ちょいワルおやじたちの「私は”私”の生き方」トーク~自分に向き合うこと、「私は”どもり”」から「私は”私”」まで~ 後半
2017年1月9日、東京渋谷のLoft9で、上映&トークショーが行われました。オープニングは、スキャットマン・ジョンの映像と音楽、そして映画は、アメリカのどもる青年、マイケル・ターナー監督の『TheWayWeTalk』、2つの映像作品の後で、トークショーです。このユニークなイベントを企画・主催したのが、「スタタリング・ナウよこはま」の土井幸美さんと瀬川幸子さん。ビールやワインを傾けながら、映画とトークを堪能しました。そのときのトークの様子、一昨日の続きを紹介します。(「スタタリング・ナウ」2017.5.20 NO.273 より)
ちょいワルおやじたちの「私は”私”の生き方」トーク
~自分に向き合うこと、「私は”どもり”」から「私は”私”」まで~ 後半
【トーク登壇者】
進行・永田浩三(ながた・こうぞう)
主にドキュメンタリー、教養・情報番組に携わる。特に『クローズアップ現代』『NHKスペシャル』などのプロデューサーとして、NHKの看板番組を支え続けた。現在は武蔵大学教授。
練馬区を拠点に、市民や学生たちと取材・制作した番組を、さまざまな映像祭やケーブルテレビなどで発表。また、精神保健福祉士として、自殺対策や認知症の人とともに生きる社会の実現の活動に力を入れている。
白石正明(しらいし・まさあき)
大学卒業後、中央法規出版に入社。96年に医学書院へ。担当する「シリーズケアをひらく」は、『べてるの家の「非」援助論』(浦河べてるの家)や最新刊の『介護するからだ』(細馬宏通)など計30冊刊行中。同シリーズの『逝かない身体』(川口有美子)が大宅壮一ノンフィクション賞、『リハビリの夜』(熊谷晋一郎)が新潮ドキュメント賞、『驚きの介護民俗学』が医学ジャーナリスト賞を受賞。近作としては『ユマニチュード入門』(イヴ・ジネスト他)、『オープンダイアローグとは何か』(斎藤環)など。現在、「緊張と自由」をテーマにした書籍を企画中。
■悩む力
永田:白石さんはべてるの家の本を出されて、伊藤さんはべてるの家とのコラボレーションもされています。今日はそのべてるのことを、『悩む力』(みすず書房)というご本に書かれた斎藤道雄さんも、この会場にいらっしゃっています。この「悩む」ということはとても苦しいことですが、それを「力」に変えていくというのは、どう考えていったらいいことなんでしょうか。先ほど伊藤さんは、21歳までずっと苦しんできて、非常に素晴らしい方との出会いがあって変わったと話されました。ただ一般的にはどうしても、「苦しいから、これは助けてあげなきゃいけない」「セラピーが必要でしょう」みたいなことに、なりがちだと思うんです。
伊藤:そうですよね。
永田:そこをどう踏み留まって、人との関わりの中で、自信をもっていく。自分は自分でいいんだという気持ちに変えていけるのか。これは簡単なことではないようにも思うんですが、そうしたことについて、どんなふうに考えていらしゃいますか?
