私のしてきた失敗/どもりの謎~神山五郎先生の数多い論文の中から~
神山五郎先生が残されたたくさんの論文の中から、神山先生らしい論文を選びました。ずいぶん前の論文ですが、決して色あせていないと思います。2編、ご紹介します。(「スタタリング・ナウ」2017.7.18 NO.275 より)
私のしてきた失敗
大阪教育大学教授 言語障害児教育教員養成課程 神山五郎
1 私のどもり
今日は、私が今までにしてきた失敗を主に、お話をしたいと思います。
私は小学校1年の時からどもりで悩みました。私の場合、7歳頃から段々ひどくなりました。一番ひどくどもり、そして苦しんだのは、23、4歳の頃でした。吃音者は普通、40歳を過ぎると、図々しくなるのか、どもりも消えてゆくのですが、私の場合は少し心臓が弱かったせいか、満47歳になった現在も相変らずどもっております。
私が小学校1年でひっかかりはじめた時に、どう考えて、自分の吃音をひどい方へと発展させてしまったのか? そのことを中心にお話をしたいと思います。
2 論理的にどもりを完成
私は小学校に行くまで、相当に早口でした。「あの子の言うことは早くて分からない」とよく言われていました。小学校の1年の1学期の時、「一寸法師」という題の文章の朗読をさせられました。その時、何かのはずみでしょうか、「一寸」と言ってその後の「法師」の「ボ」がでてこないんです。「一寸」・「一寸」と言ってしまったわけです。自分でも言うのはおかしいんですが、その頃の私は、比較的素直でいい子だったんです。また神経質でもありました。すなわち、暗示にかかりやすい性格であったわけです。ですから、つまって読めなかったことが、ショックとなって私の心に深くしみこんでしまいました。
それからは、教室で当てられて本を読む時に、「またひっかかるんじゃないかなあ」という不安がずっとありました。「ひっかかるんじゃないか」と思えば思う程、ひっかかるわけです。そして少なくとも、朗読における吃音は、ちゃんと身につきました。さらに、それが身につきますと今度は、「お友達と話す時や、先生の質問に応答する時にはどもらないのは何故か?」と考えました。そうするとそれがあてはまって、お友達や先生と話す時にもどもるようになってきました。つまり、学校では見事にどもるようになりました。
「学校でどもっていて、しかも話すことは学校も家も同じはずなのに学校でどもって家でどもらないのはおかしい」とまた考えました。そうすると学校だけでどもっていたのが、家でもどもるようになりました。
こうして、私の吃音は小学校2年の頃には完成しました。私の吃音の完成への道というのは、今お話したように非常に理屈っぽくきているわけです。
3 マイナスのイメージとスキー
この種の体験は皆様方もおありだろうと思います。例えば、スキーのやり始めの頃を考えてみましょう。まだスキーに慣れない内は、滑り降りる前にまず下を眺めます。「あそこに前にひっくりかえった人の穴がある」、「あそこにスキーの先を入れるとひっくりかえるぞ」「あそこへ行くとまずいからこっちへ行くんだ」と下をびくびく見定めてからスタートします。そういうところに目が向いていますと、いつの間にかスキーがちゃんとそちらの方へ引き寄せられてゆきます。つまり、自分で作った悪いイメージに合ったことをしてしまいます。まとめますと、「こうすると失敗する、あそこさえうまくやれれば」と欠陥の方に中心をおいたイメージを心に持っておりますと、必ずそれが実現すると言うことです。
このような経験は、吃音の完成の過程と同じであろうと、反省しております。
4 プラスのイメージを持てば
そこで、「一寸法師」の「ボ」でひっかかった時、「そのほかの『ボ』ではひっかかっていないんだから『一寸法師』の「ボ」でひっかかるのはおかしい」という理屈を考えればよかった。そうしなくて、ことばのひっかかる方にイメージの中心をおきますと、悪いイメージが頭の中に固定してしまいます。そういう欠陥の方に中心をおいた理屈ではなく、自分の持っている能力に正の面と負の面とがあるとすれば、正の面の能力に中心をおいて、考えてゆけば、欠陥(負の面)に目をむけたことによって生じたイメージは消えていたと思うんです。そうすれば、「本を読む時にどもるが、応答の時、又は家ではどもらない」、「よって自分が朗読の時、どもるのはおかしい」と言う考え方がでてきたであろうと今では思ってます。
