からだは語っている
昨日の続きです。竹内さんが南山短期大学を退職するとき、必要なら使って欲しいと、たくさんの書籍と、論文、執筆メモなどをいただきました。今回、その中から紹介したエッセーは、いただいたのがコピーだったので、出典は不詳ですが、今も、私たちのそばで、いきいきと語る竹内さんを感じながらお読みいただければ、幸いです。
「呼びかけのレッスン」、懐かしいです。聞く側になると、呼びかける人の声が、ぽとんと前で落ちてしまったり、ぐーんと高い所を飛んでいったりするのが感じられます。不思議なおもしろい経験でした。相手の声がちゃんと僕のからだに届いて、「ああっ、呼びかけられた!」と分かる瞬間もたくさんありました。
自分が発したことばが、本当に相手に届いて、相手のからだに触れ、相手を動かしているかどうか、今一度、感じてみたいと思います。
では、昨日の続き「スタタリング・ナウ」2017.10.22 NO.278 より紹介します。
からだは語っている
ことばのレッスンは聞き手のセンサーを敏感にすることから
私の「からだとことばのレッスン」は、まず聞くことから始まります。話し方教室が一時ブームになったけれど、そんなものはいくらやっても意味がありません。他の人に有効だった方法を習っても、役に立つはずがないんですよ。聞き手、つまり呼びかけられる方のセンサーが敏感になってきたら、呼びかける人間は選別されますから、鍛えられていくわけです。呼びかけられる方が、情報伝達の次元でただシグナルとしてのことばに反応していたら、呼びかける方は、自分が相手を本当に呼んでいるか、そうでないかという確認も反省もすることがなくなって、相手が応えてくれないと「聞いていないお前が悪い」となってしまいます。これでは話があべこべです。
では、声とは何でしょうか。自分の声は骨導で聞きますから、口から出て他の人に聞こえている声は、自分では聞くことができません。ただし、訓練によって、どの程度の声が音として届いているかを聞き分けられるようにはなります。でも、これは声の本質を聞き分けているわけではありません。声の持つ機能とは、簡単に言えば「訴え」です。
たとえば、相手に向かって手でおいでおいでをする、もしくは、相手の腕を自分の側に引っ張るという行動は、「ちょっとこっちへ来てよ。こっちを向いてよ」と言うときの声と同じ機能を持っています。ただ揺すったり、ただ大きな声を出したりしても、それはやっている本人だけの問題です。しかし、相手との関係においては、引っ張る、声を届ける、そういうことで働きかけるというか、アクションを起こします。アクションがないときに声は出ませんし、出す必要がない。赤ちゃんが泣くのだって「おっぱいほしいよう!」ということばにはなっていませんよね。「おっぱいほしい」という意識だってまだないかもしれない。けれども、わあわあと泣くのはただ声を出しているんじゃなくて、何かを呼んでいるんです。
私の娘がまだ赤ん坊のとき、私のお腹に乗っかって「わーっ、わーっ!」とわめき出した。そのとき「ああ、この子は話しかけている」とわかって、ショックでした。ことばにはなっていないけれど、確実に私に届いてきていましたから。ことばは、声を出すか出さないかという問題じゃなくて、相手に働きかけることができるかどうかが問題なんですね。発声練習をいくらやっても声は出ない、というのが演劇に長く携わってきた私自身の実感です。働きかけようとこころで思って声を出すのではなく、働きかけるという行為の中でからだもこころも一緒になっていなければ、訴える声にはなりません。
「からだ」「こころ」「ことば」が一つになることを知った『オセローの演出ノート』
スタニスラフスキーは晩年になって、いわゆるスタニスラフスキー・システムという、一つの新しい実験を始めました。それを書きとめている間に彼は死に、死後に彼が書いた『オセローの演出ノート』が残された。私はそれを翻訳したことがあって、それを読んで初めて「ああそうか」とわかったことがあります。
「オセロー」の中には、オセローが「ハンカチーフ!」という台詞を3回繰り返す有名なシーンがあります。映画「天井桟敷の人々」にも登場するくらい、嫉妬を爆発させるシーンとしてよく知られているんですが、スタニスラフスキーは、俳優がどうやって嫉妬の感情を自分の中でやりくりして表に出すか、というシーンとは考えていなかった。「オセロー」の日本語訳を読むと「ハンカチだ!」とあり、この台詞は、妻のデズデモーナに対して「ハンカチを出せ」と迫っているということになっています。しかし、原文は「ハンカチーフ!」なんです。スタニスラフスキーは、ナセローがデズデモーナにではなく、ハンカチーフに向かって「ハンカチよ、出てきてくれ!出てこなかったら俺はもうお終いだ!」と、からだ全体で呼びかけているのだと考えたのです。
