哲学的対話のすすめ

 2017年7月7日の大阪吃音教室のテーマは、「哲学的対話のすすめ」でした。それまでも、僕たちは、対話をしてきたわけですが、今回は「哲学的対話」を意識して、参加者みんなで、ひとつのテーマを追いました。まず、前段として、対話と会話、対話の基本原理、こども哲学対話の7つのルール、オープンダイアローグ、ネガティヴ・ケイパビリティなどをきちんと押さえた上で、テーマを決めてすすめました。
「スタタリング・ナウ」2017.8.21 NO.276 より紹介します。

大阪吃音教室  哲学的対話のすすめ
                  2017年7月7日(金)
                  担当:伊藤伸二  報告:西田逸夫

 【初タイトルの例会「哲学的対話のすすめ」】

 大阪吃音教室では、毎週金曜日の夕方18:45~21:00、年間40回の例会を開講している。吃音に関する基礎知識の学習、吃音のままで日常生活を送る上でのコミュニケーションスキルの向上と並んで、主として臨床心理学の幾つかの技法を通して、より深く自分自身を知る講座が、内容の大きな柱となっている。自分自身を知る講座については、長年にわたって次々と、新しい考え方に取り組んできた。今年度新しく取り組むべく、初めて行う例会は、7月7日の「哲学的対話のすすめ」だった。
 この日の大阪吃音教室には、3人の初参加を含め、28人が参加した。この例会は、7月29日と30日の土日に大阪で開催される「第6回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」のテーマが『ともに育む哲学的対話』なので、その準備も兼ねていた。吃音をめぐって活発で深い話し合いの行われた例会の主な内容と、雰囲気の一端を、限られた紙面で可能な限り伝えたい。

「会話」と「対話」

伊藤:今日の例会を始めるに当たって、「会話」と「対話」の違いを確認します。哲学者の中島義道さんが、「日本には対話がない」と書き、劇作家の平田オリザさんも、日本は、「察し合う」文化の中で、対話がなくても、会話だけでやっていけたのだろうと言い、日本では対話の日本語だけを生み出してこなかったと指摘し、対話のレッスンを提案しています。経済学者で評論家の暉峻淑子さんも、対話の重要性を問題提起しました。
 平田オリザさんは、会話は、知っている人間同士の楽しいおしゃべりで、対話は、他者との新たなる情報交換や交流だと言います。
 中島義道さんは、会話は、自分という人間を出さなくても成り立つが、対話は、自分の人生を背負って語るものだと言っています。

いま注目を集めている「オープンダイアローグ」

伊藤:今、家族療法学会などで「オープンダイアローグ」(開かれた対話)に注目が集まっています。
 1980年代のフィンランドで始まったもので、急性期の統合失調症の人から相談があった場合に、24時間以内に本人と関係者、専門家が集まって本人に必要な期間、ミーティングを続ける。それまでは薬を使うしかないと言われていた統合失調症の人が、入院もせずに、多くの人が回復して地域の中で暮らせるようになる。この手法が、4、5年前にYoutubeなどを通して全世界に紹介されました。当初、入院や投薬治療が当然と考えられている統合失調症が、対話の力だけで回復するとの話に、専門家は懐疑的でした。これまでの精神医療の世界の常識とあまりにも違いすぎるからです。ところが、1980年からの実績の論文を読み、実際にフィンランドに研修に行った精神科医の中から、これは本物だと、日本でも活用したいとの動きが出始めました。
 僕は、「オープンダイアローグ」の話を初めて聞いたとき、その成果を、ちっとも不思議なことではないと思いました。僕たちが体験してきたことだからです。1965年にどもる人のセルフヘルプグループを作って以来、僕たちがやってきたことは、グループのミーティングでの「対話」でした。自分の経験の中で吃音について考えたことを、人生を通して培ったことばで話し合う中で僕たちは悩みから解放され、吃音と共に豊かに生きることができるようになりました。言語訓練では、僕たちの生き方までは変わらなかったでしょう。

「劣等コンプレックス」に気づいて

伊藤:長年吃音について「対話」を重ねる中、ある人の発言が、対話の大きな転換点となりました。

 何かしなければならないことでも、困難を感じると口実を作っては逃げた。それでも、自分はどもりだから仕方がないと、思い込もうとしてきた。そのことが恥ずかしい。責任逃れをしながら、ついついそうして自分に甘えた。ひょっとすると私は、どもりそのもので苦しみ悩むよりも、どもりを言い訳にして、意に反する行為をしてきたことに対して思い悩んできたことの方が、はるかに多かったのかも知れない。でも、そこから一歩も踏み出すことができず、その悪循環の中にどっぷり浸かっていたのである。どもりについて、本当には真剣に、考えてこなかった。

 これは、劣等性や劣等感を言い訳に、自分の人生の課題から逃げる、アドラー心理学でいう、「劣等コンプレックス」です。当時まだアドラー心理学を学んではいなかったのですが、その真髄をちゃんとつかんでいたことになります。言友会創立の5年後には、ほぼ、現在僕が考えていることに到達していました。その後、論理療法、交流分析、森田療法、アサーション、認知行動療法、ナラティヴ・アプローチなどを勉強してきましたが、それらのことから学んで僕たちが変わってきたというより、体験を通して対話を続けて得たことを振り返って、整理し、確認してきたように思います。

