「どもり」のアイデンティティ 2     

一昨日の続きです。

吃音とは全く関係がなかった国重浩一さんが、ここまで吃音と関連させて論考してくださったことは、本当にありがたく、うれしいことでした。吃音がナラティヴ・アプローチと相性がいいことの証しでしょう。

 国重さんとの最初の出会いを思い出します。初めてお会いしたとき、僕たちの活動に興味・関心をもって、たくさん質問してくださいました。僕たちの2泊3日のワークショップである吃音ショートコースに講師として参加してくださったときも、吃音について事前に詳しく調べてきてくれました。ナラティヴ・アプローチを身をもって示してくださったと深く感謝しています。

 「スタタリング・ナウ」2016.6.20 NO.262 に掲載した国重さんの文章のつづきを紹介します。

「どもり」のアイデンティティ 2

    ダイバーシディ・カウンセリング・ニュージーランド マネージャー/臨床心理士
    ニュージーランド・カウンセラー協会員 国重浩一

発達障害という文脈

 発達障害で検討されている一連の状態像がある。それは、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症(ADHD)、学習症(LD)などであるが、この概念が必要なのは、この領域の状態像を有する人々が、このような概念がないとまったく理解されず、「普通」であることを求められて、社会生活を送るのがたいへん苦悩に満ちたものとなってしまう故である。
 この概念を明確にすることによって、その状態像を持っている子どもや大人たちの内面を、周りの者が少しでも理解あるいは想像できる助けとなることが多分に期待されている。その概念なしに、この子はなぜこのように振る舞うのか、なぜこのように受け取るのか、をうまく理解できる人は少ないからである。
 そのため、適切に理解してもらうために、多くの研修会が開かれ、啓蒙活動が行われている。それは、名称が与えられたことによって得られるメリットが、そこからのデメリットを上回らなければならないからである。発達障害を有する人々が持つ特性が理解され、それにあった職種、職務、対応方法によって、その人々が自立し、社会生活をより充実して送るようになってきている、という話を聞くこともあるようになった。ところが、一方で、発達障害をちょっと変わった人々に容易にあてはめ決めつけるようなことも確実に増えてきている。
 つまり、この領域でも名称は独り歩きし始めている。そして、その概念の領域が膨れ上がっている。変わった人に対する総称として機能し始めているのだ。
 この発達障害の領域で活動していると、概念とは所詮、いろいろな謎を解くためのヒントにしかならず、そのヒントを使って試行錯誤する努力が求められているのだと気づく。なぜならば、この概念そのものがかなり多様なものを一括りにしているからである。言い換えれば、この領域にいる人々は、まったくもってさまざまなのだ。ひとつの概念でくくれるような一様な集団ではない。
 一人ひとりのことをじっくりと理解し、その人の立場からできることを見出し、その人のどのような側面を周りに理解して欲しいのかについてのニーズは、すべて異なる。興味深いことに、このようなレベルの対応においては、発達障害のような概念はあまり必要ないとさえ思えることがある。

発達障害の文脈における「どもり」の居場所

 さて繰り返すが、吃音という状態像は私たちの社会で、奇妙なほど語られない形で存在している。発達障害の話は、最近はいくらでも出てくるのだが、どもりの話を聞くことはめったにない。そして、私たちが取り組むべきことは、吃音のアイデンティティの改善である。吃音が、吃音として多様に語られることによってそれはもたらされる。ところが、吃音が発達障害としてみなされることは、吃音が語られることにつながるとは限らない。
 実際、周りがどのような反応で受け取るのかと思い、自閉スペクトラム症の人を身近に持つ家族に、吃音を発達障害の一つとして理解しもらおうとすればどのようになるのか、試してみた。案の定、吃音の状態像を有する人々は、ソーシャルスキルが必要な人である、という第一印象を形成して、話し始めたのである。
 ここで、吃音が本質的にソーシャルスキルから生じるコミュニケーションの問題ではないことを断っておく。特に自閉スペクトラム症の状態像を有する人々に、ソーシャルスキルの訓練が必要であり、周りもその特性に応じたコミュニケーシヨンを取っていく必要があるのは、その人の発語が明瞭でなかったり、語彙が足りないからではない。時にたいへん高尚な言葉を用いて、見事なまでに話すことができる。ただ、その表現方法がわかりにくかったり、その表現が不適切であったり、間合いが良くなかったり、相手の言葉をうまく解釈できない時があるからである。当然誰にでもそのような場合があるだろう。しかし、それが双方向とも注意して会話を進めないと、大変な誤解につながる可能性が高い。

