どもる人の豊かな内面の世界 3

 〈人間の後ろが豊かになる〉〈自分の後ろの世界を掘り返す〉〈本質的なことで悩む〉〈自分の内へ閉じこもると、そこにすごく豊かな世界がある〉〈自分たちがもっている豊かな内閉性にもっともっと注目をしていく〉 羽仁進さんからのこれらの言葉は、どもる人の豊かな世界につながります。吃音に悩むだけだった僕の21歳までの人生からは、とても吃音の豊かな世界は見いだせませんでした。今、羽仁さんがこの講演をしてくださった頃の年齢になった今、この言葉が本当に染みてきます。吃音に深刻に悩んでいたときでさえ、悩みながらいろいろと思索をしていました。それが今、とても愛おしく感じられます。吃音を「吃音症」として、「治す・改善する」の立場からはとても見えてこない世界です。吃音の豊かな世界を、仲間とともにみつけ、それを言葉にしていくのが僕たちの役割だろうと思います。
 羽仁進さんが語る吃音の世界、今日が最後です。『スタタリング・ナウ』NO.103(2003.3.21)から紹介します。

《羽仁進が語る》 どもる人の内面の世界 3

人と違う世界
 どもる人が、黙り込んだり、どもったりするのは、自分があるからだと思うんです。人がしゃべってるようなことしかしゃべらない人たちは絶対どもらないと思うんです。人と違うことを考えてるから、それをことばにしようとするから、どもるんじゃないかと、僕はこの頃は思ってるんです。非常に自己弁護的かもしれませんが、割といい自己弁護じゃないか、っていう気がするんです。
 マスコミで仕事してる人はよくグループを作ります。なんとか会、というほどのものではなくても、そのときの傾向みたいなものです。でも、「羽仁さんだけは、若い時から全然そういうのに入ってませんね」といろんな人から言われたことがある。へえーっと思って、考えてみたら、それは、そのことと関係あるんじゃないかと思うんです。人が言ってても、僕は人の悪口を子どもの時から全然言ったことがない。僕に分からないことを言ってる人や、僕に分からないことが書いてある本は山のようにある。僕が全然考えもつかないようなことがこの世の中で95%くらいある。ということは、3,4%しか僕にとっては興味がないことになる。世の中には、すごく興味があることと、すぐ忘れてしまうことしかない。
 世の中は、一人一人の人間の後ろが豊かになって、その豊かな人間性で社会を作ればもう少し良くなることはあると思います。右のものが左になれば良くなるというものではない。社会の仕組みも、この仕組みはこっちにはいいが、あっちには悪と必ずなる。
 例えば、税金の問題でも、ある程度収入の多い人が税金を高く出して社会を支える側に回った方が、理屈には合ってると僕は思うんです。でも、一方で、能力があれば収入が高くてもいい、あまり高い税金はよくないという考え方の人がいる。
 収入が高いということは、能力が高いということだ、というのは非常に大雑把な見方です。世の中は、しょっちゅう変わってるから、運が良くてそれがたまたま才能ととられる場合もすごく多い。収入の少ない人は才能がないのかというと、そうとも限らない。その人の持ってるものが今の世の中で、そんなに高く評価されてないだけなのです。
 どんなに収入のある人も、この社会で長く生きていくわけですから、やっぱり社会をある程度支えていくことをしなきゃいけない。しかし、支え合う社会であっても、人間関係の方に意識が行き過ぎるのも問題で、大体みんなに気に入られる人なんてほとんどいない。

本質的なことで悩む
 今まで、どもりで悩んできたことは、本質的なことじゃないところで悩みすぎたような感じがするんです。そんなところで悩まないで、もっと、自分の後ろの世界を掘り返すことをやってみたらいい。それは自分の悩みを振り返ることになるかもしれないので、初めはちょっと辛いこともあるかもしれないけれど、ある程度、掘っていったら、もうこんな面白い世界はないだろうと思います。
 内に閉じこもることが、一つの症状のようになったりすると、豊かな内閉性もあるんじゃないか。自分の内へ閉じこもることは、外に対して閉じるわけで、そこにすごく豊かな世界があると僕は思う。どもりは自分たちがもっている、豊かな内閉性にもっともっと注目をしていくべきなのではないか。21世紀のどもりは、その豊かな内閉性を自分で発見していく方向で始めていってほしいと思っています。
 僕は、人間の社会がそんなにうまくいっているかどうかは分かりませんが、人間の社会の中に、これだけどもりの人がいることは、やっぱり社会にとってどもりの人の存在がすごく意味があることなんじゃないかと思うんです。
 古代ギリシャ時代からすでにどもっていた人がたくさんいる。思想家なんかがどもりながら話をすると、途中で話が止まるけれど、みんな「うーん」と聞いた。どもりが非常に内閉的な世界を開きやすいということでしょう。そこからみんなが得るものがある。
 だから、どもりが存在することは、どもりだけの問題じゃなくて、実は社会にとって非常にいい可能性のあることなんです。
 僕は、21世紀はどもりが社会に受け入れてもらおうなんて努力する必要は全くないんではないか、と思っています。そんなことよりも、どもらない人たちこそが分かれ!と言いたい。ほんと、そういうことを思うんです。(『スタタリング・ナウ』NO.103 2003.3.21)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/07

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