5 マイナスのイメージで気持ちが悪くなる
それで、私の今までやってきたことを反省致しますと、どうもろくなことをしてきていないんです。例えば、友人と一諸に食事に出かけたとします。その友人は和服を着て帯をきっちりしめている。食事が終って、「おいしかったね」と言っておけばよいのに、変に気をきかせてマイナスの面にすぐ目を向けてしまいます。「君はそんなにきっちり帯をしめ、あれだけ食べたんだから気持ちが悪くならないとよいが……」と”親切な”お見舞いをしてしまいました。その時までその友人はただ「おいしかった」という気持ちだけなんですが、私のことばで、悪い方のイメージをかきたてられてしまうんです。すると友人も、「確かにこんなかっこうをして、あれだけ食べたんだから」と思い、急に気持ちが悪くなり出します。悪いイメージを持たせて、悪い方に引っぱり込んでおきながら、親切なんだ、思いやりなんだと、私は勝手な思い違いをしていたと思います。
6 教育ママとマイナスのイメージ
そう思って新幹線なんかに乗っていますと、子供をつれた”教育ママ”と言われるような人達が、私と似たことをしております。子供が元気にしておりますと、「坊や、気持ちが悪くならないか?」なんてママが言っているんです。しばらくすると、元気にしていた子供の様子が見事に逆転するんです。”教育ママ”と言うんでしょうか、インテリの奥様の持っている一つの特徴が見られる光景です。
「入学試験に落ちないように」、「病気にならないように」、「どもらないように」とか言うマイナスのイメージを持っていて、「試験に落ちないよう勉強しなさい」「どもらないように話しなさい」と言う。こういう注意(暗示)の与え方こそ問題でしょう。
7 ころぶなと注意するからころぶ
身体障害児のことですと、肢体が不自由なお子さんがいるとします。そのお子さんは普段手助けなしに学校の階段が登れるんです。ところが、お母さんが学校へ一緒に来ると、そのお子さんが階段をあがるまえに声をかけます。「坊や、この階段は急だからころばないように注意してあがるんですよ」と注意しますと、お子さんはその予言通り必ずころんでしまいます。
このようなことが、社会には案外多いと言うことに気がつきました。
私が人前でお話をする時も、「どもらないで話そう」と心に描いている時は、だいたいがうまくいかないんです。「どもる」「どもらない」ではなく、「どうしたら聞き手のかたによくわかってもらえるか」と聞き手のことを先に考えて、”話の内容”に心を集中した時は、うまくいってます。
マイナス面を中心に考えていくと、ますます悪いイメージを持ち、結果として悪循環におちいってしまいます。
8 マイナスのイメージを消すには
それでは、自分の今まで持っていたマイナスのイメージを消してゆくには、どうすれば良いかということを考えたいと思います。
―本当に自分のしたい仕事―
―本当の自分のしたい勉強―
―本当に自分のしたい研究―
―お付き合いじゃない本当にしたい遊び―
そう言ったものに打ち込むことがきめ手だと思います。本当に自分の生きがいをそこに見い出せるような暮らし方をしていくことが、マイナスのイメージを消していく一番よい方法だと思います。
9 自分を知る
それには、”自分を知る”ことが肝心です。「自分は何だ」、「私は何を一番やりたいと思っているのか」を知ることが、吃音の問題解決の必要条件の一つであると考えています。そして、自分が本当にしたいことに集中してゆくように工夫をしてゆくことが必要となりましょう。
10 やりたいことに集中
人間はいつか死ぬということから考えて、いつまでも”他人の目”を気にし、”他人の考え”に義理だてばかりする必要はないわけです。自分の「生」というものをもっと大切にしていいと思います。禅に「随所に主となる」という言葉があります。要するに、「どもってはいけない」、「失敗したらいかん」と言うケチな考えでなく、もっと自分が本当にしたいことを心に生き生きと描いてゆき、そしてその仕事につっこんでゆく。仕事をやる時は徹底的にやる、その代わり仕事が済んだら思い切って遊ぶんです。
そのようなリズムのある生活になってゆかないと、うっかりすると吃音者は一生を棒に振りかねないでしょう。
11 話さなくてすむ仕事につくと
―本当にしたい仕事―
―本当にしたい研究―