 つまり、吃音という、一見コミュニケーションの問題として認められる問題が、ソーシャルスキルの問題かどうかという視点で検討してみると、その本質がより明確になる。実は、どもりの問題は、本質的にソーシャルスキルの問題ではなく、コミュニケーションの際に使われる媒体の問題として理解すべきなのだ。

 ソーシャルスキルの問題として取り組むということは、コミュニケーションのやり取りのコンテンツを問題視する。そのため、ソーシャルスキルトレーニング(SST)では、どのような場面でどのようなことを言うべきかについての支援を提供する。
 ラジオを例に取るとわかりやすいだろう。ソーシャルスキルの問題とは、ラジオの音は明瞭に聞こえるが、そこで語られるコンテンツは改善しなければならないということである。一方で、どもりの場合には、ラジオの音が時々明瞭に聞こえないことがあるものの、そこで語られるコンテンツが問題ではないということになる。つまり、多分にどもって話したとしても、コンテンツが問題をはらんでいるのではないので、どもってでも話をしてくれればコミュニケーションは成立する。
 私は、英語圏で生活しているので、ここで私の日本語なまりのアクセントが、どの程度コミュニケーションに影響を与えているかについて考えてみる。私は、聞く人が聞けば、はっきりと分かる日本人独特のアクセントを持っている。それは時に相手の誤解を招くこともあるし、人に聞き返されたりもする。ところが、コミュニケーションは成立する。それは、私がソーシャルスキルという点において、コミュニケーションを成立するために必要なものを持っているということになる。発語がおかしいが、その内容はコミュニケーションを成立する際に特別な問題をはらんでいるということではないのだ。

 発達障害の領域で問題視され、取り組もうとしているのは、ソーシャスキルのことである。それは単に発語に問題にある人々に必要なことではない。
 つまり、吃音は吃音の問題として扱われる必要がある。そうしないと、「どもり」が理解されることにはつながらないだろう。現在の発達障害全般で培われていることは、吃音のことではない。そのため、相当な啓蒙活動をしなければ、吃音が発達障害の領域で認められ、適切に対応されることとはならない。ところが、今、発達障害という領域の中で、吃音の居場所はほぼない、と言っていい。
 そしてここで気づくべきことは、どもりをわかってもらうための相当量の努力を、「発達障害」という診断名でもない、単なる便宜上の概念の中でする意義があるのだろうか、ということである。その努力は、この論考の主旨である、社会文化的な文脈でこそするべきではないだろうか。
 たとえ、長いものに巻かれ、どもりが発達障害に含まれて、そこから支援を受けることにつながり、利益を得る人が出てこようとも、「どもり」というものの存在の理解がより広がることはあまり望めない。その領域で取り組んでいる専門家は、自閉スペクトラム症、ADHD、学習障害という枠組みで精一杯である。この領域の学習が十分であると思っている専門家も少ないなか、「どもり」にその注意を向ける余裕はない。

当事者運動のミッション

 日本語の「当事者」という言葉は素晴らしいと思っている。英語ではこのニュアンスを伝える言葉がない。利用者(User)という言葉を使ったりするが、この時点ですでにある種の専門サービスを利用する人という含みがあるので、受益者という立場の域を出ない。っまり、主体性のある存在である含みを与えることができない。
 専門家が当事者から学ばなければならないという姿勢は、今、まさしく起こっていることである。そして、それが今後のいろいろなところで広がらなければならないこととして語られられはじめている。
 筆者は、最近「精神病と統合失調症の新しい理解」という本を訳して出版した。これは、英国心理学会・臨床心理学部門が2014年11月に公開した報告書の全訳である。本書の中で、「精神病」あるいは「統合失調症」という概念がいかに当事者を社会的弱者へと追いやり、そのことがさまざまな弊害をもたらしてきたかが指摘されている。また、「統合失調症」という診断名がいかにあやふやなものかについても指摘している。このような告発的な内容の報告書が、英国心理学会の統一見解として出版されたことの意義は大きい。
 この報告書に汲み取れる姿勢は、専門家の理解様式を押し付けるのではなく、専門家が当事者から学ぶことの重要性である。専門家の理解は、当事者が自分のこととして実体験して学び取ったことによる裏付けが反映されなければならない、ということでもある。これが今、さまざまな領域で起こることが期待されているパラダイムシフトなのだ。
 当事者グループは、専門家が勝手に作り上げた便宜上の説明概念に身を委ねるのではなく、自分たちの多様な実体験を提示し、本当に必要なこととは何であるかを提示することが求められる。
 それは小さな声としてしか存在できないように感じるかもしれない。それは専門家によって無視されてしまうと感じるかもしれない。その声が「どもりのアイデンティティ」に変化をもたらすことはないかもしれないと感じるかもしれない。
 しかし、当事者のグループがその小さな声を封じ込める時、専門家というやたらと大きい声がのさばり、モノトーンの世界を作ってしまうことになる。この景色から生まれるアイデンティティは、あまり希望をもたらしてくれそうにない。専門家のつくり上げる問題のアイデンティティは、その問題がいかに問題として大きいものであるかを強調するだけで、それでも豊かな人生を送ることは可能なのだということを見出してはくれない。興味深いことに、診断名に忠実になればなるほど、その診断名にはまり、抜けられないことになる。それから逃れるための有効な手段のひとつは、その診断名から離れることである。専門家を自分たちの上に位置づけるのではなく、自分たちと共に歩んでくれる、「協働」してくれる立場に位置づけなければならない。

