障害認定で人生が大きく開けるに違いないと考え始めているあなたへ

 吃音と発達障害をテーマとして、僕の仲間たちが危機感を持ち、書いてくれた文章を紹介してきました。ひとつのテーマをこれだけ長期間追い続けたことは、「スタタリング・ナウ」史上、初めてではないかと思います。自分の体験を振り返り、そこから導き出した意見表明、僕は、この仲間たちの存在を誇らしく思います。
 「スタタリング・ナウ」2016.5.21 NO.261 より紹介します。

  障害認定で人生が大きく開けるに違いないと考え始めているあなたへ
           掛田力哉(大阪スタタリングプロジエクト・大阪府支援学校教員)

1.はじめに

 私は、吃音が行政的な区分でいう「障害」として認定され、それを受け入れることでどもる私たちが本当により良い人生を歩めるなら、それに反対するつもりはありません。しかし、私自身や私が共に学んでいるどもる仲間たち、子どもたち、保護者たちの多くは、それに「違和感」を持っています。吃音が障害と認められることで、むしろ自分らしく生きることが困難になる当事者が増えるのではないかという危機感を持っています。
 この文章は、今まさに吃音の悩みの渦中にあり、「どもったままでは定職につけず結婚もできず、人生真っ暗だ」と考えているあなたに向けて書いています。吃音が障害として認められ、自分も障害認定を受けることで人生が大きく開けるに違いないと考え始めているあなたに是非読んでもらいたいと考えています。

2.人間の「対等性」について

 ままならぬ自身の吃音を憎み、ペラペラと自由にしゃべるクラスメートに激しい劣等感を抱き、なぜ自分だけが孤独でみじめな日々を過ごさねばならぬのかと、怠惰な生活を送り、未来への希望など全く持てなかった小学校時代。私に大きな転機を与えたのは小学校教員をしていた灰谷健次郎さんの本で、こんなエピソードが書かれています。

 ―「重度の」知的障害のある女の子が学級に入ってきて、子どもたちは彼女の言動に振り回される。彼女の身の周りの世話をする「ちあきちゃん当番」を子どもたちが作る。当番の子は、際限なく滑り台を滑る彼女に付き合ってパンツに穴が開き、泣きべそをかきながらも滑り続ける。ある日、彼女が隣の子のパンを取る。取られた子は「我慢」するが、ある子が「あかん」と言って彼女を叱った。議論が起こる。「ちあきちゃんがかわいそうだ」「いや、ちゃんと教えてあげなきゃ、ちあきちゃんも一人前になれへん」と。「面倒を見る、見られる」の関係性がそこから変わっていった―(1)

 灰谷作品には、病気や障害、貧困等、様々な事情による不当な差別や偏見と戦う子どもたち、その子らを前に戸惑う周囲の大人たちや子どもたちが登場します。その姿を通して最も伝えたかったメッセージは、「人間の対等性」ではなかったかと、私は今改めて感じています。一見「何の不自由もなく」過ごしていると私が思っていた周囲のクラスメートたちも、それぞれの事情の中で悩み考え、苦しみながら生きていた。様々な背景を持つ私たちが共に生きる社会で、そこには本来大人も子どもも、障害者も”健常者”も、教師も生徒もなく、互いは全く同等の権利を持った「対等な人間なのだ」のメッセージは、私の人格形成に大きな影響を与えました。
 これはきれいごとに過ぎる感傷的な表現に聞こえるかも知れません。しかし、人が共に生きるとき、必ず起こり得る葛藤やすれ違い、無理解等を乗り越えるためにまず必要なのは、一方通行的な「配慮」や「支援」ではなく、相手の様々な事情を徹底的に想像し、思いを率直に伝え合うこと、もし誤った関わりをして、相手を傷つけてしまったら、心から謝るなど、当然の人間的な営みなのだという灰谷さんのメッセージは、30年の時を経た現在も、私たちに痛烈な示唆を与えます。それは、障害の有無、思想的な相違、経済格差、性アイデンティティ、文化、人種等の「違い」を理由に他者との距離に戸惑う現代社会の人々の意識や社会構造が30年前からほとんど変わっていない、むしろ後退していることの表れではないかと、私には思われてなりません。

