吃音の理解

 吃音の理解。今、吃音についてメディアが語るとき、このことばが一番使われているような気がします。僕が、新聞やテレビに出ていたときは、「吃音と共に豊かに生きる」がテーマになっていました。ウェンデル・ジョンソンの言語関係図の3方向からのアプローチを考えたとき、X軸(吃音の状態)へのアプローチは難しく、吃音治療法が話題になることは少なくなりました。残ったのが、Y軸(聞き手の反応・環境)、Z軸(本人の受け止め方)です。僕たちは、Z軸(本人の受け止め方)こそが、自分の力だけで取り組めるもの、吃音を僕たち自身の生き方の問題として取り組んできました。ところが最近は、周りの環境の問題だとして、吃音を理解してほしいという大きな流れができてしまいました。吃音の問題は、周りの「吃音理解」の問題だということなのでしょうが、どう理解してほしいのかの検討が抜けているように僕には思えます。
 声高に理解を叫ぶのではなく、目の前の人に、自分のことばで、自分の吃音を話していく大切さを思います。「スタタリング・ナウ」NO.103(2003.3.21)の巻頭言を紹介します。大阪市の人権映画「ラストからはじまる」の映画つくりに関わったときのこと、なつかしく思い出しました。

  吃音の理解
                  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「吃音で悩んできた私たちは、吃音をどのように理解してほしいのだろうか?」
 この冬、大阪市住吉区で開かれた4週連続の市民講座、「吃音と上手につきあうための講座」で、ウェンデル・ジョンソンの言語関係図を説明し、XYZ軸それぞれのアプローチについて、参加者と検討していったとき、Y軸の聞き手の態度のところで議論になった。
 一般的に、理解がないと言う場合、どもる人の悩みや苦しみを知ってほしい場合が多いようだ。そこで、「つらさを分かってもらってそれでいいのか。どうしてほしいのか」と話し合いは続いた。
 15名ほどが参加した市民講座で、ひとりの母親が、「どもっていると、子どもがとてもかわいそうで、なんとか治してやりたい」と涙ぐんだ。その姿を見ていた成人のどもる人が、「治してあげないとかわいそうだ、とあまり言われると、治らずに40歳を過ぎた私は、あのお母さんからすれば哀れな存在なのですね」と、帰りの道すがら、複雑な思いを語った。どもる人本人や、親の「治したい・治してあげたい」との自然な思いが、現実にどもっている人をおとしめていることになるとは思いもよらないことだろう。
 「吃音は苦しくて、大変なものなんだ」と強調することは、「治さなければ」に通じる。吃音のマイナス面だけを知ることが、どもる人にとってしてほしい理解になるのだろうか。
 大阪市は、「さまざまな人権問題を考え、解決の道筋を探る」をテーマに、演劇ストーリーを募集して、劇として上演したり、映画化してテレビ放映をしている。10回目となる、2002年度の入賞作品は、どもる少年が主人公の「ベストショット」で、その原作の映画化がすすめられていた。
 昨年の秋、どもる少年をどう描けばいいか相談に乗ってもらえないかと、桂文福さんの紹介で、映画制作のスタッフから依頼があった。
 私は、2000年、ベネチア映画祭で新人賞を獲得した、緒方明監督の映画『独立少年合唱団』をすぐに思い出した。映画そのものはおもしろかったが、吃音という視点からだけ見ると、大きな不満があった。実際に緒方監督との対談で直接その不満をぶつけたとき、吃音について深く知れば、映画が吃音に負けてしまうから、吃音について調査をしなかったと言われた。映画の試写とシネマトークに参加したどもる子どもの母親が、吃音についての基本的な部分での無知からくる描写に、強い怒りをぶつけていた。
 当事者の思いと、制作者の思いの違いは仕方がないと、母親をなだめる側にまわったのだが、釈然としない思いは私にも残っていた。表現者としては、ある事柄を描くとき、ある程度の学習と、当事者への想像力や共感、謙虚さは常に意識してもらいたいと思ったのだった。
 そのような経験をしているので、私の吃音に関する書籍を読み、大阪吃音教室にも参加してどもる人の生の声を聞いて理解しようとする制作スタッフの姿勢がとてもありがたかった。シナリオの原案の状態から、スタッフのように意見を求めて下さり、少年が国語の朗読の時間にどもる重要なシーンの、中学校でのロケ現場にも立ち会わせてもらった。
 できあがった「ラストからはじまる」の完成試写会で、吃音指導をした私を紹介して下さった。
 最初の段階から、映画作りに少し加われたことは、とてもありがたいことだった。吃音が、「つらくてかわいそうなもの」としてではなく、だからといって軽いものではなく、等身大に吃音が描かれ、さわやかな、くさみのない、人権映画として完成した。
 それが、田中監督が書いて下さったように、「吃音はおもしろいですよ」と言った私との出会いが、多少なりとも関係しているとすれば、こんなうれしいことはない。
 吃音の悩みや苦しみは、21歳まで孤独で本当に深刻に悩んできた私には、いくらでも言うことができる。しかし、かわいそうで、みじめなものとして、どうしても治さなければならないものだと吃音を理解することが、どもる子どもや親にとっての生きやすい社会につながるだろうか。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/04

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