「どもり」のアイデンティティ

 2016年の1月号から6月号まで、6回連続して、「吃音と発達障害」、「吃音の障害認定」についての特集を組んでいました。それほど衝撃的なできごとだったということです。いつの間にか発達障害の中に入っていた、というのが僕たちの正直な感想なのですが、この「いつの間にか」に流されず、立ち止まって注意深く考えていきたいと思います。その最終に、国重浩一さんの寄稿を掲載できたことは、ありがたいことでした。
 「スタタリング・ナウ」2016.6.20 NO.262 より紹介します。

  「どもり」のアイデンティティ
    ダイバーシディ・カウンセリング・ニュージーランド マネージャー/臨床心理士
    ニュージーランド・カウンセラー協会員 国重浩一

 本論考は、吃音、いわゆる「どもり」を発達障害という領域に含めていくことについて、人に与えられる名称がどのようにして人のアイデンティティを形成し、その人の将来に影響をもたらすか、という視点から検討を加えたものである。ここで問題視すべきは、「どもり」という状態像そのものではなく、「どもり」をめぐって社会文化的な文脈で維持されている「含み」なのである。それに取り組むことの重要性について述べたい。

人を描写する名称

 人に与えられる名称は、社会文化的な文脈で意味づけられており、その人の社会でのあり方に多大な影響を与える。社会でのあり方とは、その人が自分自身をどのような存在であると感じ、人間関係の中でどのように振る舞っていくかということである。このあり方を、ここで「アイデンティティ」と呼ぶことにする。アイデンティティという言葉には、いろいろな立場から多様な定義付けがなされているが、ここでは、社会生活を営む上で自分が誰なのかということを、本人、あるいは、周りがどのように理解していくかを示すものとする。
 アイデンティティは、人が本来独自に持っている性格特性や発達段階だけで決まることはない。常に社会文化的な文脈で理解され、意味づけされる。そして、それをどのように自分のアイデンティティの一部として取り入れるかには、その人自身独自の傾向にも左右されるが、その人を取り巻く人間関係が大きく影響を与える。つまり、社会文化的な文脈で理解することとは、社会文化内で、人と人が交わす言葉によって強調される方向性を汲み取ることなのである。
 人は、社会生活を営みながら、自分に向けられた名称の持つ意味をさまざまなところから見いだそうとする。ほかの人が自分をどのような眼差しでみつめているかという予測、そしてその上で、自分がどのような存在であるかの概念をつくりあげようとする。それは、さまざまな形態で存在する発語やテキストによって直接的に語られるだけではなく、社会の常識的考えから導き出される至極当然の結論として自分の中で導き出し、自分の中に取り入れる。つまり、「ほかの人は自分のことをどのように思うのだろうか?」と自分に与えられた名称を軸に推測していくのである。この推測は、それぞれの個人の考え方をべースとしているというよりは、その社会で当然とされている予測に依存している、と表現するほうがより適切なのだ。
 その際に、自分に与えられた描写(名称)が否定的な含みを持っていればいるほど、その影響が大きい可能性がある。
 一般的に、ポジティヴな描写、例えば、「専門家」「医師」「大学教授」「先生」「芸能人」などといった名称は、その人の考えや発言は聞くに値するという期待を多くのものに抱かせる。このような人々の発言に、私たちはより多くの意義や重要性を見出そうとする。それがたとえ、これまでの常識的な知識の無思慮な繰り返しであったとしても、何か特別なものを汲み取ろうとする。
 一方で、「障害者」「精神疾患者」「ただの素人」「主婦」「子ども」など、社会文化的に重要視されない描写を与えられてしまうと、周りの者が抱く価値は上がらない。少なくとも、そのような描写を与えられた当の本人たちには、そのように感じられる。この場合、その人自身が本来持っている性質や能力を認められる前に、与えられた描写が周りの者の持つイメージを形作ってしまうのだ。
 この傾向は、専門家であろうと、素人であろうと関係なく、社会全般に存在する。そして、それを直に感じるのが、このような描写を与えられた人々なのである。
 つまり、ある描写を人に提供するということは、その人がどのような人かということを、社会的に宣言することに等しい。「お前は○○ような者だ」ということを、本人に代わって社会に向けて表明してしまうことがあるのだ。そのような描写の代表的なものが診断名(分類名)である。
 診断名の必要性はいくらでも正当化できる。社会システムの政策を考え、そこに予算をつけ、それを調査し実態を把握し、それに対する効果的な治療方法を検討するために、一種の分類システムの存在は不可欠なものであると主張することは理にかなっている、と容易に思える。
 もしそれらのことが、本当にその問題の消滅、解決に繋がるのであれば、そのような描写を一時的に与えることを必要悪として認め、そのような描写が与えられるのに一時的に耐え忍んでもらうことは、十分に正当化できるように私も感じる。しかし、それはその「もし」が本当になる可能性がある場合のことである。
 私たちは、「人に名称を与える行為」に無頓着すぎるきらいがある。人に与える名称が独り歩きする危険性を過小評価するきらいがある。