 十数年の時を経て、私はどもる人たちのセルフヘルプグループ「大阪吃音教室」に参加するようになりました。教室で、コミュニケーションや人間関係に悩みをもつ人たちのためのプログラム「交流分析」や「アサーション」を学んだとき、それらの根底に「人間の対等性」の基本理念があることを知り、驚きと感動を覚えました。(2)(3)
 その「対等性」の概念は、大阪吃音教室での様々な学びを通して、一人の人間、教員、父親として七転八倒しながら生きてきたこれまでの人生の様々な経験を通して、私の実感となり、「確信」となりました。一人孤独に悩んでいた頃の私は、何不自由なく楽しそうにしゃべり、自分の苦しみなど理解しようともしない周囲の人間を恨みながら生きていました。しかし、周囲の人たちが自分のことを理解しない、できないのは当然だったのです。まず私自身が、自らの問題を説明する知識も言葉も何も持たず、それを伝える努力も全くしていなかったからです。
 「大阪吃音教室」に出会ってから、私は新聞紙上や「国際吃音アウェアネスデイ」のオンライン会議などで、「どもる人とどもらない人が率直に対話する関係を作ろう」「吃音について真摯に伝え、固有の言葉で語ろう」と呼びかけてきました。どもる私もどもらない人も「対等な」人間同士であり、互いに尊重しあう関係にあるからです。(4)(5)

 自分も相手も大切にしたコミュニケーション法である、アサーションは、自他は異なる存在であり、互いに100%過不足なく分かり合うことはありえないことを前提としています。自分の思いを率直に語ることが重要であり、相手と意見が異なればそれは仕方のないこと、妥協点を探る方法はいくらでもあること、もし相手を傷つけたなら素直に謝れば良いことなどに気づくと、人間関係がそれほど苦ではなくなります。それらは「人間の対等性」が前提です。そこに気づけないで「生き難さ」を抱え続けている人はとても多いのです。人間の対等性に気づけず苦しんでいるのは、どもる私たちだけではないのです。

 吃音についてまず己が誠実に学び、丁寧な説明もしないまま、ただ「自分たちの苦しみを理解しろ、就職その他で合理的な配慮を行え」と強要するのは、対等な人間関係のルールに反しています。また、制度や法律的な「後ろ盾」を手にすると、私たちの多くは自分の権利や主義主張をあたかも「当然」であるかのように相手に強要してしまうことも、肝に銘じたい所です。
 
 私たちの仲間の多くは、職場や学校で様々な無理解に苦しんではいますが、セルフヘルプグループの話し合いで「法律を根拠に相手をどこかに訴えろ」との発想を持つ人はいません。「では、どうしたら良いか」「どのように理解してもらえば良いか」と一所懸命考えるのは、相手を「対等な」人間として尊重するからに他なりません。
 私たちが長年続けている「吃音親子サマーキャンプ」に参加した小学生は、『私はあ行が言いにくくて、みんなの前で「いただきます」が言いづらくて、なやんでいました。友だちに話して、せ中をトントンしてくれて、言いやすかったです。私のことを分かってくれていて、とてもうれしかったです。わたしのきつ音を、もっといろんな人に知ってもらいたいです』と綴っています。
 法律等で認められなくとも、自分たちの持つ困難を誠実に伝え続ければ、自然と「背中をトントン」してくれる大切な誰かがそばに来てくれることを、私たちは知っています。そんな大切な誰かが現れてくるためには、法や制度ではなく、『大変なことはいっぱいあると思うけど、大事なことは自分できちんと伝えていきたい』と語るキャンプの彼女のような、対等な人間社会の中で誠実に生きようとする「人生態度」が重要だと、私は今こそ皆さんに伝えたいと思っています。

