吃音をテーマに生きるということ ~2012年度第23回吃音親子サマーキャンプ報告~
今日は、8月17日、1週間後の今日は、第34回吃音親子サマーキャンプの最終日で、今頃はすべてのプログラムが終わり、ほっとしている頃でしょう。
サマーキャンプの会場の真正面に掲示している横断幕は、毎年、大阪吃音教室の徳田和史さんが手書きしたものです。徳田さんも、長くサマーキャンプのスタッフとして参加していたのですが、今は、横断幕を書くことで参加しています。僕たちは、徳田さんが心を込めて書いてくれた横断幕のもとで活動しているのです。
2019年の吃音親子サマーキャンプのときに卒業して、結婚の承認になってほしいと申し出てくれた鈴木葵ちゃんも、今は参加していませんが、こんなメールを送ってくれました。「もうすぐキャンプですね。気持ちが熱くなる感じ、分かります。行きはしませんが、キャンプ期間になると、ソワソワします。今、作文の時間かなあって思ったりもします。吃音を通してつながりができていくのは素敵ですね。体調に気をつけて、キャンプ楽しんできてください」
大勢の人が、いろいろなところでかかわってくれている吃音親子サマーキャンプ、人の温かさとつながりの強さを思います。
今日は、第23回吃音親子サマーキャンプの報告です。明日に続きます。(「スタタリング・ナウ」2012.11.20 NO.219)
吃音をテーマに生きるということ
~2012年度第23回吃音親子サマーキャンプ報告~
掛田力哉(大阪府立高槻支援学校教員・大阪スタタリングプロジェクト)
1.はじめに
8月24日(金)から3日間、「第23回吃音親子サマーキャンプ」が行われた。キャンプの締めくくりは、初参加の親全員による「ふり返り」のことばである。その冒頭、一人の父親がことばを発しようとした瞬間、突如込み上げてくる自分の涙に驚いてひと時沈黙してしまった。父親はぐっとその涙をこらえながら「本当に来てよかった」と会揚の参加者を見回し、自分の子どもへ柔らかな眼差しを向けた。
私はその姿にこそ、このキャンプの力、ひいては吃音の持つ大きな力を感じずにはいられなかった。それは、別の父親のこのことば「ここに来る前は、子どものためとばかり考えていた。しかし今感じるのは、他でもない自分自身の人生や生き方をふり返らせてもらう3日間であったということ」に凝縮されているように思われる。
吃音は、ただそれを治療の対象と見なす医師や臨床家たちにとっては、「不自由な言語の症状」でしかないのであろう。しかし、このキャンプに集まる子どもたちや親たち、そこから巣立っていった若者たち、それを支えるスタッフたちの姿は、吃音が私たちの人生そのものに関わり、時にそれを大きく変えるほどの力をもった深く豊かなものであることを、私たちに教えてくれる。
吃音は、どもる当事者にとってはもちろん、それに関わる多くの人たちにとって「人生のテーマ」となり得ることを、私は今年のキャンプに参加しながら改めて確信した。
スタッフ事前合宿の様子や、これまでの私自身とサマーキャンプとの関わりなども含めながら、今年のサマーキャンプの様子を報告する。
2.スタッフの事前合宿より~吃音親子サマーキャンプとの出会いから~
7月21日(土)、私は大阪市内の寺院にある合宿所に向かっていた。今年のキャンプで子どもたちが取り組む劇、「コニマーラのロバ」の見本を演じるため、私たちスタッフは1泊2日の合宿で台本を読み、役を何度も変えながらひたすらに劇の練習をしていくのだ。
合宿所に到着すると、早速懐かしい顔がいくつも見えた。ドキドキしながらドアを開けると、何の違和感もなく温かく皆さんが出迎えてくれる。全国各地から集まった懐かしい人たちが笑顔で、やさしくことばをかけてくれる、この宝物のような時間。練習の間は、脚本・演出の渡辺貴裕さんの優しくも厳しい指導に時にピーンと張りつめた緊張の時間が流れる一方、ほとんどの時間は冗談話に花が咲いて、笑いの絶えることがない。合間には、伊藤さんのおならが「潤滑油」のように鳴り響き、みんなが慣れた顔でそれを受け流したり、笑顔で仰ぎ返したり。人を大事にする誠実さ、まじめさ、真剣さ、厳しさ、尽きることないユーモア…。ほぼ10年ぶりに参加したこの合宿の人たちが、以前と全く変わらなかったことに驚き、心から幸せな思いに満たされていた。そして、一人孤独に吃音に悩み苦しんでいた子ども時代には想像だにしなかった、この温かで朗らかな人たちとの出会いは、不思議なことに他でもない吃音がくれたものであることを、改めて思い返していた。