「どもり」とつき合う

 「治療」あるいは「治す」という言葉の意味は多様である。末期ガンのような不治の病は「治療する」とは言えるかもしれないが、「治す」とは言いがたい。「どもり」については、どもりを「治療」するとも、「治す」とも語られている。その状態像が変化すれば、治療したことになるのか、その状態像が少し収まれば治ったことになるのだろうか。言葉の難しさは、その言葉によって何をするのかを厳密に示す必要性もなく、それぞれが自分の文脈で「勝手に言えてしまう」ことにあるだろう。
 そのため、各自が独自の感覚で、治療できたとも言えるし、治療できなかったとも言える。これは、政治家の答弁に似ているであろう。その政策が「一定の成果があった」とは、それがどんなに酷いものであっても言うことができる。
 ここで私は、治療「できた・できない」の議論に入るつもりはない。ところが、どもりをその状態像だけの問題に帰する時、その現象の変化によって、治療が成功したかどうかを測定することは不可能なことではない。つまり、どもりを隠すことがうまくなれば、治療は成功したことにもできる。しかし、ここで証明されたもの、つまりこのエビデンスとは何なのだろうか?当事者が日々の生活をおくる上で、またどもってしまう時のことを考える際の苦悩や羞恥心、恐怖について何か示唆することがあり得るのだろうか?
 どもりの問題とは、どもる状態像の量の問題ではないという本質的な理解を置き去りにしてはいけない。問題とすべきは、そのどもりがどの程度その人の人生に影響を及ぼしているのかである。
 「どもり」が自分の人生に影響を及ぼしてきた時、そして、そのどもりを完全に追い出すことができない場合、残された道は、その「どもり」とどのように付き合っていくか、ということである。
 どもりを完治させる方法はないが、この「どもり」との付き合い方を変えていく可能性はある。「どもり」の存在感を薄くする可能性もあれば、「どもり」ということに価値さえ見出す可能性もある。
 それには実際の他者が必要となる。自分の中にある架空の他者は、たいへん手厳しい。否定的なことしか伝えてくれない。どもりの意味付け、つまりはどもりのアイデンティティを変更できる役割を担う他者となってくれるのは、どもりという存在を受け入れ、その存在を許すものの、支配させないことができる、家族や友、そして教員や専門家、そして当事者グループなのだ。
 どもりとの付き合い方とは、「どもり」と向き合いながらも、「どもり」の状態像が焦点化されないことでもある。どもるとか、どもらないとかだけを追わないということである。そこでは、どもりという状態像があっても、それがあたかも存在しないかのように、会話をすすめることができるということを目指すことである。
 アルコール依存症の自助グループであるAAにおいては、酒を飲むことがその問題の本質であるとは認めない。AAでは、禁酒のキャンペーンをすることはない。問題を、飲むとか飲まないとかの、単純化された論争に落としてはいけないということだ。現象を追うだけでは、問題を解決するどころか、問題の落とし穴にはまってしまい、結局は、その問題の存在を強化してしまうことだってある。どもりの問題を考えるときに、このAAをたいへんよく似た存在として理解する必要がある。もしこの点にピンと来ないのであれば、分かるまでじっくりと向き合って欲しい。
 どもる状態像を有する人々の助けとなるのは、社会文化的に維持されている「どもりのアイデンティティ」の改善を通じてである。それは、その状態像を有する人たちだけではなく、それに関係のない人々も含めて、人々が語ることによってもたらされる。私は、この会話に多くの人々を招いていきたい。それは、支援が必要だからなのではないし、可哀想だからでもない。その逆だ。変な気を使わないように、下手な支援をしないように、そして、変にかわいそうだと思わないようにしていきたい。それは、「どもり」という名称で括られた人としてではなく、「どもり」という状態像を有しているものの、一人の人として、対話ができるようになることを目指すということである。
