体験を語り、書くこと
ナラティヴ・アプローチは、語りを変えたことを、周りの人に報告する会や、宣言文のようなものを書いて、自分の新しい「語り」を定着させることが大切だといいます。人は、人生を変えるような体験をしても、話したり書いたりしなければ、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、その体験の記憶は少なからず薄れていくようです。
60年間という長い年月、僕は、常に語り続け、書き続けることで、新しい発見、新しい気づき、新しい体験、新しい価値観、新しい考えを自らのものにしてきました。僕のこの経験から、最近、「体験から経験へ、そして学びへ」と、ふりかえりや他者とのやりとり、書物などからの知識の取り込みなどで、体験を体験のままにせず、学びへと変えていく大切さを話すことにしています。吃音にまつわる体験が、人生をよりよく生きる学びへとつながっていくのは、とても貴重でありがたいことだと思っているのです。「スタタリング・ナウ」2013.4.23 NO.224 より巻頭言を紹介します。
体験を語り、書くこと
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
卒業生の中に、言いにくい名前の生徒がいる。どもって名前は言いたくない。これまで、卒業生を担任することを避けてきたので、初めての卒業式だ。不安で怖くて夜も眠れない。どうしたら、苦手な生徒の名前が言えるようになるか。どうして、卒業式を乗り越えればいいか。
卒業式で生徒の名前が言えないと、卒業式を控えた教師から相談を受けることは少なくない。7年前のひとりの教師が、私に相談の電話をかけてきてから、卒業式を無事に終えた体験は、ひとつの良質な感動的なドラマを見るようだった。
彼に、この貴重な体験を文章にして欲しいとお願いした。同様の不安をもつ教師に役立つと思ったし、何よりも、彼が、今後それに似た課題に直面したときに、生かして欲しかったからだ。
私は、ベーシック・エンカウンターグループ、サイコドラマ、ゲシュタルトセラピーなど、いろんなグループにたくさん参加してきた。その中でいつも感じてきたことは、その中で得た大きな気づきがなかなか次に生かされないことだ。その時出された問題が、ある程度解決できて、よかったと思っても、翌年、あるいは2年たって、前と全く同じか、類似の悩みを、今直面している新しい課題のように話す人が、実に多い。
一度、体験したことが、その時の体験に終わり、類似の体験に生かされていない。だから、何年も同じようなところで蹟き、悩み、また、同じワークショップや、違うワークショップに参加して、同じような悩みを語っている。セルフヘルプグループでも、事情は同じだ。
だから、彼には、この素晴らしい体験を、しっかりと自分のものとして欲しかった。文章にして、何度も振り返り、読み直すことで、問題の本質をしっかりと把握して、自己概念にまで組み込んで欲しかった。しかし、彼は私の強い要望、すすめにもかかわらず、体験を文章にしなかった。語りをやめた。私たちに文章として送ってこなかったけれど、この「スタタリング・ナウ」の購読を続けてくれていることからも、あの体験は、しっかりと彼に根づいていると思っていた。
その彼が、東京吃音ワークショップに参加を申し込んできた。再会がうれしかった。
自己紹介の時、彼は、吃音の悩みを妻に初めて話そうと決心したとき、話す前に、30分も号泣してしまったと話した。この自己紹介を聞きながら、不思議な思いがした。彼は、私とのやりとりの中で変化していったことを忘れていたのだ。
妻に打ち明けた後、再び私に電話をかけてきたので、私は、これまで隠し続けてきた吃音を、子どもにも、校長や同僚にも話し、相談して、助けを求める、みんなに吃音を知ってもらう、いい機会にすることを前提にした上で、こう対処したらどうかと提案した。
①どもった時は、どもるにまかせて最後までどもっても言い切る。
②最初がんばってみるが、どうしても生徒の名前が出ないときは、教頭に代わって言ってもらう。
一大決心をした彼は、子どもたちに自分の吃音の悩みを話し、無事に卒業式を終えて、涙ながらに夫婦で私に喜びの電話をかけてきた。
教師として、これだけ大きな、貴重な経験をしながら、その体験をおぼろげに、部分的にしか覚えていないことに、私は大きな衝撃を受けた。彼の体験は、周りの人に「語り」「文章にする」ことをしなかったために、身につかなかったことになる。
ナラティヴ・アプローチは、語りを変えたことを、周りの人に報告する会や、宣言文のようなものを書いて、自分の新しい「語り」を定着させる。
常に語り続けること、書き続けることで、新しい発見、新しい気づき、新しい体験、新しい価値観、新しい考えを自らのものにしていく。
大阪スタタリングプロジェクトが、「ことば文学賞」をつくり、書き続ける文化をもっているのは、改めて、意義あることなのだと思った。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/10/10

