私と『スタタリング・ナウ』(11)
『スタタリング・ナウ』100号記念特集に寄せてくださった多くの方々からのメッセージに励まされながら、紹介を続けてきました。いよいよ、今日で最後です。
フクチッチを見たという方からのレスポンスもたくさんありました。三重県津市の小中高校時代の同級生のひとりから電話がありました。同窓会の幹事をしている彼は、たくさんの同級生と知り合いです。僕が全く覚えていない人にも連絡してくれたようです。「君のどもりやけどな、小学校のときの同級生は、みんな覚えている。でも、中学校、高校となると、伊藤がどもっていた? そうやったかなあと言っているわ。中学校や高校では、あんまりしゃべらんかったのかなあ」と言われました。そのとおりです。小学校2年生の秋まではどもっていても平気で音読も発表もしていたし、秋から悩み出したけれど、まだクラスの中で話していたのでしょう。でも、中学、高校では逃げの生活となり、おそらくあまり話さなかったから、みんな覚えていないのかもしれません。改めて、寂しい、悔しい学童期だったなあと思います。でも、たっぷり悩んだおかげで、今は、吃音とともに幸せに生きています。
2003年1月18日発行の『スタタリング・ナウ』101号から紹介します。最後は、長く共に活動している大阪吃音教室の会長、東野晃之さんからのメッセージです。
ゴールのない活動を共に
東野晃之 NPO法人大阪スタタリングプロジェクト会長
『スタタリング・ナウ』の100号発行は、ただただ嬉しい。日本吃音臨床研究会の設立にも加わり、中心となって動く伊藤さんとその仲間の目に見えない苦労と日々の努力を間近で感じ、その遠い道のりを知っているだけに、私には「嬉しい」に代わるふさわしい、他のことばは見つからない。
どもりは、自分勝手である。悩める人が持つ、自己中心的な側面がどもりにはある。どもりは、人を恐れ、不本意な人間関係に嘆き、どもる人生を憂いながらも、それらに見合うだけの努力をし続けることはあまりない。どもりをひた隠し、逃げてきた自分をふり返り、向き合うのは、辛く厳しいからである。どもりを否定し、自分を否定する心には、いつしか、どもりの悩みは一人前の人間の悩みではないと、悩みそのものも否定する気持ちが宿る。一人前でないどもりの悩みは、やはり、一人前の人間の堂々とした悩みに比べれば、卑屈で人前に出すのも恥ずかしい、小さな悩みだと、自分に言い聞かせ、思い込み、あきらめていく。
デモステネスの時代から続くどもりの悩みは、治る、治らないの繰り返しとその姿を真剣に見てこなかった、どもりの軽薄さによって、その本当の姿を世間に知らしめる機会を失ってきた。
『スタタリング・ナウ』は、唯一の定期刊行の吃音情報誌として、「どもりは、一人前の人間の堂々とした悩みである」、というメッセージを創刊から常に読者に送り続けてきた。どもる人間そのものに焦点を当てた紙面は、どもる人が自分と向き合うための勇気と力を与えてくれる。
これまでに出版された年報をはじめとする書籍の数々は、怠惰などもりに、もう一度立ち止まり、自分自身を見つめ直す機会を与えてくれる。
『スタタリング・ナウ』の発行をはじめ、日本吃音臨床研究会の活動は、私たちのセルフヘルプグループと同様、ゴールの見えない取り組みである。
これからも、どもる人間の喜怒哀楽を共に見つめ、多くの出会いに喜び、今を楽しく生きるために共に活動をして行けたらと、思うのである。
【日本吃音臨床研究会の設立を支えてくれた大阪の素晴らしい多くの仲間たち。その中心に常にいる東野さんにどれだけ助けられたことか。この機会に感謝】
―編集後記―
100号記念にとお願いしたメッセージ、たくさんお寄せいただいたので、今号は『スタタリング・ナウ』編集初の増ページ、12ページ仕立てとなりました。大きな力をいただき、幸せな気持ちでいっぱいです。(『スタタリング・ナウ』2003年1月18日 NO.101)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2024/02/03