鴻上尚史さんとの出会い
さまざまなジャンルの第一人者をお呼びして、ワークショップ形式の2泊3日の合宿で学んできた吃音ショートコース。たくさんの方がゲストとして来てくださいました。そして、その多くの人が、吃音ショートコースの場を、温かくて居心地のいい場所だった、いい聞き手がいてくれて話しやすかった、などと言ってくださいました。
今日、紹介する劇作家・演出家の鴻上尚史さんもそのおひとりで、僕たちのワークショップをしていて、幸福だなあと感じられたそうです。そして、幸福な時間として、『ドン・キホーテのピアス』の8巻、『ドン・キホーテは眠らない』のあとがきの全てを使って、私たちとの出会いを書いて下さいました。「週刊スパ」のエッセーで、吃音ショートコースに参加して感じたことを4週連続で書いても、まだ足りないと書いて下さったものです。ここまで深い所まで、考えていて下さったのかと、読みながら、とてもうれしかったです。これまで吃音と無縁だった人々が関心を持って下さるきっかけとなることでしょう。
『ドン・キホーテのピアス』の8巻、『ドン・キホーテは眠らない』のあとがきを紹介します。
あとがきにかえて
鴻上尚史
ワークショップをやっていて、ふと、幸福だなあと思う瞬間があります。
2002年の秋、ぼくは、日本吃音臨床研究会という団体が主催する合宿に、ワークショップをするために招かれました。
「吃音」とは、平たい言葉でいうと、「どもり」ということです。代表の伊藤伸二さんは、「吃音ではなく、どもりと言って欲しい」と、軽くどもりながらおっしゃいます。「吃音」という言い方だけしかなくなったら、自分たちどもりの存在が否定されてしまうような気がするとおっしゃるのです。
「ドン・キホーテ」シリーズでも、一度、伊藤さんのことは書きました。(「ドン・キホーテのキッス」参照)
合宿の参加者は、ほとんどの人が、どもりの人でした。伊藤さんは、「どもりに悩むのではなく、どもりである自分を受け入れて、そして、表現を楽しもう」という狙いで、ぼくのワークショップを希望されたのです。
ぼくはいろんなところでワークショップをしています。もちろん、時間がなくて、ほとんどの依頼は断るしかないのですが、それでも、なるべくいろんな人と出会おうとしています。未知な人と出会うことは、なにか、面白いことが待っているんじゃないかと思えるからです。
が、どもる人のワークショップは初めてでした。
そもそも、どもりは、隠された障害になりがちです。どもる人は、笑われ、傷つくことを恐れて、なかなか、人前で喋らなくなるのです。
そして、そうなると、どもらない人は、どもる瞬間に出会うことが少なくなり、たまに出会うと、ただそれだけで、反射的に笑ったりしてしまうのです。
そして、悪循環が始まります。どもる人は、笑われたから、ますます人前に出なくなり、どもらない人は、ますますどもる瞬間に出会わなくなる。
自分の今までのワークショップを思い出しても、激しくどもってレッスンが進まなくなった、という経験はありませんでした。どもる人は、予期不安という「どもったらどうしよう。今は大丈夫でも、いつどもるかもしれない」という不安に捕らわれて、なかなかそういう場に参加しないんだと、伊藤さんは教えてくれました。
一体、どんなワークショップになるんだろうと思いながら、「ま、なんとかなるだろう」と思うのも、いつもの僕のことで、合宿会場の滋賀県草津の会場に向かいました。
琵琶湖近く、JRの草津駅に降り、タクシーに乗り込み、「お客さん、遠くからですか?」と運転手さんに話しかけられ、「あの、草津って、温泉があるんですか?」と素朴に聞けば、「あんさん、それは、群馬県でしょうが。ここは、滋賀県で温泉なんかあらしまへんで」と軽く突き放され、「そうでしたか」と答えれば「それでもね、1年に二人ぐらい、群馬の草津と勘違いした人が来ますわ。旅館の名前言ってね。そりゃ、あんた、遠すぎますわって答えます」と運転手さんは、楽しそうに答えました。
会場に着いてみれば、参加者は60人ほど。7割近くがどもる人で、残りが教師・教育関係者の方でした。
さて、ぼちぼち始めますか、と体をほぐしながら、様子をうかがいました。
中年の男女は楽しそうな顔をしていますが、二十代の男女は、みるからに緊張しています。
自分がなるべく発言しないようにしようと、身構えている雰囲気が伝わってきます。
伊藤さんは、事前に、「年齢を重ねてくれば、だんだん自分の吃音とつきあい、受け入れられるようになりますが、思春期の男女は、それはもう、苦悩します。恥ずかしくて、こういう合宿に出るだけでも、大変な勇気が必要なんです」と教えてくれました。
さて、じゃあ、軽くゲームから始めますか、と呼びかけてから、慎重に、特定の言葉がキーワードにならないようにゲームを進行し始めました。
