〈NPO法人・全国ことばを育む会発行〉両親指導手引き書41 吃音とともに豊かに生きる 著者:伊藤伸二 定価400円 装丁A5版55ページ
吃音肯定の立場に立ちきり、それを前提とした取り組みを具体的に提示した小さなパンフレットの感想を紹介してきました。パンフレットに流れる思想は、NPO法人・大阪スタタリングプロジェクトが毎週金曜日に行っている、大阪吃音教室というミーティングと共通しています。 先月号で、NPO法人・大阪スタタリングプロジェクトに集う、どもる人の感想を特集しました。今月号は、感想特集の続編です。(「スタタリング・ナウ」2013.6.24 NO.226)
共振する思想―全国ことばを育む会パンフレットに寄せて―
坂本英樹(教員 どもる子どもの親 50歳)
従来のパンフレットがどんな内容、スタイルであったのかは知らないが、伊藤さん執筆の「吃音とともに豊かに生きる」はパンフレットの形ではあるものの、新刊一冊分の内容を有する重さ、質である。それはこのパンフレットが伊藤さん自身の人生を懸けた「当事者研究」から生まれたものであり、これからの伊藤さんの思索と行動を予感させる内容が記されているからであろう。アメリカの言語病理学の理論と歴史も日本の吃音治療と称する取り組みも伊藤さん自身とその仲間たちの経験を通して、自家薬籠中のものとして説明され、語られている。それは保護者、ことばの教室、通常学級の教員に語りかける言葉、提言にも貫かれている本パンフレットの基本姿勢である。その基本姿勢は一言でいうと「当事者性」ということであろう。
ウェンデル・ジョンソンは言語関係図を通して、吃音の問題はどもりの状態だけではなく、他者の反応と本人自身の吃音に対する受け止め方、認識にも関係すると説明している。シーアンの吃音氷山説も海面上のどもりの状態より海面下の感情、思考、行動に吃音の課題を見ている。つまり、吃音の課題はどもること自体にあるというより、どもることに対する自他の受け止め方によって心理的、社会的に構築されるという示唆である。だとするならば、「吃音を治す」という考え方では吃音の課題に対応することはできない。治すという考え方は吃音をあくまでも個人の中の病理と捉えるがゆえに、治療、訓練というアプローチに終始し、心理的、社会的に構築される吃音の課題を看過してしまうからである。
「問題には、それを構成するメンバーがいる」(ウェンデル・ジョンソン)わけであるから、伊藤さんはそのメンバーである保護者、ことばの教室、通常学級の教員に当事者である子どもとともに吃音の課題に向き合い、考えることが必要であると丁寧に語っている。吃音の課題を子どもと一緒に眺め、考えるというナラティヴ・アプローチでいうところの外在化の手法を使って、わからないことは子どもに聞き、相談し、対話する。一緒に考え、試行錯誤するという姿勢が、子どもが自らの課題にしなやかに対処できる力を育てることになるのではないか。伊藤さんが語るのは子どもとは位相の異なる当事者として自らも考え、悩みながら子どもと同行することであり、そういう姿勢をもつことが問題の構成メンバーの倫理であるということである。「吃音ワークブック」の編著者は伊藤さんと「吃音を生きる子どもに同行する教師の会」という名称であることを想起したい。
どもる子どもの親である私にとっては、「保護者の皆さんへ」の言葉が特に染み入るように伝わってくる。どもりの課題を超え、子育て全般に通じる提言であるからだ。「子どもの課題と親の課題は分離した方がいい」の指摘に打たれる保護者は多いのではないかと想像する。ことばの教室、通常学級の教員にとっても、その提言はどもる子どもへの向き合い方にとどまらない教育という営み自体を考えさせるものとなっている。吃音というテーマは子どもだけでなく、親として、教員として「よりよく生きる」ことを問うているのである。
このパンフレットは伊藤さんが出会ってきた多くのどもる大人、子どもの豊かに生きてきた姿を「エビデンス(根拠)」としている。吃音親子サマーキャンプでの子どもたちの姿はその最たるものであろう。吃音を治すということを「あきらめる」ことを勧めているこのパンフレットの読後感が不思議と明るく、希望を感じさせるのはそれゆえである。私はサマキャンでの子どもたちの姿を思い出しながらこのパンフレットを読んでいた。