伊藤:映画監督の羽仁進という人が『放任主義』(光文社カッパ・ブックス)という本だったかで、「下手な悩み方と上手な悩み方がある」という言い方をしていました。僕は21歳まですごい下手な悩み方をしていました。それはどういう悩み方かというと、やったら出来るかもしれないのに、どもりのせいにして逃げていた。だから、結局その時はあることに挑戦して、うまくいかずに自分が傷つくという経験もしなかった。
僕は小学生といっぱい対話をしますが、その小学生から「伊藤さんは、どもることで困ったことがありましたか?」という質問がありました。子どもたちは「いろいろあったよ」という返事を期待したのかもしれないけれど、「僕は困ったこと、全然ないんだよ。どうして困ったことがなかったと思う?」と子どもたちに問い返しました。
そうすると「あまりどもらなかったから」と、子どもたちは答える。けれど実際はそうではなくて、僕が困らなかったのは、逃げて、逃げて、逃げまくって、現実に直面しなかったからです。音読で失敗して赤恥をかいたり、発表して嫌な思いをしたりというところからも逃げていた。だから現実に直面せず、逃げてばかりでは何にも生まれなかったんです。そうではなく、ちょっと何かに挑戦して、失敗をして、「ああ、失敗をしたなあ」と思って、そこで悩む。そうすると、じゃあ次はどうしようかとか、何かいろいろな工夫が出てきたりする。
それが僕の場合、どもりを否定し、どもりを隠し、逃げていくだけで、かえって悩みが深まるばかりだった。だから、悩む力が本当に生きる力になるには、厳しいけれども、外に出ていかなければならない。「世の中はそんなに悪い奴ばかりではないから、苦しいけど、どもって言いたいことは言おう。話せることは、話そうよ」とポンと背中を押す。そうやって励まし、勇気づけるのが、僕は言語聴覚士やことばの教室の役割だと思うんです。そういうふうに外に出て行って、日常生活に出ていったら、確かにそこで傷ついたり、苦しんだりすることがある。だけど、その中で悩んで、考えるからこそ、どもることばも変わっていくし、向き合う力も変わっていく。
その時、スピーチセラピストやことばの教室の教師は、そこに出ていけるように、転ばぬ先の杖をまずは作って、「この杖があるから、安心して出て行きなさい」と言おうとしたりする。けれども、そんな安心できる杖なんてないので、「どもっても大丈夫だ」とかいろんなことを言う。そう言われても、本人がほんとに「あ、どもっても大丈夫なんだ」という経験をしないかぎり、できるなんて思えない。
僕も友だちがいない、恋人がいない時に「いやあ、どもっていても恋人ができるよ」と何回言われても、恋人ができるなんて全く思えなかった。それが、実際にどもりながらしゃべっていく中で、「どもってる伊藤さんが素敵だ」と言われたりすると、「ああ、そうか。どもってても恋人ができるのか」となる。だから何回「どもっても大丈夫」とか言われても、それだけではほとんど何の役にも立たない。経験して、苦しんで、そこで体験していく以外ないので、やっぱり専門家は、背中をポンと押すことが役割なんじゃないかと思います。悩むということに関しては、僕は損な悩み方を21歳までしてきたので、「あなたは、これからまっとうに悩んで、その中からつかめるものが、とっても大きいぞ」と言いたいです。
■リストの順番を下げる
永田:いまの世の中、たとえば出版に関してなら、「困っている人が、こうすれば大丈夫という答えを求めているから、そういう本を出さなきゃ」と言われてばかりいるように思うんです。けれど、白石さんは本作りをされていて、あえてそうしない。もうちょっと複雑な「現実を伝える」みたいなことを一所懸命されているような気もするんです。そのへんの白石さんのこだわりを少しお話しいただけますか?
白石:基本的に売れる本というのは―自己啓発本なんかがその典型ですが―「こうすれば、こうなります」という本なんです。あるいは「こういう症状があったら、こうすればいい」という本で、そこでは原因と結果が一対一で対応しています。でも現実の世界は、その方法をやってみても違う結果がたくさん出てきたりする。そういう多様性に開いていく方を僕はやりたいと思っています。
治療に関しても、どうしても治療するかしないかという二者択一になってしまいがちですね。今日の映画で僕が一番素晴らしいと思ったのは、ジムという図書館に本を寄付しているおじさんのところです。あのおじさんがすごいなあと思ったのは、自分の人生の問題をリストアップした時に、「吃音の順番を下げるんだ」と言っていました。あれはかなりすごいことです。つまり、「吃音なんてどうでもいい」とは言わない。重要だけど、順番として下げればいいんじゃないかと言う。「こうすればこうなる」式の自己啓発本では、あのことばは出てこないことです。「治す治さない」じゃなくて、「順番を下げる」という視点をもってくるだけで楽に生きられる。そういうのが、実はとっても大切だと思うんです。
永田:問題が、なくなるわけではない。
白石:解決はしないんだけど、楽になる。こういう話は、いまどんどん少なくなっていますね。一対一関係で、こうなったらこうするみたいに、世の中を単純化しようと人ばかり。単純化すればするほど息苦しくなっているのかなあと思っています。
永田:なるほど。生きていく上では、現実にいろいろやらなきゃならないこと、直面することがある。だから悩みのトップに置いておくんじゃなくて、他にもいろんな大変なことがあるわけで、順位を下げる。伊藤さんは、例えば吃音の順位を下げるみたいなことについては、どう考えられますか?
