人間、とりあえず主義
「人間、とりあえず主義」、このタイトルで掲載されていた、精神科医なだいなださんのエッセイが好きでした。このタイトルそのものも好きでした。僕が考えていたこと、大切にしてきたこととほぼ同じで、講演の中でもよく使わせてもらっていました。
今日、紹介する「スタタリング・ナウ」2013.6.24 NO.226の巻頭言がこのことばで、ほとんどが引用でした。このような一面、巻頭言はかつてなかったことで、読み返しても、自分でびっくりするくらいです。「吃音の常識」を変えていこうとの提案をしている僕は、よほど、このなだいなださんのことばを紹介したかったんだろうなあと思います。
人間、とりあえず主義
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
第10回吃音国際連盟・オランダ大会から帰国し、精神科医のなだいなださんが亡くなったことを知った。筑摩書房の宣伝冊子「ちくま」に毎号掲載されていた巻頭のエッセー「人間、とりあえず主義」が読めなくなるのが、とても悲しい。
勝手に私の応援団の一人だと思っていた。ほとんどの主張は、私が言いたいことだった。この夏、金子書房から出版される『吃音の当事者研究』で、なだいなださんのこの「常識」を使わせていただいた。これまでの「吃音の常識」を変えていこうと提案したのだった。あまりにも長いのは、常識に反するが、是非知ってもらいたいので引用する。
「心理療法家は、真理を売る人ではなく、常識を売る人だ。「こういう見方をしてみると、世の中がよく見通せるようになるよ」「住みやすくなるよ」という。常識を変えてみることを提案する。
精神科医、心理学者、ソーシャルワーカー、看護師は世俗的な職業としてやっている。そこに回復した患者さんが自助組織を作って加わる。それぞれが、異なる宗教を持っていても問題はない。信念にもとづいてではなく、常識にもとづいて、仕事をするからだ。心理療法家は、自分が常識人だとの自覚を片時も失ってはならない。間違っても聖職だなどと思わないことだ。常識は一人一人違う。国、文化によっても違う。時代によっても違う。送ってきた人生によっても微妙に違う。しかし、それにもかかわらず、常識は、自分一人のものでないという意識に支えられて成り立つ。《これは常識だ》は《これがわたしの考えだ》ということとは違う。地面の上に立っているように、人間はその常識の上に立っている。常識の地面は他の人の地面ともつながっている。そういう感じを表現しているのだ。そこから、他の人と共有しているものという感じが生まれる。自分の考えであると同時に、他の人たちと共有しているという感じに支えられている。
常識は生まれた時には持っていないが、18歳ぐらいになるといつの間にか持っている。18歳くらいまでに、人間の内部に形作られる。心理学者は、それを人格とか、自我という言葉でも呼ぶが、ぼくは常識の形成と呼ぶ。一般の人にもその方が分かりやすいだろう。一般の人々は、《人格形成ができているか》といわれても実感が湧かないが《常識を持っているか》と、聞かれれば、《持っている》とすぐに答えられる。実感できるからだ。常識は実体的に感じられている。だから心理療法で常識を変えることもできるのだ。常識は絶対的なものではないから常識なのだ。いまある常識が、古い常識として捨てられ、新しい常識に取って代わられることを、日常見ているから、自分の常識が変わることも、可能性としていつも頭に置いている。ぼくたちは、日常会話の中で「新しい常識はこれよ」「それはもう古い」「むこうでは、これが常識よ」というが、その程度に、すでに常識は絶対的でないということを理解している。だから常識は変えることが可能なのだ。常識の変化が歴史と平行した方向性を持っている時、成長するという。ぼくたちは患者を成長させるように努めるし、また自分自身も成長するように努める。
心理療法の仕事をしていれば、時折、自分のやっていることと、自分の考えとの間に、矛盾があることに気付く。自分の常識について、考えてみるべき機会に恵まれたことであり、治療者にとって患者を治療することが、自分の成長につながることを実感する。
矛盾を問題として考えることで常識は新しくなる。年輪を増やすように成長する。それが考えることと常識の関係だ。与えるのはヒントだけで、その後、一緒に考えたりしない。考えるのは、ヒントを与えられたそれぞれの治療者だ。人間は他人に代わって、考えてあげることはできない。それは、おのおのがしなければならない。人生をだれかに代わって生きてもらうわけにいかないのと同じだ」『アルコール依存症は治らない《治らない》の意味』(中央法規2013年3月)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/10/22


