内須川洸先生 ありがとうございました
2016年11月10日、僕たちにとって、最大の理解者、応援者であった、内須川洸先生がお亡くなりになりました。今からちょうど10年前のことでした。
内須川先生との思い出は尽きることなく浮かんできます。いつも穏やかで、笑みを絶やさない、でも、研究となるとブレずに筋を通す、そんな先生でした。
先生への感謝の気持ちを表した、「スタタリング・ナウ」2016.12.20 NO.268 より、まず巻頭言を紹介します。巻頭言には、内須川先生との思い出の場面がたくさん出てきます。
内須川洸先生 ありがとうございました
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
内須川先生
11月10日、内須川先生がお亡くなりになったとの報に接し、ずいぶん前から覚悟はしていたとはいえ、いいようのない寂しさと、大きな感謝の気持ちが広がっています。ありがとうございました。
1966年、言友会を創立したばかりの私は、東京学芸大学の研究室で内須川先生にお会いしました。それが、先生とのつきあいの始まりでした。吃音、グループの活動について、何かとアドバイスをいただきました。
その後、私が大阪教育大学言語障害児教育1年課程で学んだ後の研究生の時、内須川先生の集中講義として、「治らない吃音をどうするか」がテーマの5泊6日の合宿、「吃音ショートコース」の計画に携わりました。大学の講義の枠を超え、大学病院、民間吃音矯正所、国立特殊教育総合研究所、全国各地のことばの教室から、教師、医師、言語聴覚士など、当時吃音に携わっていた中心人物のほとんど集まる、これまでになかった集まりでした。
朝から深夜まで、6日間という長丁場。参加者の理解度、関心の変化に合わせて刻々変化していくプログラム。最終的には内須川先生と私が、方向を決めていく、綱渡りの進行に、私の心は躍っていました。この合宿を乗り切ったことで、どんな研修にも対応できる自信がつきました。この経験が、後の第1回吃音問題研究国際大会に活かされました。
その後、私は、大阪教育大学の教員になり、その1年後、内須川先生が大阪教育大学教授に赴任されました。それからは、早朝の吃音勉強会など、身近に指導をしていただきました。
アメリカ言語財団の冊子、『To The Stutterer』をNHK出版社から『人間とコミュニケーション―吃音者のために―』として翻訳・出版したときも、何度も何度も合宿につきあって下さいました。
その合宿の後から、先生を囲んでの2泊3日の旅行が始まりました。「舌のもつれた仲間、もつれあって楽しく」から、「もっれ会・内須川旅行」と名づけた2泊3日の旅行は、先生が大阪を離れて、筑波大学教授になられてからも続きました。28回も続いたこの旅行の中から、『どもりの相談』のパンフレット、『吃音評価法』の制作、第1回吃音問題研究国際大会の計画が話されました。秋の学会シーズンのお忙しい時期にもかかわらず、必ず私たちのために日程をとって下さいました。2001年の箱根旅行が最後になりました。たくさんの写真で、楽しかった旅行のひとつひとつが思い出されます。
1983年、先生が医学会総会会長として筑波大学で開かれた第28回目本音声言語医学会総会で、私は学会の吃音検査法を強く批判しました。それをまとめた論文を学会誌に投稿しましたが、先生の存在がなかったら、学会批判の論文など、絶対に掲載されることはなかっただろうと思います。
1986年の第1回吃音問題研究国際大会も、大会顧問として、全面的な支援がなかったら、開けなかったでしょう。私が、大会会長として、世界にさきがけて、世界大会を開くことができたことを、とても喜んで下さいました。その他、言語障害事典やいくつかの書籍に、私に執筆する機会を多く与えて下さいました。
7年ほど前、吃音について整理するため、藤沢のご自宅にお伺いしお話したいと手紙を差し上げた時、ご長男から体調を崩してお会いできないとのご連絡をいただきました。とても残念でした。
「吃音はどう治す、改善するかではない。どう生きるかの問題だ」との私の主張に心から賛同し、支援を惜しまなかった二人の吃音研究者が、内須川先生と、愛媛大学教授の水町俊郎先生でした。
今、「吃音を治す、改善する」が復活し、50年前に逆戻りしてしまった感のある吃音の世界。お二人がいない中でも、私たちは主張しなければなりません。
22歳の時に初めてお目にかかってから50年、私も72歳になりました。どもる子ども、どもる人の幸せを常に願ってこられた先生の遺志を引き継ぎ、あと何年、吃音に関わることができるか分かりませんが、命の続く限りがんばります。
心からご冥福をお祈りします。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/05/26


