃音症状にこだわった臨床を続けることはもうやめたいというのが私の提案だ。(「スタタリング・ナウ」2003.9.21 NO.109)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/03/12