本文前にはエビデンス以外にもこのパンフレットのキーワードとして、「当事者研究」、「ナラティヴ・アプローチ」、「レジリエンス」の概念が挙げられている。これらの言葉はここ数年の日本吃音臨床研究会、大阪吃音教室を中心とした活動の中での出会いによってもたらされたものだ。直接的には当事者研究は2011年の吃音ショートコースのゲストであった北海道・浦河の「べてるの家」の向谷地生良さん、ナラティヴ・アプローチ、レジリエンスはナラティヴ・アプローチの基本文献を翻訳し続けている愛知県がんセンター中央病院緩和ケア部の小森康永さんであり、ニュージーランド在住の臨床心理士、国重浩一さんであろう。しかし、これらの概念が伊藤さんの思考を先導したと考えるなら、それは大きな間違いだと言える。日本吃音臨床研究会、大阪吃音教室の活動の中にこれらの概念こそ使用しなかったものの、既にその実践があったのであるから。
保護者やスタッフの胸を熱くするサマキャンでの子どもたちの劇に取り組むたくましさやユーモアにあふれた表現力、話し合いや作文を通して得られる自他や吃音に対する洞察こそが、苦難に耐えて、自らを回復させるしなやかな力であるレジリエンスなのであり、参加者の語りと語りが織り合わさって豊かな物語を紡ぎ出している大阪吃音教室の例会はナラティヴ・アプローチの実践そのものなのである。参加者はこうした場の力に支えられて、自己概念を更新するという当事者研究を行っている。また、かっては当事者研究という言葉こそ使ってはいなかったものの、大阪吃音教室では特定の個人に焦点をあてたインタビュー形式の当事者研究の歴史も積み重ねているのである。それゆえ向谷地さんはショートコースの際に、「こんなところに鉱脈があった!」とべてるの家の実践との同時代性を発見し、何度も驚嘆したのである。
どもる当事者の活動はフィールドの異なる、同時代の他の貴重な実践、思想と共振する関係にある。いま私たちはそうした活動と繋がろうとしている。本パンフレットのキーワードは他の「○○とともに豊かに生きる」ことを志向する実践と繋がるためのツールなのである。
最後に「あきらめのススメ」と呼べるこのパンフレットと激しく共振しあう、向谷地さんの「前向きな無力さ」という言葉を紹介して、本稿を終えたいと思う。
「この無力さとは、決して敗北主義でも、現代的な虚無主義でもありません。私たちが信じているのは、お互いが無力であることを認め合ったときに、初めて泉のように場に満ちて湧き上がる”力”への信頼であり、無力さを知ったときに気づくありのままの自分の可能性です。それは、個人の努力や善意、もっている才能を超えたもののような気がします。さらに、ナラティヴ・セラピーの『無知のアプローチ』にも重なるところがあるような気がします。」(向谷地生良 小林茂編著 2013「コミュニティ支援、べてる式。」金剛出版)
悩む人たちに力を与える本
西田逸夫(団体職員 61歳)
伊藤さんが書いた、「全国ことばを育む会」の新しいパンフレットは、吃音に悩む子どもたち、そういう子どもたちを支援する立場の人たちに力を与えてくれる本だ。
事実を知るということは、厳しいことだ。最近大阪吃音教室の例会に来るようになった若い女性は、伊藤さんに初めて電話して「どもりは治らない」と聞いた日、一晩中泣いたと言う。
しかし、事実は裏切らない。その女性は、翌週に大阪吃音教室に初参加し、それ以来欠かすことなく、元気に例会に参加している。初参加の3時間で、彼女の表情がみるみる明るくなって行く様子はとても印象的だったし、常連参加者の私にとって嬉しいことだった。
その後、例会や、大阪吃音教室のレクリエーションの途次に何度か話したが、彼女はいつも、その3時間の感動を、活き活きと話してくれるのだった。
最初の電話で伊藤さんが語った、「どもりは治らない、でも、豊かに生きることができる」というメッセージが彼女に伝わったからこそ、彼女は例会に来たのだろうと私は思う。例会に初参加して、そのことを確信したからこそ、彼女は元気になれたのだとも。
この、「どもりは治らない、でも、豊かに生きることができる」というメッセージが、「全国ことばを育む会」の新しいパンフレットには幾度も繰り返されている。「基本前提」「保護者の皆さんへ」「ことばの教室の先生へ」「通常の学級の先生へ」という章立てが、伊藤さんが同じメッセージを繰り返すことを助けている。パンフレットの目的に沿って、違う立場の人たちにそれぞれに適した切り口で語りかけるという構成が、伊藤さんのまだ余り広範には知られていない考えを読者に伝えるのに、まことに適しているのだ。