ここでは、からだもこころもことばも一つになっていますよね。「こういう感情だから、こういうふうに話すのがいいだろう」というのではない。からだ、ことば、こころが一つになって初めて、本物のドラマになる。私はそこを読んだときに初めて「ああ、そうか、からだというのはこういう問題か」とわかった。からだとことばが一つになって何かに働きかけたときに、初めてすべてが生きるんです。
生きた芝居には、観客が身を乗り出して応えます。「タ鶴」という芝居があるでしょう。1952年の初演からまだあまり経っていない頃、信州の大町の紡績工場で上演したときのことです。芝居なんか見たことない女工さんたちは、はじめはキャッキャッと喜んで見ているのですが、そのうちにだんだん静まり返りました。つうが「決して見ないでよ」と念を押して機屋に入る。それを覗いた仲買いが「鶴が機を織っとる」と言うのを聞いた与ひょうが、「鶴が何をしてるんかのう、見ちゃいかんかのう」と覗こうとすると、女の子たちが総立ちになって「見ちゃだめー!」つて叫び出したんです。ついに、与ひょうが覗いてしまうと一斉に「あ~あ」となる。私はこれこそ芝居だと思うんですが、今はお客さんたちみんなが「芸術作品を拝見致します」と固まっちゃって、うんともすんとも反応がないんですよね。私は、これは芝居じゃないと感じます。それでは、テレビを見るのも芝居を見るのも同じで、そこに「人間」がいません。芝居も映像でしかない。
芝居の中で、ことばだけが生きていて、からだが死んでいるなんてことはありません。声にしたって、こういう声を出さなきゃいけないという決まりはまったくありません。相手への働きかけが、本物かどうかが重要なんです。呼びかけのレッスンで、聞き手になる人に「相手の言うことの意味内容は一切捨象して、本当に自分に呼びかけているかどうかを聞いてみて」と私は言います。でも、そう言われるとみんな最初はわからなくて、混乱するみたいですけどね。
からだはときにその人の世界を表す
ことばが語るように、からだも語ります。身振りには、生活の癖のようなものが表れるんですが、それ以外に、もっと違った動きがないかと思って始めたレッスンがあります。生徒に自由に動いてもらって「よーい、はい!」の合図でポーズを取らせるというものですが、これがなかなか、いろんな世界が見えてきて興味深い。
たとえば、両手の肘を伸ばしてまっすぐ前に手を出すポーズを取る人がいます。何遍やっても、手を伸ばす方向を変えはするけれど、基本はまったく変わらない。このポーズから、この人の世界は、板に挟まれた、細長いものだということが見えてきました。まっすぐ前に伸ばした片手を横に開いてあげて、「どんな感じがする?」と聞くと、「ああ、世界が広がりました。新しいです」と言うんですよ。人には、自分が本当に生きている空間があって、広い空間に生きているように思っていても、実は自分の持っている空間はかなり偏っているというか、歪んでいるというか、狭いところで生きているんです。中には、手のひらを上方に向けて大手を広げる人もいます。「何のポーズだ?」と聞くと「負けないそのポーズ」と言うんです。この人は確かに苦労をしてきた人だけれど、「『負けないぞ!』だけで生きていいのかい?」と、手を下ろして、肘を緩めてやると「何か変な感じだ」って言うんですよね。その後ちょっと手を広げて、「『おいで』と言ってごらん」と言うと、「あっ」という顔になった。今までと全然違う世界に生きることができたわけです。からだは、自分で気が付かないうちに自分を限定しているんですよ。自分ではその限定に気づかなくても、他人には、語っているからだが見えるんです。
それから、何遍やっても肘が曲がって頭を抱えるような格好になってしまう人。「ちょっと変えてごらん」といろいろやらせてみるんだけど、結局同じポーズになってしまう。その人はお父さんとの関係が非常に難しくてね。お父さんはとてもその子を可愛がっていたんだけれども、可愛がられていることが逆に負担になって、お母さんとの関係まで厄介になって家を離れた。そのせいか、ちゃんと人に向き合えず、反撃もできない。かといって言われる通りにもできない。その人の原型のようなものがポーズとなって表れるんですね。そんな姿勢で人と付き合っているのだから、いくらからだをシャキッとさせて誰かと向き合ったつもりでも、ことばは届かないし、からだとことばがあべこべのことを言っていることもよくあります。