伊藤:自分で意図して下げようと思って、下げられるものではないですよね。
白石:そう、下がる。
伊藤:結果として下がるんです。
白石:気づいたら、下がっている。
伊藤:そういうことですよね。
■人と出会う、本と出会う中で
伊藤:「伊藤伸二の人生とは?」と聞かれたら、僕の場合21歳までは、真っ黒な吃音が自分をすべて支配していたんです。あの映画の中でも、「自分は吃音にコントロールされてきた」という表現がありましたが、僕は全く吃音にコントロールされた人生を生きていたんです。だけど、それが愛されたり、実際いろんなことやってみたりして、自分の喜びや楽しさを感じる中で、依然として丸の真ん中に真っ黒な吃音があるんだけど、いろんなことに興味をもち、行動するなかで、その輪の中にいろんな喜び、楽しみ、経験が入ってきて、少しずつその吃音の割合が減っていった。そうして最終的には、どもりはあるんだけど、大きな輪の中のひとつの小さな点になり、吃音の割合が自分の人生の中で、ほんとうに小さなものになって、僕はすごく生きやすくなったんです。それを21歳から3年ぐらいで経験したわけで、スキャットマン・ジョンの52歳と比較すれば、早かったなあと思うんです。
その、僕が21歳でできたことが、子どもたちにできないことはない。そう思って、吃音親子サマーキャンプを始めたんです。キャンプで、どもりながら僕たちが司会をして、キャンプを運営している。どもる大人が、ちゃんと立派に生きている。「どもっても大丈夫」なんて直接的に言ったことはないけれど、どもりながらちゃんと生きている大人を目の当たりにした時、子どもたちは変わっていく。僕は、そういう人と人とが出会うこと、そしてもう一つつけ加えるとしたら、本と出会うことが大切だと思うんです。
振り返ってみると、僕は孤独で、ひとりぼっちで生きていた。そして、時間がたっぷりあった。みんなが遊びに行っている時、僕は一人も友だちがいないので、誰にも誘ってもらえなかったからです。そのたっぷりある時間で、勉強なんかしないで、僕は本をたくさん読んでいました。冒険小説とか、少年少女文学全集とか、とにかくいろんなものを読みました。その時に、当時はそれほどは思わなかったけど、人の悩みはいろいろあると知ったんです。人生にはいろいろある。こんなに苦しくても将来は変わっていったり、すごく良くてもどーんと落ちたりする。そういういろんな人生の有様を、僕は本を通して、それと映画で知ったんです。中学校の時には、映画ばかり見てました。週に2・3回は映画館に行って、この映画を見るときが、僕にとって唯一の安らぎの場でした。そこではほんとに思いっきり泣くことも、笑うこともできたんです。
今は全く思わないけれど小学校の3、4年の時、社会か何かで入院生活のことが書いてあって、僕は「手が無くても、足が無くても、目が見えなくても、自由にしゃべれることばが欲しい。ことばが人間関係をつくるんだから、ことばさえしゃべれば何とかなる」と真剣に思っていました。それぐらいに、どもりがものすごく大きな問題だったわけです。そんな僕が、本と映画から、人の悩みはたくさんあることを知り、いろいろな体験をしていくことで、すごく自分にとっては大きな悩みだった吃音が、ほんとにしゅーんと小さなものになっていった。いまの僕にとって、どもりはほとんど重要でなくなっています。
白石:おもしろいですよね。基本的に治療というのは、問題となるものを小さくしようということなんですが、いま伊藤さんが言われたのは、問題となるものはそのままの大きさなのに、そのほかのものをいっぱい増やすことによって、相対的に小さく見えてくるという話ですよね。
伊藤:そういうことですね。
