第5回ことば文学賞 2

 今回、2003年の第5回ことば文学賞の受賞作品を紹介しています。僕たちは、話すことはもちろんですが、書くことも大切にしてきました。自分の経験をもう一度客観的に味わうことができ、後に続く人たちに残すこともできます。この間、たくさんの作品が生まれました。それらを厳選して、2冊の体験集を発行しました。たくさんの作品を読んできましたが、印象に残っているものも少なくありません。その中のひとつが、この鍋割さんの「一大イベント」です。 妻の出産という大きな道のそばを走る側道のような鍋割さんの心情が、共感を呼びます。

《優秀賞作品》
     一大イベント
                          鍋割正明(会社員 29歳)

 「もうすぐ生まれますよ!」
 妻がとても苦しそうになってきた。その妻が陣痛の辛さに耐えながら、僕をベッドに呼び、「生まれたら、実家の両親にすぐに電話してね」と言った。陣痛の妻に付き添って昨晩からあまり寝ておらず、特に僕の頭は、もうろうとしていた。しかし、妻のさっきの一言で、急に頭がさえてきた。それは、この出産という一大イベントを、夫として感動的に迎える心構えのためではなく、ただ自分のどもりがそれ以上に気がかりだったためだ。妻の両親に電話をする。それはなんでもない事であり、どもりでない人であれば、この一大イベントの時には、感動を共有できる夫としての大切な役割であろう。しかし、この時の僕は、そんなことよりも、ただただ自分が、どもらずに電話をし、うまく妻の両親に伝えることができるかどうかが、一番気がかりだったのである。
 なんとも自己中心的な、なんとも頼りない、なんとも心の小さな男であろうか。
 「だんなさん!もう頭が出てきましたよ!」
 そんな助産婦さんの言葉なんて、どうでも良かった。ただ、もうすぐ電話をしなければならない、という嫌悪感のみが僕の頭でうずまいていた。
 「だんなさん! おめでとうございます! 元気な女の子です!」
 喜びとは逆に、「ついに来た! 電話をしなきゃ!」という思いで頭は真っ白。体はコチコチ。妻にお疲れの声をかける間もなく、疲れ果てた妻に目もくれず、一目散に電話に走った。心の中では、「くそう! 電話かけたくない!」と叫んでいた。
 それからの記憶はない。上手く伝えられたのかも、覚えていない。ただ、電話越しで、ありがとう! ありがとう! と妻の父が喜んでいた。
 一大イベントである、妻の出産を終えての感想は、どもりで緊張して困った、ということだ。今でも、妻に悪いと思っている。

〈高橋徹さんのコメント〉
 どもる人でないとわからない心の動きをよく表現している。短い文章だが、内省力や自省力で、論理的に自分の心理をちゃんとつかんでいる。

《優秀賞作品》
      今、思う事
                 島田多恵子(生命保険会社代理店51歳)