アイデンティティ

 ここで、なぜ「アイデンティティ」を重要視するのかというと、端的にいえば、アイデンティティは、「今」のことだけではなく、「将来」のことだからである。アイデンティティは、その人のこれからの人生に大きな影響をもたらす。
 前向きなことを示唆するアイデンティティと、否定的なことを示唆するアイデンティティでは、その人が抱く将来像、つまり自分が将来どこに到達できるかという漠然とした期待に、大きな差が生じることは容易に想像できる。
 将来に向かう未知の旅路を支えてくれるのは、個人が自分に向けることのできる前向きさである。この前向きさは、個人だけでつくり出すことはできず、その人を支える周りの存在も重要な役割を果たす。そのため、できないと自覚してしまうようなアイデンティティではなく、困難を乗り越えてでもやっていけるという可能性をいだかせるようなアイデンティティを作り上げることが求められる。
 これを、一般に繰り返し述べられる「自信∫と重ねあわせて理解することもできるだろう。少し話題がそれるが、さまざまな研究結果が日本人の自信の低さを指摘している。しかしこれは、ほかの文化圏と「自信」の概念が違う可能性があることを指摘しておこう。日本では、自信とは何か特別なことをして得られるものであるという発想がある。日本では、特別な賞や優秀な成績を取ることが自信につながる、と考えられる。一方、私が今住んでいるニュージーランドでは、「自信」とは、人が何かを始めるときに人として最低限持つべきものとして理解される。この概念の差は大きい。日本の「自信」は、すべての子ども分用意されてはいない。なぜなら、一等賞や最優秀賞は、それぞれひとつしかありえないからだ。この概念では、すべての子どもに自信を提供することができない。しかし、ニュージーランドの概念では、何か特別なことを成し遂げなくても自信を持っていていいのである。すべての人が持つべきものだし、持っていいものなのだ。よって、自信を持っている人、つまり自信家は、傲慢さを意味しない。
 このような社会文化的文脈で維持されている概念は、人のアイデンティティを作り上げる上で大きな役割を担う。

マイノリティ(少数派)を異常とみなすこと

 人は時に、発生頻度で見れば、一般的、つまりあまり普通であるとはいえない状態像を見せる時がある。ここで「症状」という言葉を使わずに、状態像という表現を使ったのは、「症」という言葉がすでに「病気の性質や病気」という意味を含んでいるからだ。つまり、それを「疾患」とみなすかどうか以前の議論をしたいということである。
 マイノリティの存在は、近代の統計という概念に密接に絡み合っている。ある集団を何らかの基準で測定すると、正規分布による統計処理をすることで、グラフの右端と左端に位置する人たちを「必ず」生じさせることになる。この両端の存在は、理論的になくすことができない。どれほど支援しても、どれほど改善しても、このような統計処理は「必ず」両端を作り出す。
 たとえば、身長や体重、学力、俊敏さなどから性格特性のようなものまで、実に多くの測定基準がある。その基準それぞれに、マイノリティとみなされる領域があるのだ。私なら、音感(音痴)という基準で、マイノリティの領域にいける自信がある。
 ここでの考え方は、何らかの基準に照らしあわせて、両極端に位置するものは「正常ではない」とみるということであろう。そして、正常ではないものには何らかの対応手段をとるべきであるということになる。この論理も多くの場合、たいへん理にかなったものであろう。たとえば、極端に多くの収入を得ているものに対しては相応の税金を払ってもらうことを検討すると同時に、極端に少ない収入を得ているものに対しては、何らかの支援を検討するということにも繋がるものである。
 しかし人が示す多様性に対して、それぞれの状態像に尺度を設け、データを集め、両極端を異常、あるいは障害とみなすことについては、たいへん慎重に臨む必要がある。
何らかの要素によりマイノリティに属している人々は、この発想にずっと苦しめられてきた。たとえば、性的な志向が異性愛ではない人たちが、その典型である。精神障害の診断と統計マニュアルでは、相当なディスカッションと当事者からの運動によって、同性愛を精神疾患としてマニュアルに含め続けるのかどうかという決議を図ったことがある。1974年、米国精神医学会(APA)の「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」から同性愛という診断分類が削除されたとき、文宇通り一夜にして何百万人ものアメリカ人が健全だとみなされるようになったのです。このとき、米国精神医学会が、同性愛はもはや精神疾患ではないと決定したという声明を発表したことは大きなニュースになりました。この決定は、ゲイの活動家たちが米国精神医学会の大会の前でデモをおこなっている時に可決されました。1974年の投票では、5854名の学会員が同性愛をDSMから削除することに賛成し、3810名が反対しました。(Madigan,2011,p.30/邦訳p。28)
 このことは、単にマイノリティに属することが「異常」であり、それゆえに何らかの「障害」であるという考え方が有益ではないどころか、多くの人々を安易に精神障害者としてしまうという弊害があるのだという気づきを私たちに与えてくれる。社会的に十分機能できる人々に、精神障害者という肩書を負わせて社会を生きていくことを強いてしまうということなのだ。
 また、ここで気づいて欲しいのは、このマニュアルが、その力を発揮できる地位に就いている専門家の「投票」つまりは、多数決によって決められているという事実である。診断名は、がん細胞やインフルエンザのような「バイオマーカー」(ある特定の疾病の指標となるような、計測可能な特質)によって決められる種類のものではない。単なる説明概念、つまり分類名にしか過ぎないということだ。その分類名に異常だ、変だ、劣っている、間違っているという意味付けを与え、維持しているのは、社会文化的な文脈なのである。

