第4回伊藤伸二・吃音ワークショップin東京~ナラティヴ的な面接~ 2
「スタタリング・ナウ」2016.11.22 NO.267 で報告している、第4回目のワークショップのつづきです。昨日、横田さんとの面接を紹介しましたが、今、読んでみても、おもしろい展開だったなあと思います。その時、その瞬間に浮かんだことばをつなぎ、対話を続けることで、思わぬ展開をしていることが分かります。同じことをしろと言われても、できることではありません。まさに、一期一会の出会いといえるでしょう。
今日は、昨日のつづきで、周りにいてその場を支えてくれた参加者の声からスタートします。
第4回伊藤伸二・吃音ワークショップin東京~ナラティヴ的な面接~ 2
伊藤 何かコメントなり、感想なりがあったら、周りの人、どうぞお話下さい。
黒田 どもれないどもりとおっしゃったが、自分も一緒です。なまじ普段あまりどもらないので、いざどもると、えっ、どうしようみたいな感じになる。どもれないどもりのくせに、ことばの教室で担当している子どもたちにはどもってもいいんだよと言っている。自分のズレ、矛盾に悩んでいた。けれど、もう諦めました。自分はもうどもれないんだと。どもれないどもりも、どもりのひとつの形なんだなと認めました。もう自分はどもりを隠して生きていく、これもどもりなんだと、そう思えた瞬間、すとんと楽になった。
伊藤 なるほど、どもりを隠して生きる。それで自分が楽になった。なるほど。おもしろいね。こうあるべきだとあまり支配されないで、どうにもならない自分を認めていくしかないでしょうね。どもれない自分で生きていく。吃音を隠し続ける。これもひとつのあり方だと、そういう所に到達したのですね。黒田さんからその話を聞いたのは初めてです。隠し続けて生きるのも、人間のひとつの成熟の形だと思います。
坂本 横田さんがお連れ合いさんと言い合ってしまうというのは、一般的にはエネルギーのロスだとは思うけれど、ロスではなく、夫婦のコミュニケーションかもしれませんね。
横田 言いたいことが言えるということですか?
坂本 それを止めた方がもっとストレスになるかもしれない。古典落語に近いような夫婦のやりとりの中で、気持ちもその幅の中で安定しているということでしょう。穏やかでありたいと思うけれども、多分、穏やかの幅が広くて、その幅の中に入っているのではないかと思いました。
佐々木 私がすごいなと思ったのは、自分とどもりを切り離しているところ。自分の中からどもりを外に出しているのは、知恵でしょう。私はそれができず、それこそ刃を自分に向けていたから、苦しくて、認めるしかなかった。だから、「吃音を受け入れて生きる」がすとんと落ちたんだけど、横田さんが、外に出してしまっておられるというところに、生きる知恵を働かせて生きてこられたんだなと思いました。
横田 どもりがそれだけ嫌いということなんです。実は、息子も3歳頃どもっていたのですが、普段の生活で全然どもっていないので、私は、治ったのかなとずっと思っていました。40歳を過ぎた頃に、息子に自分自身の吃音の悩みを打ち明けたら、「実は、僕もまだどもる」と言うんです。びっくりしたというか、それはすごいショックでした。自分自身がどもるということより、息子に遺伝してしまったことがすごいショックだった。
伊藤 自分のせい、どもりのせいというのをそろそろ卒業した方がいいようですね。
横田 そうですね。
伊藤 お話を聞いていて、イメージとして沸いたのは、あなたは、どもりを外に出しているんだと思いました。初めての経験です。僕自身も、世界的に有名な作家のデイビッド・ミッチェルさんも、いつも自分の内なるどもりと闘ってきた。そんな人が多い。でも、あなたの話を聞いていたら、どもりが外に出ている。だったら、それでいいだろう。どんどん攻撃して、やっつけて、倒せばいい。負ければまた、闘いを挑めばいい。そうしてあなたは生きてきたんだね。じゃ、ここで休憩します。
この後、中学3年生男子と面接をしました。ぽつりぽつりと答えるという対話が1時間続きました。初めての場で、しかも周りは大人ばかり、そんな中での公開面接に、自ら手を挙げたとはいえ、自分の内面にかかわる質問を受けることはしんどかったのではないでしょうか。
それができたのは、参加者が温かく心から彼の話を聞きたいという気持ちで、場を、彼を支えたからでしょう。そして、3人目は看護師をしている若い女性、最後は、ことばの教室の担当者でした。どの面接も濃い内容で紹介したいのですが、残念ながら紙面の都合でできません。最後に、このワークショップのまとめとして、ことばの教室の担当者に向けて伊藤が話したことを紹介します。