そして最後の章、千葉での講習会の話も、単なる付録ではない。伊藤さんの考えが、吃音の子どもを持つ親御さんたちに短時間で伝わっていった日のことが、活き活きと再現されている。冒頭に書いた、若い女性の例のように。
僕なりの生の形
堤野瑛一(プログラマー 34歳)
「どもる事実を認められるには、(略)切羽詰まった状況に追い込まれるなどがないと難しいようです」―僕自身が、まさにそうだった。幼少の頃からどもっていた人とは違い、16歳からどもり始めた僕には、吃音が「治った」状態というものが、イメージとして明確にあった。必ず元に戻るはずだと考えたのは自然だったとも思う。そしてどもりを、悪しきもの、劣ったもの、人生を阻むものと決めつけ、「治す」努力に明け暮れた。どもりの状態で社会に出て行くのが嫌で嫌で仕方がなく、今は治療に専念しているという免罪符を片手に、人生を先延ばしにし続けた。そして、一向に治る兆しもないままに歳を重ね、ずっと働かないでいるわけにもいかず、いよいよ窮地に立たされてようやく、「どもる事実を認める」に至った。どもりを隠し、話す場面や対人関係を築くことから逃げ続けていたのでは到底味わえなかった豊かさが開けた。借り物の衣装を着て背伸びをしていたのでは得られなかった信頼関係を人と築くことができ、真剣に悩み抜いたからこその多くの学びがあった。パンフレットにある伊藤伸二さんの体験談と自分の体験が(僭越ながら)重なり、しみじみと思う。
かねてより、いわゆる科学的な観点から人間を説明し尽くそうとする現代の風潮には反感を覚えているので、「脆弱性モデルからレジリエンスモデルへ」というテーマには共鳴する。「吃音検査」は、あたかもどもりが、対人関係を離れてそれ単体として捉えられる病理であるかのように見なし、「多次元モデルによる評価法」などは、弱さや強さ、不幸と幸福さえも、普遍的な尺度として存在するかのように論じる。科学者、研究者からは「脆弱性」「エビデンス」などいうこれみよがしの言葉が口を衝いて出るが、あまりに軽々しく聞こえる。ことどもりに関して言えば、そういった議論は空虚であり、どもりの問題はあくまで、いかに生きていくかということとしてのみ成り立つ。どもること自体は不幸ではない。どもるという表面的なことにのみこだわり、人生そのものをないがしろにし続けることが不幸である。
「レジリエンス」というキーワードに即して、自分の経験をたどってみた。たとえどもること自体不便なことであり、そのことで多少の苦難に見舞われようとも、意気込みもし落ち込みもしながら、その時々で結局は切り抜けてきたし、器用なやり方ではないかもしれないが、それなりの生活していく術を身につけてきた。僕なりの形を築いてきた。曲がりなりにも、生きている。その生の形は、平凡では築きえなかった宝ですらあると思える。こんな僕でも……というのが、率直な思いである。科学的な議論は、そういった人間の可能性をはなから度外視している。人間を説明し尽くすどころか、かえって小さく収めようとしているように思える。
「吃音とともに豊かに生きる」―狭い治療室での空論ではない、リアルなこのメッセージが、多くの人のもとに届きますように。
吃音とともにどう生きるか
上殿香緒里(主婦・パート 29歳)
吃音と共にどう生きるかが大事だと感じました。治したいと思っている人が「吃音とともに豊かに生きる」を読んだら前向きに吃音を考えられるようになると思います。吃音を否定するのではなく吃音を肯定するのはなかなか難しいことだと思いますが、吃音を治す努力よりも吃音と共にどう生きるのかを考えるきっかけになる本だと思いました。吃音の原因を見つけることや吃音についてのマイナスイメージを持ち続けるのではなく、吃音と向き合い吃音を受け入れてどう生きていくかを考えることによって吃音はプラスのものに変えられると感じました。
今は吃音の当事者として吃音と向き合っていますが、将来子どもが産まれ、子どもがもし吃音だったら親の立場として子どもの吃音とどう接し、向き合うか今後にも役に立つものだと思います。(つづく)
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日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/10/23