特定の言葉、たとえば「ストップ」が、ゲームのキーワードの場合、スがどもる人は、なかなか、気軽に参加できなくなるわけです。その場合、「とまれ」「待て」「フリーズ」「ちょっと!」などの言い換えの可能性を、さりげなく提示してゲームを始めました。
もっとも、これは、それが正解というわけではなく、僕が勝手に思ったことです。みんな、だんだん楽しそうになってきたので、「椅子取りゲーム」をすることにしました。
円形に椅子に座って、一人が真ん中で何かを言って、該当する人が立ち上がって、別な椅子に移動するという、みんなが知っている「椅子取りゲーム」です。
僕がやる「椅子取りゲーム」は、真ん中で言う時に、「自分に該当することだけ言う」というルールがあります。つまり、「朝、朝食を食べなかった人」と言えるのは、実際に「朝、朝食を食べなかった人」だけで、「盲腸の手術をしたことがある人」と真ん中で言えるのは、実際に「盲腸の手術をしたことがある人」だけということです。楽しくゲームをしながら、自己紹介と仲間作りも兼ねてしまおうというルールです。
だって、「ラーメンがものすごく好きな人」と言って何人かが立ち上がったら、それを言った人も立ち上がった人も「ラーメン大好き」ということになりますから、後々、「おいしいお店を知ってる?」と会話が始まる可能性があるのです。
僕は、「これなら、言葉を選べるから、どもる人も楽しめるんじゃないか?」と思って始めたのです。が、最初の人から、いきなり、どもり始めました。
「き、き、き、き、き、きのうのよ、よ、よ夜、お酒をの、の、の、の、」
僕は、一瞬、しまったと思いました。
ワークショップにおける最初のゲームの意味は、雰囲気作りです。「表現」のレッスンの前に、楽しく、リラックスした環境を作ることが最初のゲームの役割です。これが成功したら、ワークショップの5割は成功したと言っても過言ではないのです。
が、最初で、いきなり、どもる状況を与えてしまった、さてどうしようと、僕は思いました。
が、顔を真っ赤にして、どもっているその若者に対して、椅子に座った人たちから、すぐに「どうした!」とか、「分かんないぞ!」とか「なんだって!」とかの声が飛んだのです。
言葉にすると、責めているようですが、そうではなく、それは、例えば、結婚パーティで、感謝の言葉を言おうとして、緊張してとっちらかってしまった新郎に対して、悪友達が、笑いながら「なんだって!」「どうした!」と突っ込む匂いと同じものでした。突っ込みの言葉が跳ぶたびに、軽い笑いが起こり、どもっている人は、苦笑いしながら、言葉を続けました。
「の、の、の、飲んだ人!」
と叫んで、どもった人は楽しそうに椅子に向かって走っていきました。苦笑いは、決して卑屈な笑いではありませんでした。どもる自分に対して、しょうがないなあという突っ込みの笑いでした。
次に真ん中に立った若い女性は、いきなり、「ど、ど、ど、ど、ど、ど、ど、どもりの人!」と叫びました。そして、いっせいに、うわっとみんな、腰を上げました。
僕は、圧倒されていました。
真ん中に立つ人は、軽くどもったり、顔を真っ赤にしてどもったり、体全体をくねらせてどもったりしながら、次々といろんなことを言いました。
それは、あったかい「椅子取りゲーム」でした。
真ん中で言葉をだすことを楽しみ、楽しんでいる人を楽しみ、その言葉の内容を楽しみ、出した言葉に敏感に反応する、かつて経験したことのない、「椅子取りゲーム」でした。みんなが、真ん中でどもりながら話している人の言葉に集中しているのが分かりました。真ん中でどもっている人は、言葉を出すことを楽しんでいるのが分かりました。
こんなあったかい「椅子取りゲーム」を僕は初めて経験しました。体に幸福な気持ちが漂ってくるのが分かりました。このまま、この幸福な時間を大切にしたいと感じました。
が、僕は、ワークショップ・リーダーで、「表現」とはどういうことかを伝えにきたと思って、「椅子取りゲーム」を終わらせました。幸福な時間は終わり、好奇心に満ちた時間が始まりました。
後から、伊藤さんにお聞きした所、ふだん、どもっている若い男女が、こんなふうに大きな声で、堂々とどもって叫ぶのは、めったにないことだとおっしゃいました。
みんなどもっているから、自分もどもれると思ったのでしょうと、伊藤さんはおっしゃいました。仲間がいる、自分と同じことで苦悩している仲間がいる、そして、大きな声でどもってもいいから話せる、それが、「椅子取りゲーム」の幸福感の正体のようでした。
「表現」のレッスンをしながらも、僕は、幸福な時間の余韻に浸っていました。そして、幸福な現場に立ち会えたことを、本当に幸せに思ったのです。(「スタタリング・ナウ」 2003.4.19 NO.104)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/12