3.「とんちんかんな支援・配慮」~吃音と合理的配慮~

 人間の「対等性」をはき違えたような、私にはいびつに思える人間観を目の当たりにすることがあります。特別支援学校の教員として採用された年、初任者研修の講師が「子どもたちを持ち上げる介助の際、決して『どっこいしょ』とか『よいしょ』という声をかけてはいけない」と言ったのです。最初意味が分かりませんでしたが、講師は「相手は物ではなく、人間です。『どっこいしょ』は、物を持ち上げるときの言葉です」と続けたのです。
 当事者からそのような思いを聞き取ったなら話は分かりますが、そうではない様子でした。私は寒々しい心持で会場を後にしたことを覚えています。親が子どもを背負うとき、誰かが己の身体を使って相手を持ち上げてあげたいと思うときに、「物を持ちあげるような気持ち」で大事な相手に関わっているわけではありません。障害のある人を抱え上げるときに「どっこいしょ。今日もいい天気だね」「そうだね」のどこがいけないのでしょうか。同じ人間同士であると言いながら、自分勝手な思い込みや理想論で相手に向き合うこと自体が、私にはよほど人間同士の関わりのルールから外れた、無神経で失礼な態度ではないかと思われました。

 そんなとんちんかんな障害理解の行く先には、私たちを「支援する者」と「される者」という固定化された関係性に落とし込める危険性が待っていように感じられてなりません。「支援する者」はいつも完壁に「される者」を理解し、適切な支援を行い、間違った対応をしてはならない。反対に「支援される者」は、いつも快適な支援や理解を受けて当然で、それを提供できない支援者は不適格だ、というような意識がはびこる先には、いつも人々が不安や不満を抱え、互いに「おっかなびっくり」関わらなければならない窮屈な社会が待っている可能性があることを、私たちは覚悟しなくてはなりません。

 障害についての「専門的知識」を熱心に勉強する教員はたくさんいます。中には子どものことを障害や特性等のものさし以外で理解しようとせず、自閉症児にはこれ、ADHD児にはこれといった具合に、先回りして「配慮」や「支援」を繰り返す教員が現れます。うまくいけばいいのですが、人間同士として泣いたり怒ったり、喜び合ったりしながらつき合ってきたこれまでの教員たちとその子の人間としての「対等」な関係がどんどん壊れていき、その子が「その子らしさ」を失っていってしまうことも見受けられます。あらゆる「支援」がないと落ちつかない表情になり、人の顔も見ずに「支援グッズ」にばかり固執するようになった子どもたちを幾人も見てきました。その教員たちは次々と新しい「支援グッズ」を作らなければならなくなり「ああ、大変だ」と嘆いています。そんな現状を、障害児教育に長年携わってきた宮崎隆太郎さんがこう書いています。

 『教育行政関係者や学者や専門家の多くは、日常的な生活場面で、「○○ちゃん」という固有名詞を持った障害児と関わってはいません。「発達」や「障害」の視点では子どもを見ますが、子どもの内面にある思いや願いを日常生活の中で汲みとる努力はほとんどしていません。また、生活経験のありようや人間関係を豊かに変化させることで、子ども自体の内面も外面も大きく変わる事実を創り出すための試みなどめったにしたことがありません。いま、障害を持つ子どもたちが一番求めているものは、身近なところで日常生活をともにしている人たちの「肌ざわり」「手ざわり」の接触です。行政が借り物で作った個別教育プログラムを主張したり、学者や専門家が具体的な子どもを目の前にしないままに外国から輸入した訓練や療法をすること以前に、日常生活をいかに楽しく豊かなものにするかの人間的な関わりを模索することの方がずっと大切なのです』(6)

 吃音が「障害」として認められ、支援や配慮が「義務付け」られていった先にどのような事態が起こりえるか、私には想像がつきます。吃音改善のための「何とかプログラム」を勉強した教員たちが「大変だったね」と訳知り顔で近づいて、自分の学び得たそれらの技術で熱心に、善意でその子を「支援」しようとするでしょう。「どもる子には、無理に発表をさせてはいけない」等の「合理的配慮」を鵜呑みにした教員が、腫れ物にでも触るようにその子と向き合うかも知れません。「本当にこれが自分に必要なんだろうか」「これが私の本当の気持ちだろうか」の疑問を差し挟む余地もないまま、或いは自分たち一人ひとりが抱えてきた固有の悲しさや切なさ、独特の生き難さを語る機会も奪われたままに、「吃音(障害)者」のレッテルでのみ理解され、自分が欲しない無用な配慮や誤った理解に縛られ、「とんちんかんな支援」を受けることになりかねません。しかも、吃音への「改善のための支援」や「困難回避のための支援」が結果を残すことはほとんどなく、教員もどもる子どもたちも疲弊していく姿が、私には想像されてならないのです。(つづく)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2026/04/22

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