吃音についての「対話」を支えてきた「ネガティブ・ケイパビリティ」

伊藤:そういうことが僕たちにできたのはなぜだろうか。僕たちはアメリカの言語病理学の論文や書籍とは関係なく、自分たちが体験したことだけを頼りに、それを言語化して「対話」を続けてきました。その結果が、自分を苦しめてきたことが、論理療法で言う「非論理的思考」だと説明がついたり、「その人が問題ではなく、問題が問題なのだ」の「ナラティヴ・アプローチ」の考え方は、吃音氷山説そのものだと、結びついたのです。このような気づきを得たのは、日頃から積み重ねてきた「対話の力」だと言ってもいいと思います。
 最近、本が出版され、にわかに注目されようとしていることばに、「ネガティブ・ケイパビリティ」があります。これは、オープンダイアローグが言う、「不確実性への耐性」と同じです。つまり、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」のことです。僕たちは長年吃音に悩んできましたが、それは、原因も解明されず、メカニズムも分かっていない、謎に包まれた吃音につき合ってきたことであり、それは一つの能力だと考えることができるのです。
 「オープンダイアローグ」も、結論があらかじめ決まっておらず、見通しがない状態のままで対話が始まることが重要視されます。それに耐える力がないと、本人も、家族も、臨床家も、「オープンダイアローグ」を続けられません。
 僕自身が、小学校から高校まで吃音に苦しみ、学校が嫌で嫌で仕方がなかったのに、それに耐えて通学を続けたのも、考えてみれば一つの能力と言っていいのかも知れません。吃音は、ある人の前ではどもり、別の人の前ではどもらなかったり、あることばはどもるのに、別のことばはどもらなかったり、普段はどもりやすいことばなのに、ある時はまったくどもらなかったりする。そういう、訳の分からないものに、僕たちはつき合ってきた。僕たちには「ネガティブ・ケイパビリティ」があると、言えるのではないでしょうか。

「対話の基本原理」

伊藤:哲学者の中島義道さんは「対話の基本原理」として、次の12項目を挙げています。
(1)あくまでも一対一の関係である。
(2)人間関係が完全に対等で、「対話」が言葉以外の事柄(脅迫や身分の差など)に縛られない。
(3)「右翼」だから、「犯罪人」だから、など相手に一定のレッテルを貼る態度をやめ、相手をただの個人として見る。
(4)相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にする。
(5)自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれを引きずって語り、聞き、判断する。
(6)いかなる相手の質問も疑問も禁じない。
(7)いかなる相手の質問にも答えようと努力する。
(8)相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけていこうとする。
(9)相手と見解が同じか違うかの二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させる。
(10)社会通念や常識に納まることを避け、常に新しい了解へと向かっていく。
(1D自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、常に開かれる。
(12)それぞれの「対話」は独立であり、以前の「対話」でこんなことを言っていたから私とは同じ意見のはずだ、あるいは違う意見のはずだというような先入観を棄てる。

 中島さんは対話を、「裸の格闘技である」と、強いことばで表現して、「哲学的対話」を提唱し、その中では「自らの生きている現実から離れた客観的な言葉は使わない。自分の実感や、信条、価値観をもとにした言葉を語る」ことを勧めています。

「子ども哲学対話の7つのルール」

伊藤:今、日本の教育現場に「子ども哲学対話」を取り入れようという動きがあります。子どもが哲学的な対話をすることは、僕は2011年のフランスのドキュメンタリー映画『ちいさな哲学者たち』で観ました。フランスの、教育水準のあまり高くない地域の幼稚園に、哲学の時間が設けられ、「愛とは何か」「死ぬとは」「友情とは」などのテーマで話し合っています。その幼稚園の子どもたちが、哲学の時間がとても楽しいので、小学校に哲学の授業がないと知って、「それなら行きたくない」「小学校でも哲学の時間を作ってほしい」と言っていました。フランスでは、学校で「哲学的対話」が行われ、家庭に、社会にと広がっています。日本でも、批判的思考を育て、創造的思考を育て、自分を大切にする考え方を育てるためにと、「子ども哲学」が教育現場に広がっています。大阪吃音教室では「対話」は続けてきましたが、今日は敢えて「哲学的対話」を意識して、「子ども哲学」の7つのルールに従って、吃音について話し合います。

(1)何を言ってもいい
(2)否定したり、茶化したりしない
(3)発言しなくてもいい
(4)お互いに、分からないことは積極的に問いかける
(5)本や世間で得た知識ではなく、自分の体験を通して話す
(6)話がまとまらなくてもいい、意見が変わってもいい
(7)時間が分からなくなってもいい

話し合うテーマを決める

伊藤:まず、「哲学的対話」になりそうなテーマを出してください。

・「人がどもることへの恐怖を持つのはなぜか」
・「どもることでむなしさを感じるのはなぜか」
・「人がどもりにとらわれるのはなぜか」
・「人がどもりにとらわれなくなるとは」
・「どもりがなくならないのはなぜか」
・「どもる人がどもることを避けるのはなぜか」
・「どもることの恥ずかしさがなくならないのは」

 では、挙手の多かった、「人がどもりにとらわれるのはなぜか」に決定します。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/06/29

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