ありのままに「今ここ」を生きる~行逢(いちゃ)りば、兄弟(ちょーでー)(周りは仲間)~ 2

 昨日の続きです。比嘉さんが、仲間と共に、精力的に活動されている様子がよく分かります。
それまでの、孤独感、対人恐怖、将来への不安が一気に解消するほど、楽しい毎日だったということでしょう。僕も、言友会を作った直後、毎日がお祭りのようだったこと、鮮明に覚えています。

ありのままに「今ここ」を生きる 2
        ~行逢(いちゃ)りば、兄弟(ちょーでー)(周りは仲間)~
                            比嘉義裕(元ろう学校教員)

大学でどもりのサークル活動―「吃音肯定」の物語へ―

 吃音に時間をかけて取り組むといっても、私一人ではとてもできない。浜本さんの講習会、「改伸学院」で知り合った学生たちと、琉球大学の中に、「琉大どもり研究会」というサークルを作った。大学の教室やキャンパスを利用して、浜本さんたちから学んだ、発声練習、3分間スピーチや実地訓練で他人に道を尋ねたりした。
 同じようにどもる吃音の仲間ができたことは私にとって、大きな転機となった。大学受験の浪人時代の孤独感、対人恐怖、将来への不安は、一気に解消された。私は活動に夢中になった。大学の教室やキャンパスで集まることに不自由を感じ始めていた私たちは、気兼ねなく集まれる場所がほしくなった。
 ある時、サークル仲間の親戚の家が取り壊されることになり、その廃材をもらうことができた。その廃材を利用し、大学構内にサークル室を自分たちの手でつくろうと、約1週間で建ててしまった。春休みの出来事で、大学側は無断で構内に小屋を建てたことに仰天して、私たちは強く叱られた。しかし、幸いなことに建てたサークル室はそのまま認めてもらえた。玄関と広さ8畳ほどの一部屋で、「琉大どもり研究会」と看板を掲げ、そこが活動の拠点となった。大学が現在の首里城公園にあった頃で、サークル室は守礼の門から右手50mの所にあった。

「琉大どもり研究会」のサークル室

 サークル室を活動の拠点として、吃音矯正活動、夏季合宿、観月会、キリスト教短期大学や沖縄女子短期大学の児童文化サークルとの交歓会、資金造成のためのダンスパーティなどの行事を行った。吃音矯正といいながら、発声練習だけでなく、仲間との親睦を深めながらも、どもりに負けない強い人間形成をめざして会の活動に取り組んだ。
 やがて、どもる人のセルフヘルプグループ、東京言友会や全国組織の全国言友会連絡協議会(略称:全言連)があることを知り、そのグループに加わることにして、琉大どもり研究会から琉大言友会へと名称を変えた。
 全言連の発行していた吃音専門雑誌『ことばのりずむ』を定期購読し、サークル室で学習会を行った。全言連も、私たちと同じように最初は「吃音を治す・改善する」に取り組んでいたが、吃音が治らない現実に向き合い、「吃音とつきあう」に変わり、『吃音者宣言』の、吃音を持ったまま、吃音から逃げず、吃音を言い訳にせず、自分のやりたいことを積極的に行動に移していこうという考え方に変わっていった。その動きの変遷が丁寧に書かれていた『ことばのりずむ』は、私たちの格好の教科書になり、時には酒を飲みながら激論を戦わせた。また、ある時は大学の心理学の教授と吃音について話し合いを持ったりもした。
 私たちは、全国の仲間と歩みをあわせるように、変わっていったが、一人の先輩は、「どもりは悪いもので、あくまでもどもりは治すべきだ」と主張して、どもって話す私たちをいつも非難していた。その彼は、60歳をはるかに過ぎた現在でも、「どもりは悪いもの、治すべきもの」という考えを全く変えていない、「琉大どもり研究会」の仲間の中で、唯一の人間である。
 しかし、彼の強い「吃音を治す、改善する」の強い意欲にも拘わらず、彼の連発性の吃音症状は未だに治っていない。私たちの仲間の吃音も、誰一人治っていない。しかし、吃音である自分を認めることができた私たちは、どもることはもちろんあるが、吃音から来る悩みは解消していった。
 大学に入学し、同じようにどもる人とサークルを結成し、その後の言友会活動を通して、私は幸運にも「吃音否定」の物語を「吃音肯定」の物語へと、生き方を変えることができたのだ。

