対話を通して、生き方をみつける
「吃音の秋」のスタートは、ちば吃音親子キャンプでした。僕は、対話の大切さをずっと語り続けています。どもる子どもと接することばの教室の担当者には、子どもとの丁寧な対話を通して、子どもが幸せに生きるためにできることを探ってほしいなと思っています。
どもる大人とも、対話を大切にしています。毎週金曜日に開いている大阪吃音教室もそうですし、今月開催する新・吃音ショートコースも、そして、毎年1月に開催している東京でのワークショップも、参加者との対話ですすめていきます。
今日は、2013年1月、東京北区の北とぴあで開催した東京ワークショップの報告を紹介します。これまでの東京ワークショップの中でも、特に印象に残る対話でした。昨年、今年と2年連続して新潟から吃音親子サマーキャンプに参加した人との出会いは、このワークショップでした。(「スタタリング・ナウ」2013.4.23 NO.224)
《伊藤伸二・吃音ワークショップin東京》
対話を通して、生き方をみつける 1
東京都北区北とぴあ 2013.1.13
参加者は、遠く熊本県や秋田県から、どもる当事者、ことばの教室の担当者、言語聴覚士が参加しての、総勢16名。濃密な7時間を過ごしました。そのごく一部ですが、紹介します。 参加された16人のやりとりの時間もたくさんあったのですが、紙面の都合上、参加者のうちのお二人に絞って、伊藤伸二との対話の中で紡ぎ出されたことばを拾ってみました。。
1時間かけた自己紹介
ひとりひとりが参加の動機を話していくと、自己紹介だけで1時間。自分と吃音の関係についてみんなで聞き入り、ワークショップの場の共通基盤ができたような気がした。これから始まる濃密な時間を予感させる幕開けとなった。
治(なお)ると治(おさ)まる
伊藤 吃音は自分の力で治すものではなく、自然に変わるものだ。五木寛之さんの本に、治るではなく、治まるとの文章があった。まさに吃音は、どもることを認めて話していくうちに、治まっていくものだと思いますが、どうですか?
松原 どもりは認めるのは難しい。やっぱり治りたい。なんで他の人と違うのだろうとか考えてしまう。
伊藤 僕も21歳まで認めるなんて考えもしなかった。でも、一旦認めてしまえば、なんで、みんな認められないんだろうと思ってしまう、不思議なものです。たとえば、自転車に苦労してやっと乗れるようになったはずなのに、苦労したことを忘れてしまう。パソコンも、上手な人には何のこともないことが、苦手な僕には、とても難しい。似ている気がする。
吃音は、言語訓練ではなくて、どもって生きる覚悟をいかにするかで、そのための勉強と練習が必要です。アメリカは吃音はコントロール可能と、言語訓練をしているが、ほんとに大事な、吃音と共に生きるための覚悟、覚悟するための練習はしていない。カナダの大学院を出て、言語聴覚士になり、3年間、働いた池上久美子さんが、カナダでは、吃音とともに生きる発想がないし、誰も教えていないと言っていました。15年間、500万円をかけて一生懸命訓練をした人が、前よりはどもっているけれど、もうあきらめたみたいだと言っていた。
治ることをあきらめるしかない
伊藤 治る確実な方法があるのなら、がんばってもいいが、100年以上原因も分からず、訓練法もない。この事実は認めざるを得ない。世の中には、治せないもの、治らないもの、解明できないものは、山ほどある。その中のひとつが吃音だと考えた方が、どもる当事者としては生きやすい。なぜあきらめられないのか。どうしたらあきらめて、どもる覚悟ができるのか。このことを松原さんとまず、対話することから始めましょう。
なぜ認められないのか
松原 人に迷惑をかけている気持ちがあるから。
伊藤 あなたはそんなにやさしい人ですか。
松原 いい人なんですかね。