先生が子どもに「こっちへ来い」と言っているのに、手は向こうへ払っているという場合がありますよね。子どもは、本当は来てほしくないんじゃないかと感じるから、どうしたらいいかわかりません。これは心理学的にはダブルメッセージということばがついています。ことばを単に情報伝達のために組み合わされた言語としか考えないようでは、その世界までも狭く歪んだものになってしまうんです。
ことばが生まれてくる土台に触れる
乱暴に言えば、ことばで何かを伝えるというのは、不自由なのが当たり前なんですね。スラスラしゃべれるケースというのは、情報伝達のことばの組み合わせであって、知り抜いたことばを知り抜いたパターンで組み合わせる作業をいかに早くやるかというのは、現代の人たちならできないことではありません。しかし、自分の中で、今生きていることばにして、自分の表現にしようとすることは、気持ちが深ければ深いほど難しいんです。まずは、スラスラとしゃべらなければいけないという考え方自体をストップする必要があります。
吃音の人には、とにかくしゃべらないといけないという焦りを伴ったまましゃべり始める例が多い。A・B・C・D・E……とことばをつないでいくべきところを、Aをしゃべるときに、もうZをしゃべらないといけないと思ってしまう。「明日はどちらへお出かけですか」と言うときに、「明日」と言った瞬間に「お出かけですか」も言おうとしているようなものです。「明日」の「あ」も言わないうちに「ですか」を言わなきゃいけないんだから、引っかかりますよ。
吃音の人に限らず、情報伝達は一刻も早くなければならないというのが至上命令になってしまっているから、情報伝達のしゃべり方はAを言うときにもうZが頭の中にある。Aを言いきらないうちに後が詰めかけてくるから声が出てこない。
別の言い方をすると、今生きていることばをしゃべっていないということ。「今」だから一音一音になるんです。「明日は」だったら「あ」を言って「し」を言って「た」を言って、という息のつながりがちゃんと生きていなければことばになりません。「あ」のときに「ですか」を言おうとしているということは、もうすでに今にいないんです。すべてにおいて早くてはいけないという意味ではありませんが、そもそも今初めて生まれてくることばなんてものは、そう簡単に出てくるものではありません。もちろんレッスン中に、自分でも「あれ?こんなことをしゃべっている」と思うようなこと、しかもリアリティのあることが湧いて出ることはありますけれども、それはある条件がからだ全体で整ったときにノッてくる脱自の状態だというのが私の考えです。
考えながらしゃべっている人の話は、スラスラしゃべる人の話よりもよく聞いてしまったりするでしょう。それは、その人が自分の中で、今ことばを探っている状態に触れられるからです。「ことばを選んでいるんだ。どこから出てくるのかな?」という、出てきたことばそのものよりも、そのことばが生まれてくる土台みたいなところに触れることができる。ことばが生まれる過程を一緒に体験できるというわけです。
こういうときは、話している人も聞いている人も、話がどこに着地するのかわかっていないのが当たり前。今生きていることばはどこへ転がるかわからないんですから。でも、多くの場合、予定したところへ着地しなければならないという情報伝達のしゃべり方や文章になってしまっています。
竹内敏晴(たけうち・としはる)…1925年東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家として劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。宮城教育大学教授、南山短期大学人間関係科教授として教育にも携わる一方、「からとことばのレッスン」に基づく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者療育に打ち込む。現在もワークショツプ「からだとことばのレッスン」を主宰するとともに、”声の産婆”として全国を渡り歩く。著書に『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)、『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書)、『からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために―』(藤原書店)、『竹内レッスン―ライブ・アット大阪』(春風社)など多数。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/07/06