を考えるのでなく、「話さなくてすむ」、「どもらなくてすむ」という、マイナスのイメージを持って職業を選んだ人のお話をしてみたいと思います。
私の所に相談に来られる吃音の方で、特に深刻なお話をお聞きするが、○○試験場、○○研究所とかにお勤めの方です。「話さなくても済むだろう」と思ってこういう所にお勤めになっている方です。植物や、機械を日頃相手にしていますから、普段は話す必要はないわけです。しかし、試験場や研究所ですとたまに研究発表しなくてはなりません。普段話をしていなくて、発表すべき機会が不定期にあるものですから不安でたまりません。「発表しなければならない」という圧迫と、「どもるんではないか」という不安で、非常に気の重い毎日を送ることになってしまいます。
○○試験場とか、その他話をしなくてもよい所へ進まれた方は、せっかくいい地位まで行ってもそれをやめて、他の職種におつきになるということがよくあります。
12 話さなくてはならない仕事
反対に、話さなくてはならないセールスの仕事などに進んだ方からの相談というのはほとんどありません。相談に来られた人でも、しばらくすると、「仕事をやっている内に、どもりなんかふっとんでしまいました」と報告してくれます。図々しいのになると、「私はどもりを売り物にしています。かえってどもった時のほうがよく注文が取れます。どもりだからこれだけの成績が上がったんですよ。」と言っています。
13 居直り
吃音の方が、そのマイナス面から逃げ出すような形になると、マイナス面はますます大きくなって追っかけてくるでしょう。しかし一度、どもりと対決して、居直ると、どもりという幽霊はスーッと消えてゆく。自分がどう居直るか、その心構えをつくることが吃音の問題の解決に大切と思います。
居直ると同時に、「自分の本当にしたいこと」を見つけ出し、それにあなたが集中されることこそ痛快なことです。やりましょう。
1973年11月18日、大阪府枚方市教育委員会主催の「吃音相談会」でのお話をまとめ、小見出しをつけました。そのあとで筆者の校閲をうけました。
どもりの謎
国立聴力言語障害センター言語課長 神山五郎
はじめに
どもり(吃り・吃音)の人に一度も会ったことのない読者は少ないと思う。普通の交際範囲を持つ人なら、どもりと思いあたる人をその記憶の中に持っているものである。もし持っていなければ、その人はまれな例外か、あるいはどもりの症状をよく知らぬ人であろう。まず、どもりの症状を簡単にまとめておく。それがどもりの人をよりよく知る―理解する―のに必要である。次に、その理解の上に立ってどもりについての謎をいくつか書いて行こう。
どもりの症状
「机」というのに「つつっつくえ」といえば、誰にでもどもったことがわかる。これを連発型のどもりと呼ぶ。このほかに、よく見落とされる型のどもりとして口ごもり型または難発型のどもりがある。この型では何かものを言う時に言い始めにだけ、口が重くなり、言いにくそうになるのである。つまり一度最初の言葉が口から出てしまえば、あとは割と支障なく話せる。この難発型のどもりが大人では多いので、うっかりしていると見落としてしまう。どもりの人に会ったことがないという読者の多くは、この型のどもりを知らないのであろう。まして難発型のどもりの人には、第一音が言いにくくなると、言おうと思った言葉を言いやすい第一音の言葉で素早くすりかえてしまう知能犯が多いので、どもりと見破りにくくなる。
例えば、「神山」と言うべきなのだが、第一音の「カ」が言いにくいと、「私神山」というように「ワ」から始まる一種の枕詞をつけて言い抜けてしまう。「おととい」というべきなのに「昭和41年10月1日」とすりかえる位は日常よく行なわれている。ひどい時には、話の中心となる言葉や人の名前が言えぬばかりに、話題をかえてしまうこともある。こうなると、話の焦点があわなくなったり、論旨が一貫しなくなったりする。こういう症状ではどもりの人はますます損をする。
文明の利器である電話もどもりの人にとっては大敵である。こんな憎らしいものはない。ましてや早口でペラペラ質問して来る電話交換手などは憎みてもあまりある存在である。事務所に電話のかかるたびに、心臓がどきっとしているどもりの人は、何かといって電話口に出たがらない。もし、彼あてに長距離電話などかかれば、便所にでも逃げ込むかもしれない。