伊藤 どもる人間が電話の受付をしていたら、会社に迷惑をかけると言います。僕は具体的に、会社に金銭的にどれくらいの損失を与え、どんな迷惑をかけているのか、と問います。あなたの場合、小学校の教師としての仕事を全うする中で、誰に、どんな迷惑をかけているのか、思いつく範囲で出してみて下さい。皆さんも、教師の仕事は想像ができるでしょうから、子どもや保護者や同僚や地域社会や大きくは国に、どんな迷惑をかけているか、ちょっと出してみて下さい。
どんな迷惑をかけているのか
松原 子どもたちに対しては、スムーズに授業が展開できない。具体的には、「教科書○ページを開きなさい」がうまく出なかったりする。
伊藤 何分くらい迷惑をかけたんですか。
松原 いや、10秒とか、秒の単位です。
伊藤 あなたが言う、スムーズに授業の展開ができないのは、10秒くらいの問題ですか。
松原 ことばに関しては、それだけ。もっと別に、力量がないというのもあるかもしれない。
伊藤 それは、吃音とは全然関係がないことでしょう。教師としての力量と、今、おっしゃいましたね。もし、そうなら、教師としての人格的なこと、教材研究など、本来教師としてしなければならない努力をしなくても、僕に力量がないのは、吃音のせいだと、吃音はいい教師になるための努力をしないことの格好の言い訳になりますか。
松原 言い訳ではないです。
伊藤 僕からすると、言い訳に聞こえます。迷惑をかけている中身として、ことばがスムーズに出ないことと言ってすぐに、力量ですかねと言ったのは、自分自身には力量がある程度欠けているという自覚があるのですか。
松原 うーん。卒業式や入学式など儀式的行事のとき、呼名で迷惑をかけていると思う。厳粛なムードの中で、式が進行するのですが、どもっていると、滞って迷惑をかけるなあと思います。
伊藤 実際、かけたんですか。
松原 そのときには、3秒ほど。(笑い)
伊藤 僕も、通信販売の注文で名前が言えない。どもらない人の3倍はかかる。でも、長くて30秒もかからない。それを迷惑と考えることを考え直した方がいい。迷惑というのは、今大阪で問題の、子どもに体罰を与えたり、いじめを知って隠蔽する教師です。子どもに、保護者に、まじめにやっている同僚に迷惑をかけている。教師として、迷惑をかけるということは一体どういうことなのか。本質から目を反らすのに 吃音は格好の材料となる。後でゆっくり考えて下さい。他には。
松原 電話ですね。
伊藤 どこに電話するの。
松原 かかってきた場合、小学校の学校名が出なかったりすると、相手が聞きにくいと思う。
伊藤 それで、相手は損失を受けたり、迷惑をかけられたりしますか。
松原 いや、ないですね。面と向かって話をしていて私がどもると、相手が顔を下に向けます。きっとどういう対応をしていいのか悩んでいるのかなと思います。多分、私は、相手のことを考えすぎるんですかね。
伊藤 相手の目、ということでしょうか。
松原 相手の目や気持ちがとても気になります。
伊藤 他にはどう。せっかく九州から来たんだから、この際、恥と思うことも出していって。
松原 恥は、いっぱいあるんですけど。学校とは別にでもいいですか。自己紹介の時話した、剣道の話ですが、審判をするとき、「はじめ」の「は」が出ない。決勝戦の審判は3人で、主審が、「はじめ」「やめ」「二本目」「分かれ」の決まったことばを言う。私は「はじめ」が出ない。前までは、「二本目」も出なかったんですが、言いにくいことばは、そのときどきで変わる。決勝戦で、保護者も大勢いる会場で、ことばが出なかったら、ざわざわする。決勝審判を断ったことがあり、逃げたなあと思い、迷惑をかけたかなあと思います。
伊藤 あなたが決勝の審判をやめたことで、試合は流れてしまうんですか。
松原 流れはしませんけど。
伊藤 誰かが代わってくれますか。
松原 1回はトイレに行きたいですと言って、代わってもらったこともある。車の中では言えるのに、なんでですかね、。
