ありのままに「今ここ」を生きる~行逢(いちゃ)りば、兄弟(ちょーでー)(周りは仲間)~

 沖縄でのどもる子どもたちのキャンプのことが新聞に掲載されたことがきっかけで、僕は、42年ぶりに、比嘉義裕さんと再会しました。大阪教育大学特殊教育特別専攻科で出会って以来の再会でした。話し始めると、42年は一気に縮まり、次から次へと話が尽きることはありませんでした。特別専攻科の同期の人との同窓会に参加したこともあります。
 その比嘉義裕さんに、これまでの歩みをまとめていただけないかとお願いをして、書いて下さったのが、今日から3回に分けてお届けする、《ありのままに「今ここ」を生きる~行逢(いちゃ)りば、兄弟(ちょーでー)(周りは仲間)~》です。
 比嘉さんは、僕のことを「吃音の友だちで、これからも遊びたい友だちなのだ」と言ってくれています。僕も、そっくりそのまま同じことばを返します。(「スタタリング・ナウ」2018.1.21 NO.281 より)

  ありのままに「今ここ」を生きる
        ~行逢(いちゃ)りば、兄弟(ちょーでー)(周りは仲間)~
                            比嘉義裕(元ろう学校教員)

はじめに 42年ぶりの再会

 2016年11月、伊藤伸二さんを講師に迎え、「第1回吃音親子キャンプinおきなわ」が、うるま市の石川青少年の家で催された。沖縄リハビリテーション福祉学院の平良和さん(言語聴覚士、沖縄吃音研究会)が中心となって行った。
 その新聞記事を見て、すぐ新聞社に問い合わせたが、伊藤さんはすでに大阪に戻られていた。懐かしかった。私は、すぐ伊藤さんに自分が今書いている新聞のコラム記事や写真を同封して、手紙を書いた。伊藤さんからも返事があり、何度か電話で話したり、日本吃音臨床研究会のニュースレターを送ってもらうなどつきあいが始まった。
 そして、2017年5月、「第2回吃音親子キャンプinおきなわ」が行われたとき、私は、キャンプが終わる頃にキャンプ会場に行き、伊藤さんと42年振りに再会した。ゆっくりと話したかったので、私の行きつけの喫茶店に行くことにした。キャンプ会場から那覇までの車の中で、その喫茶店で、大阪教育大学の特別専攻科時代の話、その後の私が生きてきた道程、ともに学んだ人たちの動向など、話は尽きなかった。
 特に吃音関係の話では、私が持ってきた、吃音関係の古い資料を見てもらい、話が弾んだ。沖縄言友会創立一周年のプログラムに書かれていたが、私は全く記憶になかった「マンコロの歌」や「輝く明日」の歌を、言友会創立者である伊藤さんは即座に歌ってくれた。「マンコロの歌」は、吃音に悩む一人の青年が言友会に出会うまでの歴史の歌で、聞いていて胸にしみた。知らなかった。
 また、東京言友会5周年記念大会で発表された歌、「輝く明日」の誕生の話は、初めて聞くことでおもしろかった。作曲は、私が好きな黒澤明監督映画の音楽を常に担当していた、映画音楽の第一人者で、映画『若者たち』の歌の作曲家・佐藤勝さんに依頼し、作曲料に10万円もかかったとの話。作詞は、公募し、佐藤勝さんが選んだのが、琉球大学の私たちのサークル室を訪れ、交流したことのある東京言友会の合田義雄さんだと聞いてさらに驚いた。
 私が新聞によく文章を投稿していることもあって、これまでの吃音人生について振り返ってみないかと、伊藤さんが勧めてくれた。吃音とのかかわり、私のこれまでを振り返ることにする。
 第2回の沖縄キャンプに参加した小学2年生が7月4日の地元の新聞に「吃音キャンプの思い出」
として〈みんなと遊べたし、吃音について知ることもできてよかったです。吃音の友だちとまたあそびたいです〉と投稿していた。吃音の友だちとまた遊びたい、まさに私にとって、伊藤さんは吃音の友だちで、これからも遊びたい友だちなのだ。

