直接対話の旅

 ラッセルの幸福論から始まる巻頭言を紹介します。
 いろんな切り口から、ただひとつのこと、「吃音を否定しない。吃音と共に生きる」ことを伝えたいと思い、書いている巻頭言ですが、こんな切り口もあったのだと、自分でも驚いています。忘れていました。
 一番大切にしている《対話》の旅、できるだけ続けていきたいと思います。
「スタタリング・ナウ」2017.12.20 NO.280 より、今日はまず巻頭言からです。

  直接対話の旅
                       日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「不幸の心理的な原因は、明らかに、多種多様である。しかし、どの場合にも、ある共通点がある。不幸な人間の見本ともいうべき人は、幼い時にある正常な満足を奪われたため、この一種類の満足を何よりも大事に思うようになり、ために、自分の人生に一方的な方向を与え、それとともに、その目的にかかわる諸活動ではなく、その達成のみをまったく不当に強調するようになった人である。しかし、現在では、事態はもっと悪化していて、それがごく普通になっている。人は、完全に意欲をくじかれたと感じるあまり、いっさいの満足を求めようとしないで、気晴らしと忘却のみを求めることがある。それから、彼は、「快楽」に血道をあげるようになる。言い換えれば、活動的に生きることをやめることで、生活をなんとか耐えられるものにしようとするわけだ」
                    『ラッセル幸福論』岩波文庫版・安藤貞雄訳
 世界三大幸福論のひとつである、『ラッセル幸福論』で、バートランド・ラッセルは、不幸の最大の原因として、自分の欠点に閉じこもる「自己没頭」を挙げている。そして、欠点に目を向けず、外界に目を向ける、客観的な生き方を提案する。
 小学2年生から吃音に劣等感をもち、その吃音だけをみつめ、それがなくなることだけに自分の人生の意味を見い出していた。自分が満足できなかった話し言葉の吃音に閉じこもっていた私が、文学や、小説、映画の外の世界に目を向けたが、吃音をネガティヴなものとしか見ない視点からは、吃音の悩みからの解放、幸せな生き方の道筋に立つことはできなかった。後になって分かることだが、文学、小説、映画の世界が吃音の悩みと結びつき、私の人生に生かされたのは、吃音をネガティヴなものと考えなくなってからのことだった。
 吃音を否定的にとらえ、「吃音を治す・改善する」の視点から様々な活動をしていると、かなり効率が悪い。人はどんなことからでも学んでいけるので、どんな誤った方向からのアプローチからでも学ぶことができるのだが、あまりにもロスが大きい。子どものころの、早い内から吃音と向き合い、吃音と対話し、吃音を通して人生を考えるようになって欲しいと、私は吃音親子サマーキャンプを始め、全国各地で開いている吃音キャンプで話してきた。どもる人のための大阪吃音教室は毎週開かれているが、遠くの人は参加できない。それでせめて関東地方でも吃音と向き合い、吃音と対言するワークショップをしたいと始めたのが、東京ワークショップだ。
 私が、21歳まで一人で吃音に深刻に悩み、行きつ戻りつの堂々巡りをしていたことに終止符を打てたのは、「どもりは必ず治せる」と主張する民間吃音矯正所と当時言われていた東京正生学院だった。皮肉にも、「どもりは治らないが、どもりと共に生きていける」ことを学んだ。そして、どもる覚悟ができ、吃音を肯定的にとらえることができたとき、悩んでいた頃に触れてきた文学、小説、映画が大いに役立った。
 今回紹介する東京ワークショップで私と対話した横田さんは、吃音については、「治す・改善できる」と主張するたくさんのインターネットのサイトや書籍の中から、本能的と本人が言うように、私の関連書籍を読んで下さっていた。そして、私の言うことが、本当に自分にもできるだろうかとの思いで参加して下さった。書籍で読んで理解するのと、実際に大阪吃音教室に参加したり、吃音ショートコースや吃音親子サマーキャンプや、島根、岡山、静岡、群馬、沖縄などで私が講師とて参加している各地のキャンプに参加して、直接私の話を聞いたり、対話したりするのとは大きな違いがあるのかもしれないと、横田さんとの対話で気づいた。
 社会には根拠のない、「吃音は改善する」情報が満ちている。自分が「吃音と共に生きる」方向で進もうとしても、ひょっとすると「治せる・改善できる」方法を自分は見落としているのではないかとの不安もよぎる。また、私の「吃音を治す努力の否定」も、文字面だけみて批判をする人もいる。どこまでできるか心許ないが、できるだけ直接に対話をする旅に出たいと私は願っている。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/07/22

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