 今確信を持って言えるが、私はあなたが私にどもって話をしても、まったく気にならない。でも、よく聞こえないところは聞き返したい。最初の発語を待つ必要があれば待ちたい。そのようにしたいのだということを言える機会が欲しい。それは、「どもり」ということについて語ることが許される場においてこそできる。それは、隠そうとしている人に対して、どもっていることを指摘して得られる機会ではない。
 実際に、どれほど世の中の人びとが私と同じように、相手がどもるのを気にせずに話すことができるようになると想像したことがあるだろうか。実は、圧倒的多数なのだ。必要なのは、「どもり」という状態像を見て見ぬふりをしないで、その存在を話すことができる社会文化的環境である。多くの人々は、相手がどもっている場合どのように振る舞ってよいのかわからない。この人たちに対する、啓蒙的な活動が求められている。
 つまりこれは、個人の問題に帰するようなものではない。これは、当事者ではない人々も参加しながら、つくり上げるものだと理解すべきである。
 ニュージーランドで、長年の取り組みによって、やっとできるようになってきた会話は、同性愛の人が自分のことを明示して話を始めるということである。この会話に慣れると双方楽である。結構多くの人がこのことをあからさまに語ることができるようになってきている。以前、私が所属するカウンセラーの学会で、自分が同性愛者だと思う人がすべて立ち上がり、同性愛の結婚が可決されたことを祝ったことがある。そのため私は、カウンセラーで誰が同性愛なのかだいたい知っている。それを知っていることが、その人と話すことの妨げとはなっていない。この取り組みは容易な道のりではなかったし、まだ道半ばである。しかし、それなりの進展を見ることができるところまで来た。
 「どもりが現象以上のものではない」ように扱われる必要があるだろう。現象以上のものではないとは、その状態像があることは認めるものの、それが、その人の人となり、能力、将来について何も示唆していない、ということである。
 広い世の中には、その数は少なくとも、どもって話す人もいる。わたしたちは、このように話す人々に対して、どのようなアイデンティティを提供したいのだろうか? 発語に問題があるから、これからの人生にあるさまざまな可能性を自粛しなさいとでも伝えたいのか? もし、そのような状態像があったとしても、それを跳ね除け、自分が本来持っている能力を発揮して生きていって欲しいのであれば、わたしたちは、どのような「どもりのアイデンティティ」をこの社会文化的な文脈でつくり上げる必要があるだろうか?
 それは、悲観的な将来像で圧倒してくるようなアイデンティティではないだろう。それは、どもりという状態像を持って生きていくことの困難さを無視するような、単なる楽観的なものでもない。それは、そのどもりという状態像をしっかりと見つめることを許してくれるようなものであるべきだろう。それによって、わたしたちはそのことをしっかりと話すことができるようになる。
 わたしたちはそれぞれの立場から、作り上げていくべき「どもりのアイデンティティ」にどのような貢献ができるのだろうか? 私は、この問いかけを常に自分に問いかけていきたいと思う。今、圧倒的に足りていないもの、それは、どもりという状態像をめぐる語りではないだろうか。それは、専門家が当事者の一人ひとりに耳を傾けることから始まるべきなのだ。

《参考文献》
 Madigan,S.(2011).Narrative Therapy.American Psychological Association.児島達美・国重浩一・バーナード紫・坂本真佐哉(監訳) 「ナラティヴ・セラピストになる―人生の物語を語る権利をもつのは誰か?」2015 北大路書房
 Cooke,A.(Ed.).(2014).Understanding Psychosis and Schizophrenia.British Psychological Society Division of Clinical Psychology.国重浩一・バーナード紫(訳) 「精神病と統合失調症の新しい理解―地域ケアとリカバリーを支える心理学」2016 北大路書房 (了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/05/01

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