伊藤 それが、吃音というもの。車の中では、「二本目」でも「はじめ」でも言える。練習すれば、練習の場ではできるようになる。よくどもっていた人がスピーチセラピストの訓練室ではあまりどもらなくなると、アメリカの言語病理学者は、どもりが何%軽減された、自分のセラピーは成功したと言う。練習の場だと思うとできる。僕は、上野の西郷さんの銅像の前や山手線の電車の中で演説をしましたが、練習だからできる。生活の中の本番でできることが大事です。練習してそれが本番に生きるような訓練法があるのではないかと思うのは、大きな幻想で、間違い。僕らは、発語器官や呼吸器官に問題があるわけではない。一生懸命練習しても何の役にも立たない。でも、あなたの「はじめ」や「やめ」や「分かれ」は、即解決ですよ。
サバイバル「・じめ」でも「・・め」でもいい
伊藤 「はじめ」の「は」が言えないんでしょ。今度から決勝の審判、十分にやれますよ。僕がおまじないをかけましょう。
松原 よろしくお願いします、ぜひ。
伊藤 僕がやってみますよ。「はははは、は、はじめ」となるから、嫌なんでしょ。では、大きな声で、「・じめ」。
松原 それ、「・じめ」でしょう。
伊藤 「はじめ」と聞こえませんか。
松原 はい、聞こえます。(笑い)私も、それ、したことあるんですよ。
伊藤 それでいいじゃない。なんでだめなの。
松原 でも、「・じめ」も難しくなって、「・・め」と言ったことがあります。(爆笑)
伊藤 いいじゃない。それでだめなら、文句があるのなら、文句がある人が審判をやればいい。決勝の審判をする力量の人は、あなた以外にもいるでしょ。
松原 はい、います。
伊藤 できないことはできない、他の人に代わってほしいと正直に言う。僕がすると、「ははははははは、はじめ」となりますが、それでもいいのなら、私はやりますが、いいですかと言う。
松原 それも恥ずかしい。そこの意識の改革というか、伊藤さんみたいな覚悟がまだ無理です。
伊藤 何か訓練で身につけることなら、難行・苦行ですごく難しい。「はははははじめ、でいいなら、僕はやるが、具合が悪いなら、他の人がやってほしい。剣道の指導は、一生懸命やるから、審判は無理です。でも、「・じめ」、「・・め」でいいならやります」と、条件闘争をすればいい。剣道の人たちに吃音のことを話していないんですか。
松原 全く。いや、ひとりだけいます。
伊藤 よく、吃音を他人は理解してくれないと言いますが、これはどもる人の怠慢です。自分が隠しながら、相手は何を理解するんですか。理解のしようがない。「はははじめとなるので、審判は自分はできません」「そうですか。じゃ、審判はいいです」となるのが、理解するということでしょう。
ポイントが分かってきました。あなたも、どもることはいけない、マイナスの、かっこ悪いもの、恥ずかしいこと、ネガティヴなものと、強く考えすぎている。どもると信用してくれない、ばかにされる、能力が劣っていると見られてしまう、という相手の評価が耐えられないのですね。
僕たちは、自分がもって生まれた、この顔、このからだ、自分のもっている条件でなんとか折り合いをつけて生きている。僕の家はとても貧乏だったので、「お金があったら、こんなに苦労しなくても済んだのに」とよく思いました。そう思っても、事実は変えようがない。貧乏だったから、大学に行くためには、新聞配達店から大学に通う選択肢しかなかった。僕は、大学の受験料も、東京での大学生活の費用も全部自分で稼ぎました。
でも、僕が東京に行ったのは、吃音を治すためで、民間矯正所の東京正生学院に行くことだった。だから、新聞配達店を夏休みにやめて、東京正生学院の寮に入り、1ヶ月、一生懸命治すためにがんばった。でも、治らなかった。新聞配達を選んだのは、住み込みで食べさせてもらって働けることと、どもる僕でもできると思ったから。新聞配達店に戻る選択もあったが、どもりは治らなかったのだから、話す仕事でも何でもしようと、3畳一間の家賃の安いアパートを借りて、アルバイト生活をした。