白石:そうすれば、伊藤さんみたいにモテることにもなる。(笑)それを小さくするのでなく、それ以外のものを増やせばいいというのは、べてるのみんなが言ってる「病気の苦労よりも人生の苦労を取り戻す」と同じですね。そっちの方が生き易いと。そういう発見と、共通しているような気がします。
■人の話を聞いていない
永田:吃音というのは、自分の表出することばがうまく出てこない時に、その瞬間、瞬間の苦痛がそこにあると思うんです。私は中学校の時に一時しゃべれなくなったことがあります。受験勉強しなければいけないと、みんなが追いかけられている中で、自分はそこからちょっと外れるみたいな気持ちがあったんです。そうすると、教室で先生が使うことばとか、友だちが使うことばとかが、本物のことばじゃないように思えてくる。自分が使っていることばも、ここには嘘があるんじゃないかとなって、それでどうなったかというとしゃべれなくなる。それが、半年ぐらい続いたんです。
伊藤:半年も。
永田:その時は、本を読んだりしていて、もちろん最低限のことは話すんですが、自分からは積極的に何も表明しない、何も話さないということを続けたんです。ただ、それも後で考えてみると、人の話を丁寧に聞くとか、自分が話さない分だけ、他の人が話していることを受け止め、考えている大事な時間になっていたと思うんです。あとになって考えると。その頃の体験は自分の成長にとってかけがえのない時間だったように思うんです。伊藤さんは「ことば」に苦しまれ、いろんな格闘をする中で、「ことば」とはどういうものなんだと感じてこられましたか?
伊藤:僕を含めてどもる人は、話すことに対して、立てているという意識もなく、目標を立てるんです。それもアナウンサーが使うような完壁なことばを目標にして、それが普通だと考える。でも実際には、結婚式のスピーチでしどろもどろになったり、教育委員会の人がしょうもない話をしたりというのが普通にあります。話が下手な人もいるし、何を言っているか分からない人は山ほどいるのに、明瞭で、すごく効率的に話すことを、僕たちは普通だと錯覚している。そんな要求水準は減らさなきゃいけないというのがあります。
僕は大学2年生の時に親友から、「お前はちっとも人の話を聞いてないだろう」と言われました。「いや、僕はどもるし、話はうまくないし、しゃべる回数は少ないけど、人の話はちゃんと聞いているよ」と、僕は言い返したかった。だけど、「話を聞いてない」となかなか人に言えないことを、彼はことばにした。それはとても重要なことだろうと思って、「僕は人の話を、本当に聞いているんだろうか?」と自分の中で検討した時に、すごく苦しくなって、「そうだ、僕は聞いてなかったかもしれない」と思ったんです。
というのも、僕は人の話を聞いている時に、常に自分が話す糸口をつくって、「どんな話をしようか」とか、「どういうふうにグループの話の中に潜り込もうか」とか考えていたんです。だから結局、人の話を聞かないで、自分が話すことばかりに意識がいっていた。話すことが訓練だという思いもあるから、話してなんぼだろうと思うから、どうしても話すということに意識を向けていたんです。
そのことを反省した時に思ったのは、僕は人と人との間に、どもりという壁をつくっていた。その壁=どもりを通して、人との対話、ことばのやりとりをしていた。このどもりというフィルターを壊さない限り、相手に直にことばは届いていかないし、向こうのことばも直には届いてこない。そんな経験から、自分のもっているどもりというフィルター、壁を壊さなきゃならないと、それはかなり意識的にしたような気がします。
永田:白石さんは、どうでしょうか?