伸び伸びと過ごす

 私は沖縄県の北部、屋我地島で生まれた。そこには国立ハンセン病療養所沖縄愛楽園があり、父は医介補主事補として勤務していた。私の家族は、その父と名護高校の家庭科教師の母と2歳下の妹の4人で、愛楽園の官舎に住んでいた。その官舎は現在も残っていて、愛楽園の入り口に建っている。5歳の頃まで私はそこで過ごした。
 私は、保育園まで2キロ程の、今思うと結構長い道のりを歩いて通った。帰りは桑畑で桑の実をおやつに食べて、それを摘んで弁当箱に入れて帰った。愛楽園内には小高い丘があって、そこで戦争ごっこをしたり、防空壕に入って遊んだりした。
 幼稚園から小学校の頃は名護の東江で過ごした。名護は美しい山と海に囲まれた風光明媚な土地で、豊かな自然があふれていた。夏になると真青な海で泳ぎ、真赤な美しいタ日が海に沈んでいくのを茫然と眺めた。小学校5年生の時、沖縄タイムス社主催の図画・作文・書道コンクールで作文に応募し、特選を受賞した。
 6年生の夏休みに那覇へ引っ越した。前年にタイムス展の作文で特選を受賞していたので、転校した小学校でも担任からタイムス展の作文を書くように言われた。しかし私はほとんど書けずに困り果て、泣いて父に頼み、父が書いたのを提出した。それが1等賞を受賞してしまった。特選の時も、ほとんど父が書いたのを書き写しただけのように思う。そんな訳で、作文の時間は自分の実力でもないのに特選、1等賞を受賞したという負い目と重圧から、教室では作文が上手く書けずに非常に苦痛だった。
 父からは「君はどもるから、言葉のあまり要らない医者になりなさい」と言われ、野口英世やシュバイツアーの偉人伝を与えられて読んでいた。作文の時間は苦痛だったけれど、吃音についてはほとんど意識することなく、豊かな自然に触れ、伸び伸びと少年時代を過ごした。
 そう自分では記憶していたのに、言友会の活動をするようになったある日、小学生の頃の通知表を見て驚いた。小学4年生の保護者通信欄には、〈静かな生活を送らせ、ドモリを一日も早く治してやりたい〉と父が書いていた。6年生の担任の通信欄には〈少々どもり、いきりたつのが欠点〉と記されていた。親や教師の心配と、本人のどもりに対する意識の大きな違いに驚いた。
 私の人生を振り返ると、小学校の頃はどもりを意識することなく伸び伸びと過ごし、中学から大学入学の前までは、どもることを恐れ、話す場面を避け、人に会うのを避けていた。それから、吃音矯正の本を購入し、一人で吃音矯正所に通い、矯正活動に励んだ。どもることは悪い事であり、治さなければならないと、吃音を否定していたのである。
 私の吃音は症状としては軽いものだった。それは小学校、中学校、高校の学校生活を振り返ると、朗読やスピーチなどの場面で、どもることへの不安や恐怖から逃げたいと思いながらも、なんとか授業を切り抜けてきたことからも伺える。しかし、吃音の悩み・苦しみの深さは単にどもる症状だけでは計れない。私の吃音に対する悩みは深刻で、時には自殺を考えることすらあったのである。

