ことばは生きている
竹内敏晴さんが本当に大切に思ってくださっていた吃音親子サマーキャンプ。お忙しい中、吃音親子サマーキャンプのために、歌をたくさん取り入れた脚本を書いて、僕たちスタッフに、合宿で演出をしてくださっていました。竹内さんが残してくださった、吃音親子サマーキャンプでの上演台本は、竹内さんが亡くなられてから、渡辺貴裕・東京学芸大学教職大学院准教授により、何度も再演してきました。今年も、第35回吃音親子サマーキャンプが近づいてきました。竹内さんの脚本を使って、どんな芝居の世界が広がるか、楽しみです。
さて、今日は、「スタタリング・ナウ」2017.10.22 NO.278 に掲載の、竹内さんのエッセイを紹介します。
エッセイの前に、「たけうち通信」2001年夏号 の竹内さんの文章が一部紹介されています。竹内さんの、吃音親子サマーキャンプへの思いを改めて感じました。
「サマーキャンプ用の台本は書き上げて討論し、先日すでに稽古もしたが、閉じこもり絶望しているどもる人がモモのもつすばらしい力―聞く力―に出逢って変わってゆき、生きる力を取り戻すシーンから始まった。これを演じる吃音の先輩のことばの切実さが、集まる子ども、そしてその父母や吃音の仲間たちにどれだけの励ましになりうるか。どきどきしながら見守っている」(『たけうち通信』2001年夏号)
今年の吃音親子サマーキャンプで子どもたちと演じた芝居の演目は、「モモと灰色の男たち」。初演から数えて3度目の上演になります。竹内さんが、サマーキャンプ用に書き下ろして下さったオリジナル脚本を、渡辺貴裕・東京学芸大学大学院准教授が現代風に少しアレンジし、演出して下さいました。
竹内さんが亡くなられたのは、2009年9月。丸8年が過ぎました。吃音の夏のラストイベントのサマーキャンプが終わり、竹内さんのエッセイを読み直し、とても懐かしい気がしています。そこで、今月号は、竹内さんが私たちに残して下さったエッセイをお届けします。
竹内さんが南山短期大学を退職するとき、必要なら使って欲しいと、たくさんの書籍と、論文、執筆メモなどをいただきました。今回紹介したエッセーは、いただいたのがコピーだったので、出典は不詳ですが、今も、私たちのそばで、いきいきと語る竹内さんを感じながらお読みいただければ、幸いです。
ことばは生きている
「ことば」は一つずつ孤立したものではない
「ことば」というものは、たとえば「これは机である」「これはコップである」というように、一つずつ別々に名づけられたものと捉えられていますよね。でも、客観的な、孤立した一つひとつのモノを「机」や「コップ」と名づけるわけではありません。もちろん、その名前に集約されるような働きがあることは確かですけれど、そういった名づけ方は、近代以降、科学的な思考法ができたときに、モノを定義するというかたちで成立してきたわけです。しかし、本来「ことば」とは、名前の付け方とはそういうものではないだろうと思います。
たとえば、童謡の「春がきた」を口ずさんでみてください。
春がきた/春がきた/どこにきた
山にきた/里にきた/野にもきた (詩 高野辰之)
この歌は私のレッスンでときどき使うのですが、最初は誰もが何も考えずに歌います。しかし、「『春がきた』と『どこにきた』は同じ人が言っているの?」と問うと、みんな「あっ」という顔になります。誰かが「春がきた」と言うのに対して、別の誰かが「どこにきた?」と問い返す。だから、おそらくこれは対話の歌なんですが、そう思って歌う人は百人に一人もいません。「ことば」そのものに対して、あまり注意が向いていないんです。学校では、メロディをきちんとたどることしか教えませんからね。
そこで本題ですが、「山にきた/里にきた/野にもきた」の「山」とは何でしょうか。「高くて、木が生えているところ」と答える人がいますが、それは山の本質ではありません。それでは、岩山や砂山は山ではなくなってしまいますからね。「盛り上がった土」と答えれば、たしかに国語辞典にある「盛り上がった地塊」という説明に近い。でも、それはもともとの大和言葉でいう「やま」とは違うんです。日本人というのは定義なしにことばを使うんです。社会的な定義ということではなくて、自分にとってのことばの定義というものを持たずに、自分が何を言っているのか、正確にはわかっていないまましゃべっている場合が多いんです。