白石:確かに僕もそうなんですよ。話を聞いてても、自分でしゃべりやすいタイミングを探っていたりする。結局、案外聞いていないんです。ちゃんと話が聞けるようになりたいなと思いながらも、こんな年齢になっちゃった。話すことが苦手な人、吃音の人とかは、いつも自分がどういうタイミングで、何を言おうかとか考えているだろうなあということは、すごくよく分かります。
永田:私もよく人の話を聞いてないと、妻から叱られます。気の利いたことを言わなきゃと、いつも思っているわけじゃないけれど、やっぱり聞けていないんだなとは、ほんとに思います。ただ、そのことを自覚しているかどうかというのは、結構大きなことかもしれません。
伊藤:そうですよね。
永田:改善されないにしても、ちょっと気にしているというだけで違ってくると思うんです。
■何が壁となっているのか
永田:少し話を戻しますが、スキャットマン基金を、ジョン・ラーキンさんが作ろうとした時に、結果的にはアメリカやドイツの当事者が壁になって、伊藤さんたちが思っていたことが実現しなかったということでしたが、これはどういうことが壁に、根本的な違いになっていたんでしょうか。
伊藤:壁になったのは、国際吃音連盟のどもる本人です。海外は特にそうなんですが、結局、まずは治療、次に受容という感じで、なかなか治療というところから抜け出せない。だから、治療の中に受容がある、治療のシステムの中に障害受容があるという考え方になるんです。だから、アメリカとドイツは、ごく当たり前に「まずは治療でしょう」「そのために世界一級の治療者に研究してほしい」となる。だけど、僕とジョンは、もうそんなことは止めて、自分を認めて生きることが、一番大切だと思っていたんです。
それと基本的にアメリカの言語病理学も、今の日本の吃音の研究者も臨床家も、「できたら、どもらない方がいいでしょう。できたら、治った方がいいでしょう」なんです。どもりが悪いものだとか、だから治せと言うわけではないけれど、「できたら、それは治るに超したことはないし、少しでも改善されるに超したことはない」というのがずっとある。これは、僕とは基本的に、そして決定的に違うところです。
実際、52歳までほんとうにもがいて、苦しんできたジョン・ラーキンは、「ジョン・ラーキンはどもりだ」とたったひとこと公表したその一点だけで、あれだけ人生が変わっていった。そして僕といろんなことをやりたいと思っていたのに、残念ながら57歳で癌で亡くなってしまう。彼が自分のどもりを認めて、ある意味、安定して楽しく豊かに生きたのはたった5年しかなかったというのが、とっても悔しいです。
僕たちはジョン・ラーキンが病床に伏していたことを知っていたので、メールで励ましたり、いろんなことをしてたんだけど、亡くなる一週間前に妻のジュディから「もうこのメールは閉鎖します。ジョン・ラーキンはもうあなたたちからのメールを見ることができなくなりました」という連絡がありました。その一週間後に「スキャットマン・ジョン死亡」という記事が出ました。その時、僕は、彼の人生、麻薬中毒になり、アルコール中毒になり、あれだけ苦しかった人生が、どもりを認めたために、あれだけ豊かな、中年のいいおっちゃんになれた。そのことを、もっともっと伝えていきたいなあと、本当に思いました。
そうは言っても、僕たちはなかなか、その壁に立ち向かう力をもてないでいます。ただ、どもる人というのはデモステネスが苦しんできた紀元前から、ずうっと今まで続いてきている。そういう由緒正しきどもりの世界を、治すとか、改善するとか言わないでよという感じなんです。
どもる人が人口の1%というのは、世界中どこでも一緒なんです。アフリカであっても、ヨーロッパ圏であっても。ということは、この人類の中にどもりが生き残ってきたということは、どもりという存在が人類には必要なことだ。しどろもどろになったり、弱音をはいたりしながら、ことばを考え、話したりする。そういうひとつの少数民族というか、存在がいた方がいいということじゃないかと思うんです。