「どもり」のアイデンティティ

 やっと本題にたどり着いた。
 さて、「どもり」とはどのような存在なのだろうか?ここで、私はどのような状態像が「どもり」であるかについての議論を始めるつもりはない。なぜなら、その状態の程度と、その人の悩み、苦しみ、困難の程度に明確な相関関係があるとは言えそうにないからである。つまり、どもりの症状が酷ければ酷いほど、その人の人生における苦悩の度合いが増えるとは限らないということである。逆に、いくらどもりの症状が軽くとも、その悩みの度合いがその人の人生を押しつぶしそうにまで膨れ上がってしまうことも多分にあり得るということだ。
どもりの当事者のグループに行くと、どうしてその人が当事者なのかよくわからない人たちがたくさんいる。っまり、ほとんどの場合どもらないで話せる人たちもたくさんいるのだ。それでも「どもること」は、存在感を持ってその人の人生に影響を与えてきたのだ。そこで、当事者のグループにつながることになったのだろう。
 つまり(長い文で申し訳ないが)、「どもり」というものの特質を考えると、そのどもる状態像の程度ではなく、そのことを周りがどのように思うだろうかという、社会文化的文脈と照らしあわせて得られる、自分の中で推論される結論が大きな役割を果たしていると考えられる。
 つまりダメなもの、恥ずかしいものという結論が生じてしまうと、社会文化的文脈で強調される恥や不安と見事なまでにタッグを組んで、どもりという状態像を有する人々に襲いかかる。日本文化にある極端なまでの細部へのこだわり、つまり完壁さへの渇望は、どもることに対する寛容さをもたらしてくれない。
 「どもり」という状態像にまつわる、私たちが維持している社会文化的な含みは、面白いほど語られない形で存在している。メディアでも放送禁止用語になっているぐらい、普段耳にすることはない。私は臨床心理士であるが、私の領域でもテーマとして上がってくることも多くない。
 ところが、その現象を発語する際に有する当事者には、その含みが痛いほど伝わってくる。その現象の頻度や程度の問題ではない。自分に「どもり」があると認識して、それは恥ずかしいという結論が生じてしまった人々に、それは容赦なく襲いかかってくる。
 それは、強い劣等感、悲観的な将来像、狭い人間関係へと人々を追いやる。
 この「どもり」の問題を、その状態像の程度の問題として取り組むことは、「どもり」というものの存在を当事者の個人的な問題に帰することになる。「どもり」の問題が個人的なものとなる時、それは当事者の努力の問題となり、家族(特に親)の愛情などの問題となり、そして専門家の技量の問題となっていく。そこには、誰が悪いのかという「犯人探し」という罠まで待ち構えている。
 ここで必要とされているのは、本人の努力や、専門家の叡智を持ってしても完全になくすことができないこの「どもり」をめぐる社会文脈的な意味付けに取り組むことである。なぜなら、「どもり」を持っているという苦しみは、その人自身が「相手がどのように自分のことを思うだろうか」という、その人の中で行われる仮想的な他者との対話によってもたらされるからである。
 これを打開するためには、実際にこの対話に参加してくれる現実の他者の存在が不可欠となる。社会文脈的に「どもり」が決して異常でも、劣ったものでも、そして恥ずかしいものでもないということが、現実の他者によって語り続けられなければならない。それは、決して容易な道ではないのだが、その困難さに立ち向かうことこそが、当事者やその関係者、そして専門家にも求められる。
 そう、「どもり」の問題を解く鍵は、「どもり」という存在の意味付けを社会文脈的に変えていくことにあるのだ。これを「どもりのアイデンティティ」と呼ぼう。つまり、わたしたちは、この「どもりのアイデンティティ」の変容に取り組む必要があるのだ。それは、「どもり」という状態像を有する人の苦しみを包括し、それでもなお、それでいいのだという受容を提供できるようなアイデンティティへの変容を目的とすべきなのである。
 伊藤伸二さんを代表とする日本吃音臨床研究会の取り組みを見ていて思うのは、この社会にある「どもりのアイデンティティ」を何とかして変えようと努力しているのだろう、ということである。そのため、「発達障害」という概念がその「どもりのアイデンティティ」に対する取り組みに対して、覆いかぶさるように出現したことに対する戸惑いが想像できる。
 「どもりという状態像」を問題視する姿勢は、容易に「どもり」を否定することにつながってしまう。そして、「どもりのアイデンティティ」に包括されるネガティヴな側面が強調されるようになってしまうのだ。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/04/29

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