吃音と一人で格闘

 中学、高校と進むにつれ次第に吃音を意識するようになっていたが、小学生の頃から野球に親しんでいたので、吃音に悩みつつも、中学、高校時代は野球一筋の生活を過ごすことができた。当時、高校野球の名門、首里高校で甲子園を目指して野球に明け暮れる日は、吃音に深く悩み始めていた私にとって、唯一、心のよりどころだった。
 国語や英語の時間はよく当てられるので、いつもおびえていた。高校1年の国語の時間に3分間スピーチの時間があった。それぞれが自分のテーマで話さなければならない。私は逃げたかったが、国語の時間をずっと欠席する訳にもいかず、宮本武蔵について発表した。私の吃音は難発性で、一言一言出づらく、苦しかったけれど、何とか発表をすることができた。授業の時間はなんとかしのいでいたものの、どもるのが嫌さに、級友とは必要最小限のことしか話さなくなっていた。
 高校を卒業し、大学進学を目指し、浪人生活に入った。塾に通い、勉強一辺倒の生活は、野球仲間も、遊ぶ友だちもいなくなり、いつも一人ぽっちだった。次第に人に会うのが怖くなり、対人恐怖の状態にまで陥っていた。塾に通うバスの中で知り合いに会いはしないかと、いつも不安を感じていた。この頃が私の人生の中で一番つらく、苦しい時代だった。それでも1年間の浪人生活を経て、1969年、琉球大学保健学部保健学科に合格できた。
 大学には合格したもの、どもっているままでの大学生活が不安でしようがない。入試が終わってから、大学入学式までの間に、どうしても吃音を治さなければならないと思っていた時、運良く、書店で『どもりは20日間で必ず全治する』(浜本正之・文芸社)という本を見つけた。しかし、すぐにはその本を買うことができなかった。つきあいのない、今後二度と会う必要のない書店の人にでも、自分のどもりが知られるのが怖かったからだ。それでも、この本さえ手に入れば吃音の苦しみから脱け出せるとの思いで、しばらくしてやっと本棚からその本を手に取り、買うことができた。
 その本には、吃音の苦しみから国宝金閣寺を放火した青年の話、スポーツ選手の自殺の新聞記事など、吃音の悲劇の物語が載っていた。それによって、私は、吃音を治さないと自分の未来はないと強く意識させられた。絶対に治さなければならないと、本に従って、腹式呼吸や発声練習を必死に続けたが、吃音は治らないままに大学の入学式を迎えてしまった。これから私の大学生活はどうなるのだろう。不安いっぱいだった。
 しばらくして、今度は「改伸学院」という「吃音は治せる」と宣伝するところを見つけた。本ではなく、直接に指導を受ければ治るかもしれないと、藁にもすがる思いで大金を払って通い始めた。そこは吃音矯正の専門のいわゆる「民間吃音矯正所」ではなく、会社員が自宅で自分の経験をもとに吃音矯正活動を行っていた。そこでの方法も、浜本正之さんの本と同じように腹式呼吸をして、息をゆっくり吐きながら、「わーたーくーしーは」とゆっくり一音一音引き伸ばして話す方法だった。
 そこに来ていた、70代くらいのおじいさんは、手足をばたばたさせ、舌を出し、顔を真っ赤にしてどもって話していた。この年になってもこのようにひどくどもる姿を目の当たりにして、今の内にどもりを治しておかないと、一生苦しい思いをすることになると、恐ろしい気持ちになった。
 大学生や高校生もいたが、私は必死になってその人の指導を忠実に守って、呼吸・発声訓練に取り組んだ。その場では、一音一音引き伸ばして、ゆっくり話すとどもらずに話せた。しかし、感情がこもらない話し方は不自然で、そこでは使えても、日常生活では使うことができなかった。本を読んで必死に努力しても、指導者について訓練しても、私のどもりに変化はなかった。
 その後、『どもりは必ず20日間で全治する』の著者の浜本正之さんが、那覇市で2週間の吃音矯正の講習会を闘くことになった。自習ではなく、書籍を出している本人から直接指導を受けられるということで、期待が膨らみ、今回も必死で浜本式治療法に取り組んだ。しかし、やはり、何の効果もなかった。絶望的な気持ちなったが、吃音は簡単に治るものではなく、時間をかけて取り組むしかないと考えるようになった。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/07/26

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