もちろんどもる人が、苦しみの中にいるのではダメで、セルフヘルプグループとかいろんな場面で、ちょっと楽な生き方に対してのサポートも大切になる。けれども、「どもりがこの世の中に存在していい」と思うのと、「できれば存在しない方がいい」というのとのせめぎ合いは、専門家と僕たちの決定的な違いなんです。それが、最近はどもる専門家とほとんど一体になって、当事者自身も、治す・改善することの方がいいとなってきていることが、僕にとってはとても悔しいことです。どもる当事者なんだから、当事者の誇りをもってほしいなあと思うんです。
■どもることばの力
白石:最近、発達障害でも、治そうという力は一方で大きくなっていますが、もう一方では、私たちは違う文化を持つ違う民族なんだという方向の動きも強くなっています。つまり、定型発達の人とは、思考や感覚、あるいは物事の知覚の仕方自体がそもそも違うんだという考え方です。違う言語をしゃべる少数民族として生きるという方がいいんじゃないかなあと気がするんです。
伊藤:どもり弁をつかう、どもり語をつかう少数派。
永田:僕の身のまわりにたくさんの吃音の方がおられて、その方たちが僕にかけてくれたことばをいろいろ覚えています。大学で聴覚言語欠陥学を専攻したんですが、それは自分が人にことばを伝えるとかが不得意でしたから、そういうことを勉強したいなあという動機もあったんです。
この専攻には、吃音の大学院生が何人もいて、今日の映画作品もそうなんですが、その方たちには、あることばが出てくるまでの前振りがあるんです。つっかえるなかで間が生まれます。ことばをただ雑につかうんではなくて、「君、ちゃんと聞きなさい」と言われているような、そういう前振りがあって、それからことばが出て来る感じがあったんです。
最近、世の中全体の傾向として、ことばが軽くなっていると言われます。僕は発声がそんなにうまくない方ですが、そんな僕よりももっと軽くて、もっとことばがふわふわしている。そういう世の中に対して、吃音の方は「君、ちゃんと聞きなさい」と言ってくれている存在のような気がするんです。すごく大事なことのように思います。当事者の方にとっては、そのように言われることは、違うよと思われるかもしれませんが、聞く側からすればそれは「ちょっと待ちなさい」あるいは「ひとっのことばは、こんなふうに大事なんですよ」と言われているような、そんな気がします。
伊藤:作曲家の武満徹さんが随筆「吃音宣言」に、全く同じようなことを書いてますし、詩人の谷川俊太郎さんも、「どもっている人のことばには、なにか訴える力がある」と言ってくれています。さっきの映画でも友人が「俺のことばは軽いけど、お前のことばは、ずしっとくるんだ」と話す映像があったけれども、そういうことばの力を僕たちどもる人はもっている。それを信じて、だからどもることをマイナスのものと考えないで生きたら、聞き手も随分楽に聞けるだろうし、僕らにとっても楽だろうなあと思うんです。それが、どもることはいけないことで、申し訳ないと思ってしゃべると、聞き手もなにか申し訳ないと受け取るようになる。それはもっと申し訳ないことなので、堂々としゃべれとは言わないけれど、素直に、そのままをしゃべれたらいいなあと思います。
■最後に
永田:今日は、作品の上映を含めて、「吃音と生きること」について、お二人にお話をしていただきました、最後に短い時間ですが、会場の参加されている方々に、こういう世の中なんだけども、ここはちょっと気づきがあるといいなあということを、つけ加えていただければ、有り難いと思います。
白石:先ほどのジムおじさんの「問題の順番を一番上から下げる」というのが印象に残っていますね。問題を見ないわけではなく、見ているけれど、下のランクづけにするというのが、自分にとっては非常に衝撃的でした。問題があったとしても、そこだけに注目しない方が、人生はおもしろいんじゃないかということを、多分ジムおじさんは言っていて、非常にいいことばだなあと思いました。
永田:ありがとうございます。最後に伊藤さん、よろしくお願いします。
伊藤:あの映画を見ていて、あそこで語られているのはアメリカのことなんだけど、日本と全くといっていいほど困っていることや、悩んでいることが同じ状況で、なんだか僕たちの映像であるかのように思えました。ということは、どもる人の苦しみは、アフリカに住む人も、ヨーロッパに住む人も、アメリカに住む人もほとんど共通で、そこに民族を超えた普遍的なものがある。だからそれは、結局、「自分はこのままでいいんだ」という、映画の中の最後のことばにつながっていくんだと思います。
