「あなたには力がある」―レジリエンス元年―~「第4回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」~ 2

 一昨日の続きです。今日は、石隈さんの講義と、石隈さんと僕の対談を紹介します。

「あなたには力がある」―レジリエンス元年―
~「第4回親、教師、言語聴覚士のための吃音講習会」~ 2
               報告 坂本英樹(どもる子どもの親、教員、大阪吃音教室)

講義 「子どものレジリエンスを育てる」
                筑波大学副学長(当時) 石隈利紀さん

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 石隈利紀さんは教育相談、特別支援教育の領域において、保護者や教員、カウンセラー等がチームを組んで子どもに心理的・教育的援助を行うという学校心理学を専門としている。チームでの関わりを大切にする石隈さんは、人は自分の強みやツールを活かして、他者とつながり、レジリエンスを育んでいく存在であるから、バブル景気の時代に言われた「自分探し」という青い鳥を求めるのではなく、「自分を育てる」という視点からレジリエンスを考察しようと提案する。

レジリエンスの背景
 生命倫理学、現代哲学の森岡正博は「無痛文明論」(トランスビュー)で、現代の快楽、快適さを与え続ける文明を、私たちの生から苦しいことやつらいこと、痛いことを遠ざける仕組みや技術を限りなく発展させる「無痛文明」と名づける。この文明は私たちに清潔で利便性の高い生活を提供してくれるが、それは生きることの深い喜びや手触り、手ごたえが欠けている空虚な社会でもあると論じる。
 児童期・学童期は小さなトラブルに満ちた時代で、親は我が子がすくすくと成長することを望むだろうが、そうはいかない、小さなトラブル、危機が起こることが通常だろう。親は子どもがつまずかないようにするのではなく、本人や周囲と相談しながら小さな痛みと向き合い、つき合っていくようにすることが子どもの他者への共感性やレジリエンスを育てることになる。無痛文明は子どもの成長にとってはマイナスの環境なのである。
 当事者と専門家との関係を類型的に考察してみよう。過去は、問題のあると考えられる人に専門家が権威をもって対処する社会であった。患者と医者というタテの関係だ。セカンドオピニオンの考えられない社会である。現代社会は消費者王国、金を払うものが偉いという資本主義社会だ。消費者からの過剰なクレームは今や社会問題だ。保護者に向き合う前に、弁護士に相談する学校がある社会だ。私たちの築きたい未来は当事者と専門家がパートナーシップを結ぶ社会、対等な関係をもとに同行していく社会である。役割としてはタテでも人間としては対等なヨコの関係、気兼ねなく意見が交わせるような関係を志向したい。べてるの家の実践がその世界を私たちに開示してくれている。ここにこの社会の可能性を見たい。
 レジリエンスは「当事者の力や可能性への敬意」が担保される対等な関係性の中で発揮される。それは数多くの相談者、クライエントと向き合ってきた石隈さんのカウンセラーとしての姿勢であり、大震災以降の福島での活動を支える哲学である。

福島から考えるレジリエンス

 石隈さんは震災以降、年に数度、福島を訪れている。被災地の子どもたちの困難さは今も続いているし、ストレスは蓄積されているだろう。しかし、人々は懸命に日常生活を取り戻そうと努めている。
 石隈さんは「福島県の小・中・高校生へのアンケート」に「学校のこと、家のこと、近所のこと、どんな小さなことでもかまいません。大震災以降の、あなたの『小さな一歩』について教えてください」という項目をつけ加えた。それはこうした経験の中にある当事者の工夫や対処を生み出す、宝のような強みというかレジリエンスをフィードバックすることが、人々への応援になると考えたからだ。人は自分の強みを活かして問題に対処する方法を編み出し、成長している。しかし、渦中にある人は案外と自身の頑張りや力、レジリエンスに気がついていないものである。子どもたちが自身や周囲の力を借りてどんな対処をし、一歩を踏み出したのか。石隈さんが心理職の専門家として、震災から学んだのは、子ども自身の一歩をともに祝うということであった。伊藤さんの言う「小さな援助」に通じる視点だろう。
 レジリエンスを援助資源と自助資源の認知と活用という側面から考えた時、家庭や学校、地域は環境の力と位置づけることができる。学校や家庭内での規則や生活が安定していること、友だちや教員のサポートがあること、隣人や地域の専門機関のサポートがあることなどが挙げられる。伊藤さんが紹介した阿部莉菜さんにとって吃音親子サマーキャンプは、阿部さんのレジリエンスを刺激した環境、「場の力」を発揮する装置として作用した。彼女はそこで対等な仲間とどもりと向き合う中高生や大人というよき先達、メンターと出会った。ロールモデルを発見したのだ。年に一度きりの機会だが、阿部さんの中にはこうした援助資源に支えられているという感覚が持続していたことだろう。キャンプに参加する子どもたちの多くが証言する感覚である。
 カウンセリングの「問題を解決するためにその人のもつ力、あるいは潜在的な力を発見して、活用していくプロセス」という定義にある潜在的な力とは、個人の強み、自助資源のことである。自分の感情を表現し、コントロールする力であり、「自分なりにやれているな、向き合えているな」という自己効力感、「どもりカルタ」にあふれるようなユーモアなどであるが、私が石隈さんの表現で深く了解したのは「自分の言葉で、言語化する」である。「小さな一歩」アンケートの意図はここにあるのだろう。べてるの家の当事者研究が当事者自身をエンパワメントするのも、この言語化する力によるものだ。ナラティヴ・アプローチに私たち大阪吃音教室が注目する理由もここにある。

