「あなたには力がある」―レジリエンス元年―~「第4回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」~ 3

 僕たちの仲間である坂本英樹さんによる、第4回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会報告の最後になりました。今日は、吃音講習会の顧問である国立特別支援教育総合研究所の牧野泰美さんによる基調提案と、仲間の実践と、全体のまとめをお届けします。
 「スタタリング・ナウ」2016.7.20 NO.263 より紹介します。

「あなたには力がある」―レジリエンス元年―
~「第4回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」~ 3
               報告 坂本英樹(どもる子どもの親、教員、大阪吃音教室)

基調提案② 「レジリエンスと関係論」
              国立特別支援教育総合研究所総括研究員 牧野泰美さん

牧野少年のレジリエンス
 特総研で言語分野の研究職にある牧野泰美さんは、現在ならおそらく「選択性緘黙」と呼ばれたであろう学童期を過ごした。家では話せるのに学校ではなぜか話せない。クラスの友だちは間違っていても無邪気に答えているのに、正解がわかっている自分は手を挙げることができない。先生は優しく発言を促すが、笑われたり、バカにされたりしないという保証はあるのか。先生は自分のことを語っているのか。もし、そうなら僕も話せるかもしれない。
 こうした気づきや疑問が、関係論的な視点からどもる子どもの臨床を考える牧野さんの研究スタイルにつながった。幼い頃の洞察は牧野少年のレジリエンスであり、その後の教員や研究者として出会った人との関係の中で育てていったものだ。

ことばの教室の役割
 子どもが何かの苦手を克服したということは喜ばしいことだと誰もが思うことだろう。しかし、何かを克服しない限り、その子どもは幸せになれないと考えるならどうだろう。吃音が改善されない限り、子どもは幸せになれないのだろうか。スピーチの流暢さにこだわる吃音臨床の危険性がここにある。
 ことばの教室は言葉に何らかの課題があり、それによって生きづらさを感じている子どもに対して、どうやって生きていくのかを教員が一緒に考えていく、「生き方研究所」であると定義しよう。学校生活の中での頑張りどころと、頑張らなくてもいいところを見きわめて、子どもができる工夫を考え、検証する。言葉で苦労をすることはあっても大丈夫、日常をサバイバルできると自分を肯定的に受け止めることができるように研究する場、レジリエンスを育てる場なのである。そう考えるとことばの教室で取り組めることはたくさんある。
 子どもも関わる私たちも自分らしく活き活きと生きたいという願いは共通する。だが、私たちはともすれば自分のものの見方を子どもに押しつけてしまうことがある。その結果、子どもはその見方で自身を判断してしまう。私たちは自分のもつ「ねばならない」思考を解体することで、ゼロの地点に立つ必要があるだろう。そこから紡がれる関係性の中でレジリエンスは育っていくのだから。牧野少年に担任や友だちからの「黙っていてもいいんだよ」というメッセージが届いていたら、話せていたかもしれないのである。

基調提案③ 「つながりのちから」
            神戸市立本山南小学校そだちとこころの教室 桑田省吾さん

震災の経験から
 よく泣く子ども時代、うまく人と話せずもんもんと過ごした青年期を経て、教員となって10年後、36歳の年に桑田省吾さんはことばの教室の担当となった。そこでのどもる子どもと親、吃音との出会いを通して、桑田さんは自分自身の言葉との格闘、問題がどもりであったということを了解した。
 この年、阪神淡路大震災。全国各地から多くの支援者が集まり、桑田さんも神戸市の教員として多様な支援活動に参加する。その過程で桑田さんが見たのは、復興が最優先されていく中で被災者の間に広がっていく閉塞感であった。震災初期の手探り状態の支援から、だんだんと手厚く、継続的な支援が整っていく中でいつしか支援者役割と被災者役割が固定されていき、支援への依存というリスクを生み出しているという現実であった。「支援する側の自己検証」のない支援は当事者をエンパワメントしないという視点は、桑田さんにことばの教室での実践を振り返らせることになる。

吃音親子のつどい
 通級指導終了後のアンケートを見ると、構音障害に比べて吃音の親子の満足度はかなり低い。それは子どもの「すらすらと話せるようになりたい」というwantsの中にある「友だちと楽しく遊びたい」というneedsに十分に向き合えていないからだろう。wantsに焦点を合わせれば、ことばの教室は「養護・訓練」の場となる。子どもの今の力を前提にできることを探っていくことが自分らしく生きること、「自立」につながるのではないか。私たちは古い支援観から、まだ自由になれていないようである。
 桑田さんは今、通級とは別に「ほおーっと」という親子の集いを年にll回、開催している。ただし、場を設定しているだけで桑田さんは何もしない。主体は参加者である。この「気楽なかたちとゆるいつながり」は子どもたちの、この場なら自分たちで何かできそうだという自己効力感を育む仕掛けである。こうした対話のできる関係性は子どもたちの自分らしい生き方の探求を促し、メンターとの出会いを用意する。仲間に認められ、自身のもつ力、レジリエンスに気づいていく、子どもたちのセルフヘルプグループなのだ。「あなたはあなたのままでいい あなたはひとりではない あなたには力がある」という伊藤さんの言葉そのままの風景がそこにある。

参加者とともに~幼児期・学童期の実践~

臨床とは対話である
 これまでの議論をまとめると、ことばの教室は吃音について学び、それを通して生き方を研究し、日常生活へと子どもを送り出す場だと整理できる。方法論は担当教員との絶えることのない対話だ。対話は現実を解釈する営みであると同時に、他者とともに現実を構成しようとする営みでもある。繰り返される対話自体が子どもの主体性とレジリエンスを育てる。
 対話の前提として、伊藤さんは対等性を強調する。知力、体力、人生経験に差はあっても、人間としては対等だとの哲学が対話へと私たちを誘う。対等性のないところに双方向の対話は成立しない。同行者とは対話をする者のことだ。子どもは自分と真摯に向き合う大人の存在に励まされ、自分の価値を信じ、肯定感をもつことができる。一方通行の関係性の中では人は変わらない。変わる契機があるとすれば、相互の信頼関係の中でしかない。

子どもへの信頼
 この講習会の少し前に大阪で開いた「どもる子どもの親と臨床家のための吃音相談会」に参加したある保護者が、「どもりを友だちからからかわれ、発表で苦労しながらも、毎日学校に行く子どもを尊敬する。私だったらとても行けないだろうなと思う」と発言した。この保護者の誠実な姿勢に学びたいと思う。子どもは親や教員が教える前に、幼い頃から自分の言葉の特徴に気づき、いろいろと考え、工夫し、サバイバルしている。尊敬に値する姿ではないか。そんな子どもを信頼しよう。だから、「どもっているから可哀想だ」と思わないでほしい。その親の悲しげな眼差し、気持ちは子どもに確実に伝わるからだ。やがて、子どもは親を悲しませる残念な私、否定的な自己イメージを形成してしまうだろう。ここから、どもる事実を認め、歩み始める「ゼロの地点に立つ」にはどれだけのエネルギーがいることか。
 子どもは吃音をテーマに生きている。親にできることがあるとすれば、子どもが自分の言葉の特徴を「なぜ?」と質問してくる時に備えて、吃音の知識、哲学を学ぶことだ。親はこの学びを通して、どもる状態の変化に一喜一憂することのない姿勢を身につけることができるだろう。親の肯定的な姿勢は子どもに安心感を与え、友だちとの遊びや学校生活へと歩み出す力を与えてくれる。レジリエンスの基盤はこの基本的信頼感なのである。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/05/06

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