「山とは何か」を考えるときは、「山」の反対語を考えるとわかります。「川」「海」「空」……、いろいろ答え方はありますが、芋の名前を考えてみてください。「山芋」「里芋」といいますよね。つまり、「山」の反対語は「里」なんです。
「さと」は人の住んでいるところで、「やま」は人の住んでいないところ、あるいは人が入っていったら何が起こるかわからない、人が絶対に入っていかないところです。だから、「やま」が高いとは限らない。深い森の場合もあるし、人が踏み込まない神聖な場所という意味では、いわゆる「山」とはまったく関係ないところもあります。
となると、「の」は「やま」と「さと」の中間にあって、人間が薪を拾ったり、罠を仕掛けて獣を捕らえたりするところということになります。
「山にきた/里にきた/野にもきた」と言うと、山、里、野が別々のものだと思ってしまいがちですが、決してそうではない。「さと」「やま」「の」は、人々が生活との関係から名づけたことばです。だから「やま」だけが独立してあるわけではなく、「やま」は「さと」や「の」との関係性の上で存在しています。
「野にもきた」の「も」は「野に」だけにかかっているわけではなくて、「山に」「里に」「野に」のすべてにかかっています。自分の生きている世界全部がいっぺんに「春だ!」とこの歌は語っている。つまり、一つひとつのことばは、あらかじめ存在したモノに対して付けた名前ではなく、生活との関係の中で名づけられたときに初めて「さと」も「やま」も生まれたのです。
「春夏秋冬」だって、一つひとつが孤立して存在しているわけではありません。一年の中で気候が変わるある部分を仮に名づけたのであって、本来は人の生活との関係の中でつながったものとしてあるわけです。
「ことば」は、もともと孤立した一つひとつのモノについて恣意的に与えられたものではなく、人間が生きていることにっいて、どういう局面に対して名前を付けるかということから始まっています。「里」と「山」があれば、その間は「野」だなあ、ということになり、そういった互いに関係し合う孤立しないイメージは、生活の深層で生きています。
「からだとこころ」も同じです。「からだ」というモノがあるわけでも、「こころ」というモノがあるわけでもなく、人が生きている姿のある局面を見たときに「からだ」と名づけたり、「こころ」と名づけたりするわけです。もし私が禅坊主だったら、「『こころ』を出して見せてくれ」と言いますよ。でも、そんなものはありません。あるのは名前だけ。近頃「こころの教育」ということが一生懸命考えられているらしいけれど、部分的にこころだけを取り上げて教育しようなどというのは、そもそも成り立ちようがないと、私は自分の経験からも確信しています。
「ことば」もまた同じように、人間の生活における一つの局面であって、「ことば」という分野だけで何かが、たとえば「ことばの教育」といったことができるということはありません。
情報伝達としてのことばと「まことのことば」
メルロ=ポンティという哲学者は、『知覚の現象学』の中で、ことばには二つのレベルがあると言っています。一つは情報伝達ですね。情報伝達というのは、要するに社会的な機能ですから、一つひとつの単語が社会的に定義されていなければならない。社会生活を成り立たせるためのことばですから、みんなに同じように理解されないといけません。ということは、それは何千回も何万回も使われていなければならない、つまり、使い古されていなければ情報伝達の役に立たないわけです。
それに対して、今まさに生まれ出てくることばというものがあります。生まれ出てくるときに、形をつくり、その中に意味を填めていくことばがあると彼は言っています。それが「まことのことば」であって、たとえば赤ん坊がお母さんを呼ぶことばだったり、恋人に初めて愛を告白することばだったりするわけです。その中でもっとも洗練されたものが「詩」である、というのが彼の考え方です。今生まれ出てくることばは、自分の中から見つけ出してくることばです。そのことばが、自分にとって、そのことばが指し示す事柄が「ある」ということを現出させるという意味で、生きていく中で基本的なことなんだと思います。