レジリエンスを育てるために

 ウォーリン夫妻は「サバイバーと心の回復力」(金剛出版)において、レジリエンスの構成要素として、「洞察」「独立性」「関係性」「イニシアティブ」「創造性」「ユーモア」「モラル」の7つを挙げた。伊藤さんはこれに人と自分を大切にするコミュニケーションのあり方である「アサーション」と豊かで有意義な人生を送れる「楽観的人生観・人間観」、そしてアドラー心理学の「共同体感覚」を加えて、これまでの実践をこの要素に基づいて整理しようと提案する。
 石隈さんはレジリエンスを育てる観点から、伊藤さんのこれまでの実践の中から「論理療法」と「当事者研究」、「アサーション」の3つを紹介する。いずれも金子書房の書籍となっている。論理療法は他ならぬ石隈さんとの共著である。
 さて、震災後、石隈さんは改めて学校のもつ場の力を発見した。授業が再開される、友だちと遊ぶという、安心・安全な環境で日常生活を取り戻していく中で子どもは元気になる。以前にできていたことが今日もできた、明日もできそうだという自己コントロール感が伸びていく。また、震災前と同じ規模は無理でも、運動会のような行事の開催は子どもだけでなく、大人、地域も元気にしていく。行事や祭はハレとケを経験することで自分の気持ちを表現する機会となる。回復過程の中で悲しみに一区切りをつけ、日常生活に戻ることは自分に起こったことを受け入れ、整理する「喪の作業」になるはずだ。行事に関しては、3月11日というようなエポックとなる日が近づくと悲しみが増していく「記念日現象」が懸念されるが、心配してくれる大人やメンター、一緒に過ごす友だちの存在が支えてくれる。環境、場の力は基盤であり、それに支えられて子どもは工夫し、頑張りを見せる。
 レジリエンスを育てることを石隈さんは「自動充電システムを育てる」と表現した。子どもの語り、気持ちに耳を傾け、同行者として行動する、フィードバックをする。時には同行者もメンターとして自身のことや気持ちを率直に語ることも大切なことだ。そして、子どもの小さな一歩をともに祝おう。これは援助役割を担う人が燃え尽きないための原則でもあり、こうした機会は家庭や学校には一杯あるはずだ。子どものレジリエンスを発見し、伸ばしていこう。小さな援助を基本に危機感と責任と希望を共有して、子どもと同行しよう。合言葉は「自分が資源 みんなも資源」だ。

      対談 石隈利紀さん & 伊藤伸二さん

ナラティヴの再構成

 伊藤さんは21歳までの人生は暗く、どもりを治すことを諦め、セルフヘルプグループを作ってからの人生は一転して明るいというストーリーを繰り返し語る。語り続けることでこのストーリーは伊藤さんの中でより語りやすい、納まりのよい物語になっている。しかし、強化されたストーリーはまだ語ることのない、オルタナティヴな物語を隠蔽する働きをもってしまう。
石隈さんという良き聞き手、インタビュアーは、この、まだ生成されていないストーリーを明るみに出そうと努めるとともに、伊藤さんの物語、語りをウォーリン夫妻のレジリエンスの構成要素に従って、位置づけ、再解釈をするというマッピングの時間にもなった。16年ぶりの密度の濃い対談であった。
 2浪して大学に入った伊藤さんは高校時代を振り返り、盛んに「勉強しなかった」というが、読書好きの父親の影響もあり、音読は苦手でも本を読むことを好み、また映画好きな少年時代を過ごした。これで培った人生に対する読解力が、東京正生学院での同じどもる人との語り合いを通して、吃音の課題の本質を掴み、治すことを諦める「洞察」へと導いたと石隈さんは指摘する。