 「普通やん。どもりって分かれへんわ」
 「大丈夫。大丈夫」
 よく言われるセリフです。これがおかしいねん、と最近分かってきました。以前はそう言われると安心したものです。そりゃそうです。どもらないようにがんばって、出にくい言葉は言い換えて、それでも、どもりそうになると言わない、諦める。そして調子がよくスムーズに出るタイミングが見つかった時に、言う。そうしてきました。
 だから、人からみたらどもってない、”普通”にみえるのですが、私にとってそれでいいのかと自分に問いかけるのです。
 人間って頭で理解していても、身体の底から理解し実行するのは実に難しいと、どもりから学びました。大阪吃音教室に参加して、「そうや。どもっていいんや。どもりを受け入れるんや」と、その時はすぐにそんな気分になれるのですが、実社会に戻ると、又ヘナヘナとなります。何度も何度も、繰り返し。そして、少しずつ、どもりと寄り添っていけたら、と思います。どもりを受け入れ、楽にどもる。訓練法は自分で工夫し、実行し、成功し、失敗しの繰り返しで見つけていけるものだと思います。こんな図々しい私でも、公表せずにどもってみるのは少々勇気がいります。
 「何でやろ?」と考えてみました。さっきまでスムーズにしゃべっていて、いきなりどもり始めると相手がびっくりします。相手がどうしていいか分からなかったり、相手を困らせるとあかんと思って、どもれないのと違うかな。だから、人に分からないどもりの方がしんどいと思うのです。なら「どもりまくれば?」と言われそうですが、悲しいかなその勇気がない。もう(まだ?)大阪吃音教室に参加して5年。こんなにリラックス出来るのは教室に参加し、心が解きほぐされてきたからでしょう。大阪吃音教室を知る前から私は、言葉ではうまく表せなかったけれど、イメージ的にはそういう考え方でした。でも、がんばって、がんばってそう生きて来たのですが、吃音教室に来て、がんばらずに受け止める事が出来ました。表面的には同じでも、根本的に全く違います。私は今、楽です。やっと、やっと、少しずつどもれるように(難発から連発)なりました。無知な人は私のどもりが悪化した、と思うはずです。特にどもりを全面的に否定している実家の家族は。
 2、3か月前の出来事です。地下鉄の定期を買おうと天王寺駅に行きました。だいたい自販機のそばに定期売場があるのですが、ありません。人との待ち合わせの時間が迫っていて、闇雲に探してる暇はありません。久しぶりに困りました。”定期売場”を誰かに聞かなければいけないのに、”テ”が出そうにないのが分かるからです。”定期売場”を何て言い換えるか思いつきません。”地下鉄の”を頭に付けようか。ああ”チ”もだめ。時間がない。今日しか買う日はないし。
 数秒の間にこれ位の事が頭の中をよぎりました。短時間にいろんな事が考えられるものです。そして、「そや、どもってみよ」と思いました。こんな気持ちで対面してくれる第一人目はどんな人やろ、と興味津々になって、改札に向かって行きました。不思議と心穏やかでした。取りあえず「すみません」と言うと、運良く、目の前のおねえさんは優しく次の言葉を待っていてくれてます。私は出るがままに「テ・テ・テ…」心の中ではいつまで”テ”が続くんやろ、と思いながらそれも楽しんでいました。「テ・テ・テ…定期売場はどこですか」。「やったあ」。公表せず、見ず知らずの人にどもれました。
 わざとどもると「テ・テ・テ・定期」と3回位で言えるのですが、これも調子のいい時、出来るワザです。こんな心穏やかに、そして自然にどもれる。やっと出来ました。まだ最初の第一歩ですが、どんな事も1回すると2回、3回と出来るようになるものです。
 ですが”どもり”は厄介な奴で大波小波があり、調子のいい日が続く場合があります。そうなるとまた忘れてしまう。あせらず、あわてず一進一退しながら、どもりを心から認めてゆけたら、まず私達がそうしてゆけたら「普通にしゃべれるやん」ではなく、どもりの私達がどもりながら、しゃべっているのを普通に待ってくれるんではないでしょうか。
 どもりやから、どもるのが当たり前なのに、今の段階で100%どもってみるのは、精神的にもしんどいです。そして時には、どもらないようにしゃべりたい時もあります。”どもり”はいろんな形を変えてくるので、私達も試行錯誤しながら”進化するどもり”を楽しめたらいいなと思います。いつの日か、どもりが普通にどもれる時が来るといいですね。どもらない人は、どもりを完壁に理解する事は出来ないでしょう。男が女を、女が男を理解するのが難しいように。
 なのでお互いに”思いやり”が必要なんだと思います。私達はいろんな思いをして来ました、乗り越えて来ました、逃げもして来ました。ですから私達の方が少し強いように思うので、私達が余裕を持って大きな心で受け止めていけたらと思います。まず、私達どもる人間が変わりましょう。

〈高橋徹さんのコメント〉
 自分の心の中の考え方を、観念的な言葉でごまかさず、具体的に書かれている。どもる人間の発言として、読者に強く響いてくる文章である。この作品のように、出だしの文章を鍵カッコでくくる形にすると出だしが書きやすくなる。
(「スタタリング・ナウ」 2003.4.19 NO.104)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/14

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