どもりの症状はまだまだある。しかし、症状自体が多彩であり、また謎なのだから、この辺で本論に入ろう。
どもりの謎
●多くの学説
「どもりは謎であり、未知のことだらけである。研究者にとってこんな張りあいのあることはない。しっかり勉強して下さい」と大学院の学生を激励したとしよう。すると、ほどなくその学生がどもりについて非常に多くの研究がなされているのに驚いて、再び私の部屋を訪ねてくる。そして日く、「どもりについては非常に多くの学説や研究があり、またこまかい問題についても一応の結論が出されています。それなのになぜ、どもりは謎なのですか?」と。
ここで私は思わずニヤリとする。私がその時に放つ質問は、「なぜ、多くの学説があるのでしょう……」である。一般に判らぬ問題ほど、多くの憶測(学説)を持つ。すなわち、多くの学説があるということが「どもりは謎である」ことを立証している。
どもりであり、またどもりについての世界的な学者ウェンデル・ジョンソン Wendell Johnsonは「群盲象をなでる」とこの辺の事情を言っている。たしかに、多くの研究もなされているが、それらの結果は互に矛盾したりして、どもりの統一的な説明原則(定説)を樹立するのは非常に難しい。今日までの多くの学説は、自説に都合のよい証拠だけを取り上げて、他の矛盾する証拠を軽視または無視している。どもりはまさに巨象なのであろうか? また、なで方が悪いのであろうか?
●多くの研究
どもりについて多くの研究がなされていることを前項でのべた。たしかにそうなのだが、ここでも問題はある。たとえば、どもりの人では音源測定能力が劣るという論文があったり、また、どもりの人ではフリッカー値(明暗の光刺激に対するちらつきの隔合域値)が低い、という報告に接したりすると、それを信じたくなるものである。それも統計的処理などほどこされているとますます説得力が大きい。しかし、それを疑った研究者―この場合では私自身だが―が、再度この問題を研究して見ると、音源測定能力にしても、フリッカー値にしても、どもりの人はどもりでない人とこれらの能力について同じであるという結果となってしまう。これを「追試に耐えなかった」というが、どもりの研究では追試の結果、否定されたものが多い。つまり、細かい個々の研究にしても、その研究の流れにそって考えると、昨日の学説は今日すでに破られていることは多い。
もう一つ例をあげよう。左手ぎきを無理に右手ぎきに矯正するとどもりになるという説がかつて米国を風靡した。有名などもりの効手説である。この説の発生から衰退への経過についても、追試による否定が頻繁に見られる。そして結果として「効手とは何か?」という根本問題と、多くの左手ぎきのどもり成人とを米国に残した。米国民全体を使ってどもりの効手説の検証をしたことになったが、とくに米国でどもりが目立って減ったとは思えない。
●どもりとは何か
効手の研究から始まって、「効手とは何か?」という問題提起に立戻ったように、どもりの研究では絶えず「どもりとは何か?」という根本問題に立帰らされている。とくに、幼児期のどもりは病的なものか、生理的なものか議論のまとである。生理的だと考える立場の人は、わが子をどもりと勝手に診断する母親が、どもりをつくるのだときめつける。病的だと考える見地の人は、出産時の障害や遺伝または代謝に原因があろうという。現在のところでは、生理的だと考える立場がやや優勢だが、例によって明日のことは判らない。
大人のどもりにしても問題はある。それは客観的には相当にどもっていても、「俺はどもりでない」と威張っている人の取り扱いである。彼をどもりとする立場と、その逆の立場とある。逆の立場とは、客観的にはどもっても、本人がその現象に悩んでいなければ、どもりとは言わない立場である。しかも、さらにそれに条件をつけたりする。つまり、神経系統に何ら認めうる障害を持たないどもりの人だけを純粋のどもりとする。つまり純粋のどもりとなるためには、次の三条件をととのえることが必要だという。
①客観的に言葉が非流暢であり
②本人がそれを悩み、避けようとし
③しかも神経系統に認めうる欠陥がない
これが現時点における主流派の意見である。このようにどもりを定義するとしても問題はまだ残る。それは言葉の非流暢さの測定がいろいろな理由で非常に困難であり、また神経病学は日進月歩であるからである。昨日の神経学的検査では、異常所見が見過されても、明日の検査では検出されるかもしれない。中枢神経系の学問と、生化学の進歩はめざましい。この立場に立つと、どもりの定義は絶えず隣接科学の進歩を追わねばならなくなる。そこにこの定義の適用上の問題がある。
