ネガティヴ・ケイパビリティ

 「吃音を治す、改善する」ためには、吃音治療や言語訓練しかありませんが、「治らない、治せない、ともに生きる」となると、さまざまな分野から学ぶことができます。21年間続いた吃音ショートコースの場は、その様々な学びの場でした。
 そのたくさんの学びの後に出会ったのが、「ネガティヴ・ケイパビリティ」でした。新しい概念でしたが、僕には、すとんと落ちました。いろいろな講演会や研修会で、このことについて話すと、多くの人がうなずいてくれました。すぐには解決できない場でふんばり、持ちこたえていくことも、大きな力だったのです。
 「スタタリング・ナウ」2017.6.20 NO.274 より、巻頭言を紹介します。

  ネガティヴ・ケイパビリティ
                      日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 「吃音を治す、改善する」は、治療法が確立し、治せる時代になって初めて言えることだ。「ゆっくり、そっと、やわらかく」の話し方を練習する以外に治療法のない現実の中では、「吃音は治らない、治せない」と考えた方が、どもる本人や保護者にも、臨床家にとっても益するところが大きい。治療機関も多く、治すことにこだわるアメリカ人も、結局は治らずに、吃音を認めて生きる道に立たざるを得ない。その現実を、映画『The Way We Talk』が、明確に伝えている。(「スタタリング・ナウ」272号・273号」)

 「吃音を改善する」には、吃音治療・言語訓練しかないが、「治せない」となると、吃音とどう向き合うか、考え、工夫せざるを得なくなる。そこには「吃音で良かった」とまで言う、吃音の豊かな世界が広がっている。
 私は、原因究明や言語訓練に終始するアメリカ言語病理学に関心がなくなった。代わりに、治せない、簡単には解決しない、人間の普遍的な悩みや問題に関心を移し、様々な領域から学んできた。

 そして、また新しい概念、「どうにも答えの出ない、対処しようのない事態に耐える能力。性急に証明や理由を求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」の、ネガティヴ・ケイパビリティ(negative capability)に出会えた。

 「私たちが、いつも念頭に置いて、必死で求めているのは、問題解決能力だ。しかしこの能力では、表層の「問題」のみをとらえて、深層にある本当の問題は浮上せず、取り逃してしまう。その問題の解決法や処理法がない状況に立ち至ると、逃げ出すしかない。それどころか、そうした状況には、はじめから近づかない。私たちにとって、わけの分からないことや、手の下しようがない状況は、不快で、早々に解答を捻り出すか、幕をおろしたくなる。しかし私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちている。むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多い。だから、ネガティブ・ケイパビリティが重要になってくる。私自身、この能力を知って以来、生きるすべも、精神科医の職業生活も、作家の創作行為も、随分楽になった。ふんばる力がついた。それほどこの能力は底力を持っている」。(帚木蓬生)

 帚木さんは、ネガティブ・ケイパビリティへのスクールカウンセラーのコメントを紹介する。

 「学校現場は、すぐに解決できない問題だらけで、教育者には問題解決能力以上に、「ネガティブ・ケイパビリティ」が重要になってくる。子供たちにも、ネガティブ・ケイパビリティを培う視点も重要だ。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。消極的に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められている。どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来る。「すぐには解決できなくても、なんとか持ちこたえていける。それは、実は能力のひとつなんだよ」と子供にも教えてあげたい」
 『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』朝日選書 帚木蓬生

 私が、何一つ楽しいことのない学校へ行き続けていたのは、このネガティブ・ケイパビリティがあったことになる。耐えている中で、何かの力が熟成され、今の幸せな人生になったのだろう。
 この能力は、どもる子どもや保護者、臨床家にとって、極めて重要だ。原因もわからず治療法もない吃音が、今後、どうなっていくか不安だ。いつどもるか、どの場面でどもるか、どもる本人も、確実にはわからない。臨床家も、かなりどもる子どもを目の前にして、なんとかしてあげたいと思うだろう。しかし、吃音は生活の中でこそ変化するものだと信じて、子どものそばにいるしかない。一人では耐えられないが、一緒に考え、見守ってくれる人がいれば、耐えることができるのだ。
 この6月、県難聴・言語障害教育研究会鹿児島大会の講演で、吃音には、ネガティブ・ケイパビリティが必要だと話した。興味をもって下さった人が多かった。
 ナラティヴ・アプローチ、当事者研究、レジリエンス、オープンダイアローグに通底しているのが、このネガティブ・ケイパビリティだと思う。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/06/16

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