世界に誇っていい日本の吃音臨床
今日は、「スタタリング・ナウ」2012.2.20 NO.210 の巻頭言を紹介します。
タイトルだけを見ると、なんか大きなことを言っているようですが、妄想ではなく、僕は本当に心から、そう思っています。アメリカ言語病理学がいつまでも吃音の、いわゆる症状にこだわっているのと違い、さまざまな分野から学び、子どもとの対話をすすめている僕たちの周りのことばの教室の実践は、世界に誇っていい臨床だと確信しています。
世界に誇っていい日本の吃音臨床
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
日本の、また世界の吃音研究・臨床は、いつまで、どもることばを「吃音症状」として治療する立場をとり続けるのだろうか。
1970年頃、ジョゼフ・G・シーアンは、吃音を氷山に例えて、吃音の問題の本質をとらえた。
「みんなに見えている吃音症状は、吃音の問題のごく一部で、本当の問題は水面下に隠れている。吃音を否定的にとらえることで起こる、ネガティヴな感情と、話すことを回避する行動だ」
それから40年以上、シーアンの提案を受けてアメリカ言語病理学は臨床を進化させてきたのだろうか。何ひとつ変わらないどころか、後退しているように私には思える。シーアンの提案は、アメリカでは軽視され、日本の私たちが評価し、積極的に紹介して臨床に生かしている。
昨年12月、アメリカの言語病理学者、ネブラスカ大学のヒーリー教授の「CALMSモデルによる評価・臨床」の講演を聞いた。最新と言われるこのモデルは、従来の焼き直しに過ぎなかった。
Cognitive(認知領域)、Affective(心情領域)
Linguistic(言語力領域)、Motor(発話技能領域)
Socia1(社会的領域)
多面的に吃音を評価をするものの、5つの領域を同じレベルに置き、シーアンが「吃音症状」よりも大きな問題だとした、吃音の問題の本質をとらえた視点はなくなった。そして、結局の臨床は、吃音症状の軽減でしかなかった。
昨秋、全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会(全難言協)全国大会が北海道で行われた。私も、大分、島根、宮崎、大阪、東京、山口の全国大会で吃音分科会のコーディネーターをさせていただいた経験がある。今回は、吃音分科会で発表する渡邉美穂さんの応援として参加した。
9年前、この全難言協北海道大会で発表し、つらい体験をしたことをずいぶん聞いていたからだ。そして、私も、北海道で同じような経験をしているから、彼女の発表を見守りたかった。
1999年、北海道大学での日本特殊教育学会で、私は「吃音親子サマーキャンプの10年」を発表した。サマーキャンプは、「どもっても大丈夫」を前提に、吃音の治療・改善を目的とせず、吃音とつきあうことで、親や子どもがどう変わっていったかを発表したのだが、吃音分科会のふたりの座長の大学教授から厳しく批判された。
「吃音は治るのに、どもったままで大丈夫だとする発想は危険思想で、吃音の研究や臨床を遅らせることになる」との批判だった。「それでは、あなたたちは治せるのですか」の私の質問に、さらに批判は強まった。「吃音を治す、治した」について、このような公の場で議論するはいい機会だと、反論をしようとしたが、残りの時間は充分あったにもかかわらず、一方的に批判されただけで、議論は打ち切られた。
そのような経験があったために、さまざまな思いを抱いて、参加したのだった。そして、胸をどきどきさせながら、吃音分科会の会場にいた。
「どもりカルタ」「言語関係図」「吃音氷山」など、実際に使った教材を元にし、子どもの様子や子どもの発言を中心に据えた実践発表は、自信に満ちて、説得力があった。「私はあなたとは違う」と、吃音の治療改善を目指している人の発言があったが、次々と出される他の質問や感想は、好意的なものばかりだった。渡邉さんの実践の意義が確実に伝わっていると、うれしかった。
薬づけの精神医療でなく、「治せない、治さない」と自ら名乗る精神科医が、「薬」に変えて「仲間」を処方する「べてるの家」の実践が、精神医療現場で注目を集めるようになった。これは、「当事者研究」などの具体的な方法論をもったからだろう。
「吃音をオープンに話す」が、吃音症状について話すしかできないアメリカ言語病理学に比べ、吃音の問題の本質に向き合い、話し合う方法論を持ち始めている日本のことばの教室の吃音臨床は、世界に誇れるものではないかと、私は強く感じた。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2025/06/28