●どもりの発生率と性差
どもりの定義には前述のように問題がある。それでは、独立の研究者が学童のどもりを各国、各地方で調査すると、どもりの発生率が大幅に違いそうである。しかし実際には、1%内外という、割に一定の発生率を示す。ただし、時に、子供の言語行動に対する社会の評価の差によって発生率に差が生ずるという論文もある。例えば、インディアンの各種族におけるどもりの発生率の差の研究など面白い。
なぜ1%内外の発生率を示すか? この問題は見落されやすい大問題である。文化人類学・人類遺伝学・集団遣伝学などからのアプローチが必要であろう。とくに最近の疫学の進歩は見覚しい。ガンの疫学とともにどもりの疫学も是非進歩して欲しい。
発生率の研究の特に有力な手がかりとして、発生率に性差があることがあげられる。すなわち、男児には女児の3倍以上のどもりを見る。統計的には400人の学童のうち4名がどもりで、内3名が男児である。この差の説明にも満足なものがない。ここにも謎がある。この謎がとけて、男女同数の発生率となるだけでも400人中2名のどもりとなるべき男児がどもりから予防されることとなる。つまりどもりの人口は一挙に半減する。
●歌ではどもらぬ
どもりとは思えぬ自慢ののどを持ち(田中)
どもる子のどもらぬ歌をほめてやり(加藤)
というように、どもりの人でも歌をうたうのが上手な人がいる。歌ばかりでなく、謡曲、浪花節、詩吟などで多くの場合どもらない。これも事実が認められているだけで、何ら満足な説明はない。節をつければどもらぬわけだが、一方、普通の会話から極端に節を除いて、まったく一本調子のリズムにしてもどもらない。田中角栄氏に限らず、多くの人がこれらの現象を利用して、どもりと戦っている。筆者の行なった新聞を利用しての調査でも、謡を学んで効果があったという人が多い。
●大事なことでどもる
核心に触れてどもりがひどくなり(小林由多香)
歌の場合の逆である。大切な是非言わなければならぬことではどもり、どうでもよいような日常の茶呑み話ではどもらない。とくに窓口で切符や切手を買うのはとても難しい。行き先の駅名が言えぬばかりに、ほかの駅の切符を買ってしまうどもりの人も少なくはない。まして自分の後に長い行列でも作って人が待っていたら、まったく目もあてられない。しかも無駄口はきけるのである。これがどもりの人にとっての最大の悩みの一つである。子供では自宅で朗読の練習をよくしていっても、学校であてられた途端、どもってしまい、不勉強で読めない子供とまったく同じになってしまう。子供はがっかりである。これらはどもりの症状であるとともにどもりの謎でもある。
●改まるとどもる
面接が心配になるどもり癖(田中)
大事なことだから改まるといえば、前項と似てくる。改まるとどもるのが一般であるが、時に、改まればどもらぬ人もいる。舞台でのせりふ、演説、多数を対象にする挨拶などではまったくどもらぬのに、気のおけぬ対談や家庭内ではどもる人がいる。普通のどもりの人と逆である。この辺からどもりの原因が決して一つでないというヴァン・ライパーのどもりの多因子説に対する共感も生まれてくる。
改まるのと関連して、酒(アルコール飲料)の影響もさまざまである。少なくとも、陶然とするに従い雄弁となる型や、その逆の型などの二型はある。筆者の記憶では、筆者自身昔は前の型であり、最近では後の型である。このあたりにもどもりの謎をとく鍵がひそんでいるかもしれない。
●どもりかたに変動がある
どもりが完全に消えてしまうのではないが、季節や日や時間によって個人のどもり方は大幅に変化する。どもりの子供を持つ親の多くは、この波の存在を訴える。どもる成人にもこういう訴えはある。この変動の要因が判らない。気象因子なのか、いわゆるバイオリズムなのか?いずれにしても、この要因が発見され、どもり方をコントロールする方法が実用になれば、どもりの人のどもり方は全般に著しく軽減しよう。そして、実際に話すときの不便は大幅に改善されることが予想される。
●二人で朗読するとどもらない