アメリカは日本より遥かに治療大国で、スピーチセラピストもたくさんいるし、セラピーを受ける機会もたくさんある。マイケル・ターナーも、またこれからもセラピーを受けるかもしれないと言ってました。世界大会に行くと、人生の中で10回ぐらいセラピーを受けて、これを最後にしようと思っているドイツ人が、65歳だったりする。日本の場合はそれほどではないけれど、アメリカやヨーロッパでは、それぐらい治療という場が目の前にいっぱいある。
けれど、それだけ治療する機会がたくさんあるアメリカの記録映画、ドキュメンタリー映画で、あまり治療機関がない日本とほとんど同じことが語られている。キャンプの中でアメリカの子どもたちが、「治せない、治らない、だから自分を認めて生きよう」と話す。「自分はどもっていると、きっとアルバイトもできないし、社会人として立派に生きていけないと思っていたけれど、弁護士もいるし、ハーバード大学の卒業生もいるし、ちゃんと生きていることを知って、ほっとした。やっていけると思った」と語る。そのあたりは、僕たちと同じような感覚で、とっても共感します。
どんなに治療と言っても、最後のところは、結局「自分はこれでいい」と納得する生き方となっていく。ほとんどすべての人が、どもりと共に生きているというのが現実なんです。それを、不本意に、治したいと思いながら生きるか、それとも納得して「まあこれでいい」と思って生きるかの違いがあるだけで、だったら「納得して生きる人生の方が、ずっと楽だよ」ということを、成人の僕たちが経験を通して言いたいし、言語聴覚士やことばの教室の担当者が、そういう視点で子どもに関わって欲しいなあと思います。
永田:ありがとうございます。今の世の中の、一見なんか自分らしさが大事なんだよという、そういうことばが飛び交っていますが、実は本気でそう思っていない。そうした世の中の風潮に抗って、伊藤さんは頑張っていらっしゃるし、白石さんも今の出版の潮流に抗って、いい本を作っていらっしゃる。きょうはそういうお二人から、貴重なことばの数々をいただきました。本当にありがとうございました。
伊藤:ありがとうございました。
白石:ありがとうございました。
永田:みなさん、おっき合いいただきまして、ありがとうございました。(拍手)
…『TheWayWeTalk』の感想…
◇ポートランドの自然豊かな風景と静かで心地いい音楽、マイケルの穏やかな語りに心が癒され、80分があっという間だった。私は一人で悩んでいたとき、どもりで悩んでいるのは自分一人だと、深い闇の中にいた。大阪吃音教室で、たくさんの仲間に出会ったとき、私は決して一人ではないことにとても大きな勇気をもらった。映画の中でポートランドのセルフヘルプグループの例会でも同じようなことが話されていた。同じ国でも価値観や考え方はさまざまだが、国を超えて同じテーマで同じような価値観を持つ人がいることに勇気づけられた。
◇これまでは誰とも吃音のことを話したこともなかったマイケルがどんどん変わっていく。今までは出さなかった吃音を人との関わりの中で外在化していく様子がよく分かった。映画の中で彼の発言も変化していた。彼は自分の問題として「吃音とは何か」を突き詰めて考えたかったのだろう。
◇治療は、セラピストや研究者が言っていること。治らなかった人たちは僕たちのようにならざるを得ないのだろう。僕たちが大切にしてきたことは決して間違いでないという確信を改めて得た。治そうとがんばっても、最終的には「自分を認めてそのままでいい」ということに行き着く。それは、吃音のある意味おもしろさであり、不思議さでもあるのだと思う。
『The Way We Talk』(日本語字幕付き)のDVDをご希望の方は、郵便局に備え付けの郵便振替用紙で、1500円(送料を含む)をご送金下さい。
加入者名 日本吃音臨床研究会
口座番号 OO970-1-314142
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/06/15