琉大言友会から沖縄言友会へ

 1971年の大学祭ではポスターを各地域に貼り、他の大学や高校生・社会人のどもる人も参加して仲間の輪を広げ、沖縄言友会を創立した。
 1972年12月には「すべての吃音者に誇りを、そして積極的に生きる勇気を!」をテーマに沖縄言友会創立一周年記念祭を沖縄県立博物館で開催した。その時のパンフレットによると、後援が沖縄県言語障害児教育研究会、沖縄県言語障害児をもつ親の会となっている。
 プログラムを見ると「マンコロの歌」「輝く明日」(言友会の歌、作曲:佐藤勝)などのコーラス、言友会会員の弁論・寸劇、講演(言語障害児教育研究会、親の会、改伸学院)、パネルディスカッション「吃音対策はいかにあるべきか」などであった。内容についてはほとんど記憶がないが、コーラスの伴奏は交歓会をした沖縄女子短期大学の児童文化サークルが協力してくれたことはよく覚えている。そのうちの一人の女性が、現在の私の妻なのだから覚えているのは当然のことだが。
 言友会の活動を通して、どもりを持ちながらもどもりだからといろんなことから逃げずに積極的に生きることを学んだ。創立一周年記念祭で言語障害、言語障害学級、言語障害治療の養成機関等を調べ、創立祭のパンフレットにも掲載した。
 私はいつしか学校の教育現場でのスピーチセラピストを目指すようになった。まず教師になろうと大学3年の10月、保健学部を退学し、教育学部を受験する決意をした。その時、初めて自分がどもりでずっと悩み、苦しんできたことを、そして、将来はスピーチセラピストを目指していることを両親に話した。医者にしたかった父は当然反対したが、いつも物静かな母が私の好きな道を歩ませたらと後押ししてくれた。母の一言で、父もやっと方向転換を許してくれた。
 私は大学を退学し、琉球大学教育学部初等教育学科を目指して受験生となった。高校の参考書を買い、受験勉強を始めた。わずか4か月程の期間、集中して猛勉強した。高校生たちと一緒に大学を受験し、幸い無事に合格することができた。これまで履修した大学での教養の単位は認められ、3年生からの2年聞を教育学部で過ごした。
 あれだけどもることが嫌で、話すことからも逃げていた私が、小学校や養護学校での教育実習もなんとかこなした。吃音で苦しんでいた頃には、考えられない出来事であった。

大阪教育大特殊教育特別専攻科へ

 大学を卒業後、東京にある言語聴覚士を養成する国立聴力言語障害センターを受験したが、試験は英語などが特に難しく不合格となった。次に大阪教育大学特殊教育特別専攻科を受験し、幸いにも合格し、1974年4月に入学した。
 大学には吃音研究の第一人者で自身もどもる神山五郎教授や、心理学から吃音を研究しておられた内須川洸教授がおられた。何よりも心強かったのは言友会の生みの親、伊藤伸二さんが大阪教育大学の教員で、私たちの専攻科の様々な世話をしてくれたことである。ふたりの吃音研究の第一人者と、言友会の創立者が同時に同じ大学の教官でいるという、吃音に深く悩んできた私にとって、夢のような大学生活が始まった。
 その年の春の甲子園の選抜大会では、徳島県の池田高校が初めて出場し、わずか11名の部員で準優勝した。「さわやかイレブン」「イレブン池田」と話題になった年で、元高校球児の私にとっては思い出深い年でもある。私にとっては特別に意味のある年になったのだ。
 大阪教育大学特殊教育特別専攻科は、ことばの教室を担当するための、内地留学の現職の教員が多数を占めていたが、私のように大学を卒業したばかりの若い生徒も10名ほどいた。石川県や福岡県の出身で、私と同じように言友会活動をしていた、吃音の当事者の森義久さんや増本吉紀さんもいた。専攻科では、吃音の仲間と語り合い、吃音について多くのことを学んだが、吃音以外の興味深い様々なことを学んだ。
 教育実習は、堺ろう学校で、私は椎木さんと1年生を受け持った。ベテランの指導教諭の野村先生の授業はまるで魔法でも見ているかのようだった。ある日、野村先生の自宅に椎木さんと招かれ、タ食をご馳走になり、泊めてもらった。私は野村先生の指導のお蔭でろう学校の免許を取得することができた。以来、野村先生とはずっと年賀状のやり取りをしていたが、2011年に先生の夫(ろう者・デザイナー)から野村先生がお亡くなりになったと訃報が届いた。
 また、伊藤さんに紹介されて、ろう学校中学部3年生の吉田君の家庭教師をしていた。彼が高校生になって一人で沖縄に来た時は、ガラスボートでサンゴを見せた。当時、サンゴは豊富できれいだった。当時、勤務していた沖縄ろう学校の高等部の女生徒とも交流させた。その後彼は、調理師になり結婚した。以来、その彼とも現在まで年賀状のやり取りを続けている。

沖縄に戻って

 1975年3月に大阪教育大学を卒業すると地元の沖縄に戻って、4月沖縄ろう学校に赴任した。
 8月には、沖縄言友会創立 周年記念祭でコーラスで出演してくれた児童文化サークルのひとりと結婚した。言友会とそのサークルで合同結婚祝賀会を催してもらった。言友会の活動をして本当に良かったと心の底から思えた瞬間だった。
 それから2006年3月まで31年間、障害児教育に取り組んだ。その間、言友会からは離れたが、広く教育活動に取り組み、特に吃音で悩むことも、支障をきたすこともなく、充実した教員生活を過ごすことができた。
 言友会の仲間が就職した職種で一番多かったのが、意外なことに教員で、7名いた。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/07/27

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