メルロ=ポンティは、晩年になると、ことばの機能として「呼びかけ」を付け加えます。ところが、「呼びかけ」については、彼のノートに二ヵ所書かれているだけで、それに関する文章はほかに一切ありません。だから、なぜ彼はそう考えたのか、それに関して実際に講義で触れたのか、そういったことはまったくわからないんです。おそらく、情報伝達と「まことのことば」は、個人が中心になって考えられているけれど、「呼びかけ」は他者との問題ですから、彼はそれを付け加えたかったんじゃないかなと、私は考えています。そして、私にとってはその「呼びかけ」こそが、言語表現の中ではもっとも重要なものだと思っているんです。
生きていることばが排除されていく
現代という時代を見渡すと、メルロ=ポンティが言うところの「まことのことば」、今生まれ出てくることばが切り捨てられてしまって、ことばが情報伝達でしかなくなってきているなと感じています。親や教師が子どもに言っていることばさえも、情報伝達でしかなくなってきている。お母さんが「危ない! そこをくぐってはダメ!」と言えばいいところを、「そういうことをしちゃいけないと前から言っているでしょ」と言う。子どもはそんなことでは絶対に動かないですよ。そういう意味で、ことばが生きていないというか、どんどん節約されているんですね。生きていることばは、公衆の場でどんどん排除されています。
情報伝達のためのことばは、使い古された、すでにあるものを組み合わせるだけですから、新しいことばは生まれないわけです。だから、人は何万語としゃべっていても、実は一定のある枠組みの中でやりとりしているだけで、同質のものが行ったり来たりしているということになります。極端に言うと、自分が自分に答えているだけで、本当の意味での他者がいない。情報伝達の相手は誰でもよく、取り替え可能なんですね。これでは、本当に働きかけようとする相手が存在していません。
お母さんが呼びかけているのか 用事が呼んでいるのか
朝、会社に来て言う「おはようございます」ということばは、誰かに伝わる必要はないんです。自分がちゃんと出勤したという事実があればよいのであって、私が考える呼びかけとは全然違います。
たとえば、お母さんが子どもを呼ぶときに、「こっちへ来て」と言っても、子どもは聞く耳を持ちません。だからといって、声が聞こえていないのかといったらそうではない。お母さんに「あなたはなぜ子どもを呼んだんですか?」と聞くと、「用があるから」と答えるんですよ。それじゃあ、お母さんが呼んでいるのではなくて、用事が呼んでいるのだから、子どもには届かない。お母さんが「ごはんだよ」と言ったとしても、「ごはんを一緒に食べようよ」という気持ちで呼べば、子どもはスーッと来るんですね。用があるから呼んでいるときには絶対に来ない。
こうしたことは、子どもでなくても誰でも聞けばわかるんです。ただ大人は、ことばを一つのサインとして交換しているだけの生活に慣れきっているものだから、ちゃんと聞いていないし、呼ばれたら「はいはい」と応えてしまう。そりゃあ、会社で「あいつ本当に呼んでいるのか?」なんていちいち考えていたら仕事になりませんけれど。これらのことばは情報伝達の言語であって、「まことのことば」ではありません。でも、叱られそうとか、悪い予感がするといった程度にはちゃんと聞き分けている。
学校の先生は、呼びかけができるかどうかが一番肝心だと思うんですが、だいたい学校の先生のことばというのは、30~40人の教室で話しても子どもの頭上をすり抜けてしまって、呼びかけになっていないことが多いですね。先生が子どもたちに向けることばは、でかんしょ節と同じで、小言も頭の上を通り抜けてしまう。それが本当に耳に痛かったり、腹に堪えたりすると、逃げられずに固まって、受け止めることができるんです。つまり、自分のことばが本当に相手に届いて、からだに触れ、相手を動かしているかどうかがはっきりしなければ、意味がないんですよ。