神田駅のガード下の美人座というキャバレーに勤めたときは、「とととととりのかかかか唐揚げ、こごご五人前」と調理場に言ったら、「忙しいのに、早く言え」となぐられたこともあった。嫌なことはいっぱいあったけど、バイト生活をやめたら、東京での大学生活ができなくなる。そのときに、貧乏でなかったらと思ったこともありました。
僕は、どもるテーマをもってしまった。じゃ、それとこれからどう折り合いをつけて、生きていくかを考えなくてはいけない。僕は、どもりながら、いろんなアルバイトをしたときに、ひとつの大切なことに気づいた。どもる人間には、話すことの多いセールスはできないと思っていたが、学習研究社の子ども百科事典のセールスやデパートの売り子、キャバレーにも勤めた。その中で、どもっていても、人にそんなに迷惑をかけることはない。中にはなぐったり、嫌なことを言う人もいたが、基本的には人間はどもるからといって、ばかにしたりすることはないということを、実際に経験して分かった。
経験しないと、~に違いないとか、こうしたら~と思われるだろうとか思ってしまう。これ、全部想像です。迷惑をかけているだろう、子どもは変に思っているだろうは想像の世界。どうですか。
松原 私の妻は分かってくれて、どもっていても、全然問題はないと言ってくれる。吃音のことを泣いて話したときには、考えすぎよとも言われた。
どもっても、それで人格が否定されるわけではない、と。否定されないばかりか、むしろ、私が剣道で指導しているときに、どもると、考えて話をしているんだろうなあと思われる。
伊藤 かしこい人に見られるんだ。(笑い)
松原 ことばひとつひとつが重いと言ってくれたりする。すごくどもったのに、そういうふうに、見てくれる人も、たくさんいるんだなあと思いました。でも、指摘されたり、真似されたりした小学校の頃のことを思い出すと、スイッチオンになる。
伊藤 僕も、どもりのくせに、とからかわれたりしたから、昔はスイッチオンしてました。僕には、いまだにスイッチオンの場面がある。僕は友だちが一人もいなかったから、修学旅行や運動会、遠足が恐かった。誰か一緒に弁当を食べてくれるか不安だった。ひとりで食べていると、周りからあいつはどもりだから友だちがいないのだと思われる。そのスイッチオンはいまだにある。僕は今でも宴会や懇親会が苦手です。生活に支障は無いので、孤独への恐れがずっと残っていても仕方ないと思う。松原さん、みじめな自分の記憶をいつまでもスイッチオンしていたら、損でしょう。
スイッチは、もう取り外そうよ。今から新しい人生を生き直せばいいじゃないですか。むしろ、どもっていても、あなた誠実ねと言ってくれたり、かしこく見えたりのスイッチオンを信じて、そのスイッチオンを増やしていく。そのためには、やっぱり恥をかいたり、嫌な思いをしたりという経験を突破していかないと、昔のスイッチオンからは抜け出られないじゃないですか。
松原 はい。覚悟を決めようかなと思います。
伊藤 決めるのは簡単。簡単ですよ。禁煙は簡単だとよく言うじゃないですか。
松原 はい、禁煙は、簡単でした。(笑い)
伊藤 禁煙が簡単だという人は、禁煙を覚悟するんだけど、また吸うでしょ。やっぱりだめだと思って、また、禁煙をする。その繰り返しで、何回も禁煙している。だから、覚悟を決めたとしても、微動だにしない覚悟なんてないですよ。一度決心をして、自分はこの道を歩んでいこうと決めることは誰でもができる。でも、それはときに、決心が揺らいだりするのは仕方がない。人間、そんなに強いものじゃない。それも認めていかなきゃ。でも、一度、私はこういう生き方をしようと覚悟を決めてほしい。そして、動き始めたときに、あっ、どもっていても聞いてくれる人はいるなあ、仲間はいるなあという経験をする。そんなスイッチを集めるために、肯定的な物語を集めるためには、やっぱり行動しなきゃいけない。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/10/14