☆どもる子どもに向き合う心構え
伊藤 吃音は、本当に奥が深いです。紀元前300年の時代に、どもる人の苦しみが書かれています。人間生活が始まり、コミュニケーションが大事になってきて、吃音の悩みが始まったといえるでしょう。吃音は、人間の誕生と共に、出現していた、伝統ある由緒正しき、人を悩ませるテーマであるということです。簡単なことではないけれども、恐れるものでもありません。
4年前に北海道で、看護師が、職場である病院が理解してくれないといって、自殺をしました。その話は知っていますか? 吃音は自殺をするほどに大変な問題なのか、そう思うと、小学校でどもる子どもたちと出会う教員たちもある意味びびってしまいます。成人のどもる人たちから、小学校時代に、ことばの教室でどもりを治しておかないから、将来こういうことが起こるのだ。子どもの時代にどもりを改善し、治しておくべきだという圧力がかかり、北海道のことばの教室の教員たちは、大きなプレッシャーを受けました。
そして、北海道のことばの教室の研究協議会である全道教が、真剣に吃音のことを勉強しよう、誰を講師に呼んで研修しようかというときに、治す、改善すると主張している人はいっぱいいるのに、そういう人を呼ばないで、どもりながら豊かに楽しく自分の人生を生き、したい仕事をしようという僕を呼んでくれました。
7月に札幌で一日研修、2ヶ月後の9月には、函館で開かれた全道大会の記念講演を僕に依頼してきたのです。その記念講演の冒頭で、僕が言ったのは、人にとっては、自殺をするくらいの確かに大きな問題だけれども、だからといってびびってはいけない。どもりというのは、そんなに恐ろしいものではない。ちゃんと、どもりのことを勉強して、つきあい方を学べば恐ろしいことではない、びびらないでほしいということでした。それが、ことばの教室の教員への僕からのメッセージでした。
専門家だから、ことばの教室の教員だから、言語聴覚士だからといって、大したことはできません。すごいことをやろうと思うと、それこそドツボにはまってしまいます。なぜなら、100年以上の治療・研究の歴史がありながら、吃音は原因も分かっていないし、メカニズムも分かっていない。そういうものに対して、アメリカやヨーロッパの言語病理学者や臨床家たちは、みんなお手上げなんです。また、アメリカの言語聴覚士という専門家の95%が吃音の臨床を苦手にしています。なぜなら、アメリカの専門家たちは、どもりを治す、改善することに専門家としての役割があると思っているのに、指導しても、どもりは治らないし、軽くなっていかないからです。その現実に向き合ったときに、吃音は苦手となってしまうのです。
ところが、僕の仲間のことばの教室の教員や言語聴覚士たちは、治すこと、改善することをどもる子どもの指導の重要な柱とは思っていません。どもる子どもが自分らしく力を発揮してこの社会で生き延びるために、どのような生きる力をつければいいか、劣等感が少しでも和らぐにはどうしたらいいか、専門家としてではなくて、ひとりの人間として向き合えばいいと思っているので、苦手とはしていません。どもる子どもやどもる子どもの保護者と、専門家として向き合うのではなく、人間として向き合えばいいんだと思っています。これが、僕の考え方です。大したことはできないけれども、人として誠実に向き合えば、何かが変わるだろう。その何かというのは、小さなことかもしれないけれど、実はとても大きな変化かもしれません。
僕が、静岡の吃音キャンプで会った、看護師志望の女子高校生は、どもるたびに「すいません」「すいません」という。「すみません」をやめ、顔を上げでどもれとだけ言いました。そのことを心がけた彼女は、1年後、すごく明るくなって、看護師として生きる自信がついたと報告しに来てくれました。吃音の改善のためには一切しなくても、人間は変わっていきます。
まず、基本前提としては、大したことはできないと思うこと。そして、分からないことは本人、つまり、子どもに聞くこと。だから子どもに教えてもらうのです。そういう姿勢を貫くことが大事です。それと、予算の範囲で僕の本を読むことです。もうひとつ、できれば、滋賀の吃音親子サマーキャンプに来ること。生きた勉強になります。(了)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/05/25