私がマイクを使わない理由
私は人前で話をするとき、300人くらいまでだったらマイクを使いません。マイクなしでしゃべっていると、聞き手は耳をすませて乗りだしてきます。つまり、マイクを通してスピーカーから聞こえてくるというのは、私の声を聞いているわけじゃない。スピーカーから流れる無方向な音を、いわば文章を聞いているんです。スピーカーを通してしゃべっている人間は、テレビ映像の中にいる人間と一緒。そこで動いている人と音声とが一致しているというだけの話です。生の私は見捨てられている。それじゃあしょうがないから、私は「スイッチを切ります」と言って、途中でマイクを置いたことがあります。そのとたんに、会場全体の注意がサーッとこちらに集中してきたのがわかりました。私の方から届けに出ていく必要がない、向こうからやってきます。そのうち声が小さくなったり、ことばを探していたりしていると「聞こえませーん!」と言われるから、「このくらいなら聞こえますかー?」と応える。人と人との交流が始まるわけです。
今、ほとんどの人は、誰かがしやべっていることばは文章として頭の中に入れればいい、知識の冷蔵庫に入れておけばいいと思うようになってきています。人間に「話しかけている」という、その人の身心働きかけ全体がことばなのだとは考えていません。でも本来、「からだ」と「ことば」というふうに分けられるものではない。「からだ」と言おうが「ことば」と言おうが、それは一人の生きた存在の、ある局面をどう呼ぶかという問題にすぎず、ことばが生きているときは、からだも生きているのです。
体験し、知覚し、ことばで自覚する
目の前の人に「外の風景を見て、どんな感じがしますか?」と聞くと、「どんよりしています」なんていう答えが返ってきます。でも、「どんより」というのは、その状況の判断であって、どう感じているかをことばにしているわけではありません。つまり、風景に触れるときが体験であり、これは”感じる以前”です。どう感じているかを、からだはことばより先に知覚しているけれど、自覚されてはいない。どう感じているかをことばにしたときに、初めて自覚が生まれる。だから、ことばにしなければ、自分が知覚している何かは存在しません。人間がことばを生み出すことは、そのモノを自分に対して存在させるということです。
私は、長い間ことばをしゃべれなかった人間だから、ことばをどうやって見つけるか、何も手がかりがありませんでした。やっと、ことばらしきものを差し出しても、他人には何を言っているのかわからないということもしばしばあって、そういうときは家に持って帰ってもう一度ことばを見つけなおしていました。ところが、だいぶ後になって気が付いたんだけれども、世の中の人はそうじゃないらしい。しばらく前の新聞で、俳句をやっている人が師匠の作品を見て、「そうか、俳句というのはことばの手品だったんだ」と言っていたんですね。要するに、ことばは、空中に浮かぶ花びらみたいにたくさんあって、浮かんでいる花びらをあちこちから持ってきて、結びつけるとこうなるよ、と相手に見せれば手品になるというのはわかります。
しかし、これは私が見つけようとしている「ことば」ではありません。真っ暗な中を一生懸命かき回して、引っ張り出してきて、「これでいいのかな?」と考えながら組み合わせてことばはできてくる。私は20歳近くまで耳がよく聞こえませんでしたから、ことばの貯蔵量は非常に少ないんじゃないかと思うんです。でも、おかげで子どもがことばを覚えていくプロセスみたいなものを、大人になってから通ってきたという感覚があります。みなさんは、ことばは始めからあるのが当たり前だと思っているけれど、ことばは生まれてくる瞬間が一番大事なんです。誰かが話しているのを聞いても、それが借りてきたことばなのか、自分で見つけ出してきたことばなのかはすぐにわかります。自分の中から出てきたことばでなければ、人は動かされません。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/07/05