10年前、書店で偶然に見つけた伊藤さんの本を読み、どうしてもその人に会いたいと願って大阪へ来てから、私の人生は大きく変わっていった。大阪教育大学特殊教育特別専攻科に入学し、思いもよらなかった教師への道を目指すことになった。また、伊藤さんに誘ってもらった大阪吃音教室に通うようになり、「論理療法」や「交流分析」など、これまで自身が「すべて吃音のせい」とばかり考えていた自分の人生の「うまくいかなさ」の原因が実はそうではないのではないかと気づかせてくれるたくさんの学びに出会った。
また、どもるからこそ「話すこと」、「聴くこと」、「書くこと」、「伝えること」とはどういうことなのかと、人一倍誠実にことばやコミュニケーションについて考え、学んでいる大阪吃音教室の人たちとの出会いを通して、その場を繕うことばかりを考えていた不誠実な自身のコミュニケーション、ひいては生き方そのものに否応なく気づかされ、それらをひとつずつ見つめ直していくきっかけをもらっていった。そして、「できればどもりたくない」「恥ずかしい」という気持ちは否定せず、そんな思いを持ちながらも、やりたいこと、やるべきことをどもりながらやっていけるという大阪吃音教室の人たちの生き方は、何より「楽しく生きる」人生の基本を私に教えてくれた。
そんな折、吃音親子サマーキャンプにスタッフとして参加させてもらうことになった。自身の学びや経験を子どもたちに伝えられるチャンスとばかり意気揚々と出かけたが、現実は全く逆であり、私自身が子どもたちに教えられることばかりの3日間を過ごすことになった。話し合いでは、幼い子どもたちが、「本当はどもりたくない」、「恥ずかしい」、「バカにされて悔しい」と胸の内の苦しみを分かち合いながら、それでも自分たちの吃音を客観的に見つめ「どもることは本当に悪いことなんだろうか?」と自問する姿に心底驚かされた。
そして特に衝撃を受けたのが、劇の発表である。暗黒のような子ども時代からずっと、セリフのある劇はもちろん、ダンスやスタンツ、歌や楽器など人前で行うあらゆる表現活動から逃げ続けていた私にとって、どもりながら生きいきと演じ、己の力を試している子どもたちの姿はただただまぶしく恰好良く、私はその子どもたちを前に、ことばを失うばかりだった。そして、声を出すこと、ことばを発すること、何かを思いきり表現すること、誰かに伝えること…は、本来この上なく楽しく、嬉しく、エキサイティングな営みであるのだという自明のことを、私は子どもたちにやっと思い出させてもらったのである。
あれから10年、その後も何度かサマーキャンプのスタッフをさせてもらったが、やはり引っ込み思案の私は、心のどこかで「スタッフの見本としてする劇の役でセリフをもう少ししゃべってみたいな」とか、「劇の練習で、もう少し思うことを言ってみたいな」とか思うものの、「自分がしなくても、他にできる人がたくさんいるし…」と考えるとつい後ろにさがってしまっていた。
しかし今年の事前合宿、私はなぜか無性に、あのキャンプの子どもたちのように、自分の力を試してみたい気持ちにかられた。「人まかせ」の生き方を、少し変えられるチャンスのようにも感じた。配役決めのとき、思い切って手を挙げ、初めてセリフの沢山ある役につくことになった。吃音がなければ出会えなかった温かい人たちに囲まれ、吃音がなければ決して挑戦することのなかったことに挑戦する。これこそが、正に吃音親子サマーキャンプなのではないか!。私もやっと子どもたちに少しは追いつけるだろうか。待ってろよ、子どもたち!。そんな思いで、私は1泊2日の合宿を駆け抜けていった。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/08/17

