野垂れ死にの思想
根拠なく、63歳で死ぬと思っていた僕は、今、82歳。金沢の香林坊で、野垂れ死にすることなく、ここまで生きてきました。
たくさんの人との出会いがありました。支えてくれた人、励ましてくれた人、その多くの人への感謝の気持ちを持って、残りの人生を生きていきたいと思っています。
第13回親、教師、言語聴覚士のたるの吃音講習会、第35回吃音親子サマーキャンプなど大きなイベントがあったので、昔の「スタタリング・ナウ」を紹介することがストップしていました。また、再開します。
今日は、「スタタリング・ナウ」」2018.3.20 NO.283 より、巻頭言を紹介します。
野垂れ死にの思想
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
「君の手相は、〈ますかけ〉が両手にくっきりとあり、別名〈百握りの相〉〈天下取りの相〉ともいい、波乱万丈で浮き沈みの激しい人生になる。
大きな成功を収めるか、野垂れ死にするかのどっちかで、平凡な人生は送れないだろう」
私は四柱推命や手相、星占いなどの運命判断に一切興味はなく、信じてもいない。しかし、小学4年生のころ、姉に強引につきあわされて行った、当たると評判だった八卦占い師に言われた「野垂れ死に」のことばは、私の人生に少なからず影響を与えたことは間違いない。
小学2年生の秋の学芸会で、セリフのある役から外されたことで、元気を失い、勉強も遊びもせず、仲間の輪の中にも入らず、私は孤独な世界を生きた。吃音に深く悩み、将来の夢など全く考えられなかった頃に、このように言われたのだ。
「勉強もできない、何の能力もない、友だちもいない僕が、人生で成功するはずがない。僕は野垂れ死にする運命にあるのだ」と、私の中にひとつの物語ができてしまった。
子どものころから、怖い夢をよく見ていたが、断崖絶壁に立ちすくんでいたり、山道で、水がどんどん追いかけてくる夢を何度も見るようになった。苦しく、不本意な学童期・思春期を送る中で、「野垂れ死に」は現実を帯びてきた。吃音とは関係のない、手相をもとに言われた運命だが、そこから逃れるためには、「どもりを治す」以外にはないと、どもりが治ることばかりを夢見ていた。
大学4年生の時、総費用8万円で北海道礼文島から、当時の日本の最南端の与論島までの90日間の日本一周の無銭旅行に近いひとり旅をした。スリーピングバッグで、駅の構内や人の住んでいない寺などに寝泊まりすることもあり、ヒッチハイクでの移動も少なくなかった。大勢の人と親しく交わり、多くの人の親切、助けがなければできなかったひとり旅だ。吃音に悩んでいた時は、誰も私を理解してくれないと、他者不信に陥っていた。
しかし、私はこの旅の中で、社会は安全で、人は信頼できるということを実感した。その他多くのことを学んだことは、これから生きていく上での大きな自信となった。特別にうれしかったのは「野垂れ死に」への物語が変わったことだ。
旅も後半にさしかかった、金沢市の繁華街・香林坊の路地裏に来たとき、「ここだ、僕が野垂れ死にするところは」と思った。度々、夢に出てきた行き倒れている場所に雰囲気がそっくりだったからだ。自分の墓をみつけたような安心感が広がり、未来が明るくなったような気持ちになった。
「平凡には生きられず、最後は野垂れ死にする命なら、それまで、思い切って自由に、自分のしたいことをして精一杯生きよう。その上で、野垂れ死するのなら、それも悪くない」
この考えは、私にはマイナスとはならなかった。
常に最悪のことを考える習慣がついたことだ。人生の転機に立ったとき、何か大きな勝負、賭けに出るとき、最悪の場合はどうなるかを考えた。たとえ、最悪になったとしても大丈夫という、楽観的な見方ができるようになっていたのだ。
どもる人のセルフヘルプグループ言友会で、自分たちの事務所が欲しいとの話が持ち上がった時、全く資金がない中で、事務所を作ることを決めた。
仲間とアルバイトや街頭募金などで資金を集め、足りない分を、全国障害者問題研究会に呼びかけて、共同で事務所を作った。また、1986年夏の第一回吃音問題研究国際大会は、全国の運営委員全員が賛成しない中で、最悪の事態は借金ができるだけのことだと、強引に押し切った。2,000万円の総費用を使っての国際大会は大成功を収めた。
また、私的には、国家公務員である国立大学の教員を辞めてカレー専門店のオーナーシェフになる時、周りが反対する中で、自分の意思を通した。
根拠なく63歳で死ぬと思っていた私は、今年、74歳になる。野垂れ死にする根拠となった「吃音」が、生きる上での最高のテーマになったおかげで、たくさんの人との良い出会い、多くの運にも恵まれた。平凡ではなかった人生を、楽しく今も生きているのは、奇跡に近いのかもしれない。
吃音にはいくら感謝しても、し足りないのだ。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/09/10