本を朗読する時と、自由な会話の時とのどもり方を比較すると、ここでもいくつかの型があるのに気づく。朗読の方が難しい型・会話の方が難しい型・差のない型などとなる。さて、朗読が難しいとしても、二人のどもりの人に同じ読本を与えて二人で斉読させるとほとんどどもらない現象がある。もちろん、一人ずつ読ませればどもるのである。この現象の説明がまた不完全である。二人で読めば安心できるからどもらぬという程度の説明が多い。これでは「安心とは何か?」ともう一度質問しなければならなくなる。
●聴覚を封鎖すると話しやすい
どもる人の両耳に密着するイヤホーンをあてて、「ガー」という強い雑音を聞かせながら話させると、どもり方が少なくなることもある。この現象もどもりの人すべてに共通ではない。つまりどもりの分類に役立つかもしれない因子の一つである。
聴覚の封鎖がなぜどもりの程度を軽くするか? 抜本的な説明はまだない。しかし、関連する現象として遅延再生効果またはリー効果というものがある。前と同じく、イヤホーンを通じて聞くのであるが、聞く中味が違っている。中味は0.1秒位ずつ遅れている自分の話し声、すなわち山彦である。この遅延再生された自分の声が話す時にとても邪魔になり、遂にはどもるようになる。こうやって作られたどもりを人工どもりと名づける人もあり、またどもりと全く関係ないという人もある。とにかく、どもりと似た現象であることには変りない。自動制御系から説明がつけやすいので、この線をゆく研究はわりに盛んである。
●適応効果
便箋1、2枚に何かを書いて、それをどもりの人に繰返し読ませると、読むに従って1回より2回、2回より3回とどもり方が軽くなり、便箋の文章を読み終るのに要する時間が短くなる。これを適応効果という。ただこれには限度があり、4回目位までで読み方の改善はとまる。あとは何回読んでも差はなく、あまり繰返すと時にはかえってどもるようにもなる。もっとも、適応効果はどもらぬ人にも多少は見られるわけだが、どもりの人ほど著しくない。
●言いにくい音が変化する
連発型・難発型を問わず、特定の音でよくどもる。一般にはタ行・サ行などの音が苦手の音であるが、もちろん例外もあり、母音だけどもる人もある。しかし、不思議なことに、若干の音は時とともに変わる。あまり短い期間には変らぬが、年単位ぐらいで変わる。
●ディストラクション効果
よく耳にする私どもに対する依頼の一つに、「私の友人は某どもり矯正所に3回通っただけで、全くどもらなくなった。是非私のどもりを1週間で治して下さい」というのがある。その時に私は3回通っただけでどもりが完全に治ったという人の経過を聞くことにしている。それも完全に治ったといってから3ヶ月後の経過を聞いている。すると多くの場合、不幸にも前と同じか、または前よりどもりがひどくなっている。どもりの大きな謎の一つに、ディストラクション効果というものがある。それは、手を振りながら話したり、不自然な調子をつけて話したりするとまったくどもらなくなる現象である。前に書いた歌の効果ともかさなるが、このディストラクション効果は非常に有効である。ただし、その効果は2ヶ月位しか続かない。外国語で話すことも、それに馴れないうちは、ディストラクション効果がある。したがって、どもりかたが少ない。しかし、外国語に慣れるに従い、ディストラクション効果は薄らいで、だんだん母国語同様にどもるようになる。一部のどもり矯正所では、ディストラクション効果のみに頼ってどもりの治療をしてる。結果として、一時とてもよくなるが、ぶりかえして落胆するどもりの人が多い。
むすび
どもりの症状から始めて、その謎のいくつかについて記した。どもりを初めとする多くの言語障害は、人間の言語行動面での能力を奪っている。その能力をいかにしてとりかえすか? 本年5月の本誌に阪大の澤鴻久敬教授が「医学の反省」の項として「人間を今まで以上に聡明にまた有能にする手段があるとするならば、それは医学にこそ求めるべきであろう。」〔デカルト『方法叙説』第六節〕を引用している。言語障害の医学に関係するものにとって、これは味わいのある言葉である。
文献に、出版元や発行年月日がありませんでしたが、1964年にアメリカから帰国され、国立聴力言語センターに数年間在籍されていたので、その間の論文だと思われます。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/06/26