 「吃音は隠さなくてはいけない」というとらわれから解放され、つらく悲しい出来事、失敗した体験の語り合いが、笑いや「ユーモア」へと転化する経験やどもりながらも社会人として生活している人たちと出会い、メンターとつながり、「関係性」をつくることがセルフヘルプグループ創立へと伊藤さんを導いた。そしてグループでの活動を通して「独立性」と「イニシアティブ」が鍛えられていく。グループ自身も成長した。
 さて、伊藤さんは学資や生活のために、ありとあらゆるアルバイトを始めるのだが、こうして踏み出せた根拠を母親や初恋の人に愛されたこと、メンターと出会えたことというエリクソンの発達課題でいう「基本的信頼感」があったからと語るが、石隈さんはこの解釈にも一石を投じる。
 伊藤さんは吃音への対処に明け暮れていた高校時代は暗黒で、よい記憶が一つもないというが、60歳になって同窓会にも呼ばれ、当時の思い出を語ってくれる人、好きだったと言ってくれた人と再会する。当時の記憶を包む箱の色が暗いだけで、実際にはいい経験もあっただろう。当時は受け止める余裕がなかったことなのだ。今の伊藤さんのレジリエンスにつながる経験なり、何かの要素があるはずだ。石隈さんはここから伊藤さんの新たな語りの可能性があるのではと予想する。
 過去の事実は変わらないが、その意味づけは変えられる。物語を書き換えていくことで、私たちの人生は変わっていく。それはどもる状態の改善とは関係のないことなのである。

吃音と無痛文明

 しかし、どもる状態にばかり焦点をあてる動きがある。発達障害者支援法に吃音も含まれることが周知されていくことを背景にして、いまや言友会は吃音の治療改善に完全に舵を切ったかのような印象を受ける。吃音で困っているので、この状態を少しでも減らさなければならないの考えは無痛文明的発想で、医療モデルに依拠してしまっている。彼らは感染症のように吃音と向き合うのだろうか。吃音はどもる状態が軽くなるほど、隠せれば隠せるほど、悩みとしては深くなり、予期不安や場面恐怖は増していく。これらに対処するために医療の世話になる、薬でも飲むというのだろうか。
 レジリエンスは教育と相性のよい概念である。教育モデルで吃音の課題を考えると一次的な予防としては、子どもの世界にトラブルは常に起こるものだから、それへの対応力をつけようとする。友だちからの素朴な疑問やからかい、真似への向き合い方や吃音の基礎知識を身につける。特に学年、クラスの変わる新学期の前後は丁寧にことばの教室で取り組みたい。二次予防は吃音を否定的に捉えることで起こるマイナスの影響の副作用を予防することだ。このための創意工夫とサバイバルの中に子どもの「創造性」が発揮されていく。
 丁寧で誠実な生活の中で自然と変わるのが吃音だ。結果として変わるのであって、軽くなること、変わることを第一義とはしないということだ。「吃音を治す努力の否定」は、人生にはどもる状態にではなく、向き合うべきもっと大きな価値、課題があるはずだ。自分のエネルギーの許容量を考えて、有効に配分しようとのメッセージなのである。
 石隈さんはそうしたエネルギーの使い方を映画「釣りバカ日誌」の釣りも家族も仕事も大事にする主人公のハマちゃんを例に紹介した。伊藤さんは子どもの生活で、自信となるものを見つけるより、夢中になれることを見つけようと提案する。
 最後に石隈さんが私たちに送ってくれたエールは、企業化された現代社会に生きる教育関係者は、あることの情報入力、インプットに対する出力、子どものアウトプットを評価しがちだが、その後の結果、効果であるアウトカムこそ評価すべきだという視点だ。何らかの働きかけによる一時的などもる状態の変化より、子どもの人生がどう豊かになっているのかという長期的な視野をもって同行することが大切なのである。これは子どもと関わるすべての人がもつべき「モラル」なのである。 報告 坂本英樹(どもる子どもの親、教員、大阪吃音教室)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/05/05

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