行動は、自分のもの 自分で決められる

 過去と他人は変えられない。まさにそのとおりだと思います。今日、紹介する巻頭言は、「スタタリング・ナウ」2018.2.20 NO.282 のものです。

  行動は、自分のもの 自分で決められる
                    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 私は質問を受けるのが大好きだ。質問をしてもらうと、私の脳は喜び、普段より活性化するようだ。「吃音Q&A」と題した大阪吃音教室は、参加者の前で質問に答えてそれを撮影し、映像として公開するプロジェクトだ。予期不安への質問に答えている時、久しぶりに「吃音を治す努力の否定」について、提起した45年前を思い出しながら話していた。どうして当時、あの提起をしたのか。
 言友会を創立して5年目、いくら治す努力をしても治らない現実に、吃音は、努力によって治せるものではないのではないかと思い始めた。また、アメリ力言語病理学を学ぶ機会も増え、吃音は原因が解明できず、1903年に伊沢修二が始めた楽石社の「ゆっくり、やわらかく」話すことを身につけること以外、治療法がない現実も知るにつれ、「吃音を治す・改善する」に決別する時期に来ていると考えたのだ。それは、セルフヘルプグループの活動を通して、多くの人が明るく、積極的になり、これまであきらめていた話すことの多い、営業職や教師などの仕事に方向転換するなど、生き方そのものにまで大きな変化が現れてきたからだ。
 吃音が治らず、改善されずとも、吃音と共に豊かに生きる人々がセルフヘルプグループの活動の中で大勢育っていった。一方、初参加の人たちの中には、「吃音が治る・改善できる」ことへの夢を捨てきれず、いつまでも吃音の改善にこだわる人も少なくなかった。吃音を治す思いが断ち切れず、実際に吃音を治す努力を続けても、その人が、その人の希望する仕事に就き、その人なりの楽しい人生を生きていれば、それは何の問題もないことだろう。しかし、吃音を否定し、「吃音を治す」にこだわる人たちの多くは、「どもりさえなければこんな人生ではなかった」などと、どもることを嘆き、自分の人生を楽しく、精一杯に生きているようには、私には思えなかった。
 そもそも、楽しく、豊かに自分なりの人生を生きていれば、改善することにこだわらないし、見通しのない吃音を治すための努力に時間を割くことをもったいないと思うだろう。
 かつて吃音を否定し、治す、改善するにこだわって、自分の人生を危うくした経験をもつ私たちは、できれば、吃音を治すことにこだわる人たちが、治らない現実に向き合い、吃音を認めて生きる道筋に立ってほしいと願った。吃音が治るという、これまでほとんどの人が失敗してきた未知の世界の話ではなく、吃音を認めて生きるは、私たちの多くが歩んできた、実証済みの道だからだ。
 しかし、どもることへの不安や恐れの感情は、自分の意思や努力で消し去ろう、和らげようとしても、なかなかできるものではない。また、吃音を否定的に考えず、どもることを認めることの難しさも、体験的に私たちは知っている。どこかでまだ「もう少し努力すれば治るんじゃないかな」との思いを捨て切れないからだ。治そう、治したいという思いを捨て、吃音と共に生きる道筋に立つには、「治そう」とする行動そのものをやめるしかない。「吃音を治す努力の否定」という提案をしたのは、「治したい思い」を捨て去るのは難しいけれど、どもりを治そうとする行動そのものはやめることはできると考えたからだ。発声練習や音読練習など一切考えず、治す努力も一切しない。それでいくしかないと思った。
 「ゆっくり、やわらかく声を出す」などの言語訓練は、本当に効果があるのかと疑いながら、してきたもので、私たちは楽しくなかったが、訓練することで吃音を治したいとの思いは膨らんだ。その吃音を治す努力をやめることは難しいことではない。治す努力の代わりに、自分が何をしたいか、今、この時に何をすべきかに努力の方向を向ける方が楽しく、より建設的だ。
 長い時間をかけて、けんけんがくがく議論していた45年前を懐かしく思い出していた。吃音を認めて生きることで、免疫力といっていいのか、自己変化力が高まった。不思議なことに、「治そう」としていた時には変わらなかった吃音が、どもりながら積極的に話すことで変わってきたのも、45年で、実証済みのことなのだ。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/07/29

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